ピエドラ川のほとりで私は泣いた(続)

 
 こうした心の変化が、子供時代のメダルを差し出され、幼馴染に告白されるシーン、見知らぬ街でワインに酔いながら彼が歌った歌を、私の気を引くために歌ったのだと思い、心揺れるシーン、夜更けのバルのなかで、堰を切ったようにキスを交わし、その後ベッドインに到りながら、聖霊の言葉を心に誓うシーン(このシーン、私のなかで、なぜかカッチーニのアヴェ・マリアが流れ出した)、などなどの、雰囲気ある恋物語とマッチしている。
 神の女性性の象徴、生命の源である水も、噴水、霧、井戸、滝、ピエドラ川などの姿で、随所に現われて、雰囲気を醸している。
 
 が、修道士についてのカトリックの教義や、マリア信仰と絡んでくると、すっきりとは分からなくなる。

 幼馴染が、修道院か結婚かの二者択一に解答を出すために彼女に再会した、と知った彼女は、彼が自分のそばで、修道士とは別の方法で神に任える道を選ぶよう、戦うことを決意する。が、彼が、神から与えられた癒しの力を神に返し、普通の人間として彼女と暮らそうと決意した、と知った途端、ショックを受けて彼から去る。聖母マリアは、男に対する女の愛を、分かっていたのだろうか、と問う。
 彼を愛する故に、これまでの安定した生活を捨て、癒しと女神信仰の布教という苦難の道を、彼とともに歩むことにした彼女と、彼女を愛する故に、苦難に彼女を巻き込まぬよう、苦難の道を捨てることにした彼。互いに、相手のために自分の大切なものを手放した後に、互いがすでに手放してしまったものに添えるものを相手に贈る、というすれ違い。
 ……が、まあ、ハッピーエンドなのはよかった。

 私には、ともに歩み、ともに暮らす(今は暮らしてないけど)パートナーがいて、幸福だと思う。

 画像は、コロヴィン「窓辺」。
  コンスタンティン・コロヴィン(Konstantin Korovin, 1861-1932, Russian)

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