マクトゥーブ

 
 別にそうならなくてもよさそうなものなのに、まるで最初からそう決まっていたかのように、そうなってしまう。……こんな人生を、なんだか送ってきたような気がする。まるで本当に神がいて、面白がって私たちにちょっかい出しているみたいに。
 コエーリョを読んで以来、相棒は笑って、「そう“書かれて”いたんだよ」と答える。「マクトゥーブ」とは、「それは書かれている」という意味。

 コエーリョの思想は、世界にはキリスト教やイスラム教、仏教など、さまざまな宗教があるが、信仰する人々が神の名をどう呼ぶにせよ、神はみな同じなのだ、というもの。神は宇宙、太陽や地球、空や大地、山や川、木々の葉の一つ一つ、石の一つ一つにまで、自然物すべてのなかに宿っており、また、人間一人一人の心にも宿っている。だから人間が、曇りのない心でいるなら、神の示す真実を見て取ることができる。……こんな感じ。

 私は大学に入るまで、神さまというものを信じて、毎晩お祈りしていた。それは人格的なものを持たない、科学者や芸術家が言う「霊感」、宇宙の声のような存在だった。
 私の神は、私が語りかければ答えてくれた。そして、私の祈りを何でも叶えてくれた。子供の頃、私は自分の強運を、ひそかに「マイ・ゴッド」のおかげだと考えていた。

 大学で院生のハーゲン氏たちと知り合って、唯物論なんてものを勉強して以来、もう神さまに祈るのはやめてしまった。けれど最近、それを神と呼ぶかどうかは別として、相変わらず、やはり霊的な存在が常にいて、私たちに何かをやらせようとしていたのだ、と切に感じることが、よくある。
 
 私はこの4、5年のあいだ、自分たちにはもう、新たな問題など降りかかってはこないだろう、と思っていた。で、ここ半年、「人格障害」について調べる羽目に陥ったときには、この期に及んでなぜまたこんなことになったのか、と本気で疑問だった。

 で、最近、ふと気がついた。「人格障害」という表象(イメージ)ができてから、「内部社会(=一般社会の内部に、それとは別に、閉鎖的な形で形成される擬似社会)」に組み込まれる人間心理というものが、分かりやすくなっていた、と。
 私が「人格障害」の問題に出くわした意味は、つまり、そういうところにあったらしい。別に「人格障害」が、「内部社会」問題と直接に関係あるわけじゃないんだけれど。

 To be continued...

 画像は、バーン=ジョーンズ「運命の輪」。
  エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833-1898, British)

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