君に思う(続)

 
 さて、相棒の理性が問題とする“それ”とは、一言で言えば人間の尊厳だ。 

 善意ある人々なら、相棒の思惟を、いかにも相棒らしい、と言って放っておく。悪意ある人々なら、哲学臭だの瞑想癖だのと言って、わざわざケチをつける。
 だから、悪意ある人々だけが、相棒を怖れ、遠ざける。相棒は私を「鏡」と呼ぶが、彼もまた別の一つの「鏡」なのだ。

 ヘーゲル哲学(だと思う)に、「モメントに落とす」という表現がある。

 「モメント(Moment)」つまり「契機」とは、事物の全体とその発展とを規定する、本質的な要素のこと。事物は体系であり、様々な諸契機から構成されている。思考は、その事物を他の事物から区別し、規定を与える。
 この規定は当初、事物の全体に対する、つまり事物そのものに対する規定であるように見えるかも知れない。が、事物をより深く洞察すれば、それが全体の一面にすぎないことが分かる。その規定が、全体のなかでどの一面、どの契機を担うのかを示すことを、一契機(モメント)に落とす、という。

 つまり、モメントに落とすとは、それまで普遍と思われていたものを、より普遍的なもののなかの、単なる特殊的な一側面として捉え直すことを意味する。この、モメントに落とすという思惟こそが、批判であり、だから批判は必ず体系を持つ。
 
 認識の過ちというのは往々、事物の一面しか見ない、あるいは見えないことから生ずる。世界は開放系であり、人間の脳もまた本来、開放系である。だから、認識の到らなさが原因なら、事物の他面を把握することで、その認識は容易に発展できる。
 が、大抵の場合、そうはならない。ある種の人々は、事物の一面だけに囚われ、執着するからだ。

 To be continued...

 画像は、ルドン「瞑想」。
  オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916, French)

     Previous / Next
     Related Entries :
       人間の普遍性について
       内部社会について
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 君に思う 君に思う(続々) »