マクトゥーブ(続)

 
 「内部社会」には、いくつかの共通した特徴がある。

 「内部社会」は、一般社会の内部に、社会に模して、社会から閉鎖する形で、形成される。それぞれ、その存在を正当化する独自の「原理」を持ち、その「原理」故に、構成員にとって、「内部社会」は一般社会の上位に位置するものとなる。また、「原理」は「内部社会」の最高位の「知」となる。社会のあらゆる「知」はその手段と見做され、また、各構成員の「知」も、それ以上となるのを妨げられる。「原理」の本質は不動であり、しかも閉鎖系であるため、「内部社会」は自浄機能を持たない。
 「原理」それ自体には拡大力、浸透力がないため、構成員が「内部社会」の担い手となって、外つまり一般社会に向かって、「原理」の拡大、浸透を努める。他方、構成員は、一般社会ではなく、「内部社会」のなかで、自己を実現し、人間関係を築こうとする。「原理」を理解しない社会や人間を過小評価し、あるいは攻撃、排除する。

 イメージとしては、閉鎖的で排他的、幾分洗脳的な、組織や集団、といったところ。

 ところで、「内部社会」にハマる人々にもいくつかの共通した特徴がある。

 まず、彼らには「キズ」がある。と言うか、「キズ」があるのだと思い込む。そして、その「キズ」をタブー視し、客観化するのを避けるようになる。
 彼らにとって、「キズ」は自分の「知」(分析や認識)が及ばない領域となる。彼らは自分のなかに、「非自由」の領域を抱え込む。が、一方で、一般社会にも同じ「非自由」が存在し、そこではそれが常に「知」に曝されているのを感知する。
 彼らは、自分の内にある「非自由」をそっとしておくために、一般社会から自分自身を囲う。その囲いのなかでだけ、自分が「自由」でいられるのだと思い込む。そして、絶えず自分と相談しつつ、その囲いを広げたり狭めたりする。
 
 「内部社会」は一般に、「原理」そのものを「知」(分析や認識)の対象とはしない。その意味で「内部社会」には、「知」を及ぼさずに済ます領域が存在する。 
 そこから、「内部社会」の「原理」が、自分のなかの「非自由」を克服したり、庇護したり、または癒したり、忘れさせたりしてくれる、と感じると、彼らはその「内部社会」に共感するかも知れない。また、その「内部社会」が、「非自由」を抱える一般社会を代替する、と感じると、その「内部社会」に足を踏み入れるかも知れない。
 そして、その「内部社会」のなかでなら、「自由」に生きることができるかも知れない、と感じると、彼らは「内部社会」のなかで、あたかもそれを社会そのもののように見做して、生きるようになるかも知れない。そうなると、「内部社会」それ自体の本質から、彼らは「内部社会」にハマってしまうだろう。

 やっぱり、「人格障害」の問題にぶち当たったことには意味があったらしい。が、もうこれを最後に本当に、この問題には時間を割くのをやめることにする。
 いざ、自由へ。

 画像は、ドラクロワ「狂女」。
  ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix, 1798-1863, French)

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