上の句は、「棺一基 大道寺将司全句集」からのもの。写真の右側に書かれている。
刑事事件は、わたしの永遠の主題。民事事件では本人訴訟、とくに国賠は気になるところ。
古くは「反忠-神坂哲の72万字」、その後に優秀すぎて裁判官を忌避された息子さんを見て発奮したなあ。
作家の松下竜一さん、監督の若松孝二さんも参加した百人越えの、大型ガサ国賠(あ、これは弁護士ごろごろついてるから別格か)。
そして東アジア反日武装戦線の死刑囚たちへTシャツを送ろうとした「うみの会」の筒井主任。あのね、主任と言っても末端管理職じゃないんだよ。素人原告のなかで、九大法学部パワーで牽引した彼への尊称としての主任なのだ。水田ふうさんはじめ皆さん、とっても個性的。原告団長は、伊藤ルイさんだもんね。通信を読んでいるだけで、わくわく。ふふ、同時多発国賠なのかしらん、神奈川みみずの会も蹶起したっけ。
そして三浦和義あにきの大出版社への損害賠償請求の連戦連勝ぱちぱち。愛弟子の林眞須美死刑囚の訴訟群。連綿と続いていく本人訴訟。
福岡なので3回くらいした逢えなかったけど、その大先輩が亡くなった。
ヒソカねえさんの報告に、あらためて涙。(以下 転載)
筒井修さんが、2020年1月18日の朝、亡くなりました。
筒井さんは、1976年に福岡地区合同労働組合を結成し、「一人の首切りも許さない」「一人でも入れる合同労組」を実践し、全国に闘う仲間を作り、市民運動とも共闘してきました。筒井さんは、福岡地区合同労働組合の代表執行委員であり、福岡市民救援会の共同代表です。ここに、わたし個人の追悼という形で、筒井さんの闘病と逝去の経過を報告させていただきます。
筒井さんは、2018年春にひどい腹痛で入院しましたが大腸がんのステージⅣとわかりました。そのときに余命を2年とされていました。しかし、筒井さんは、手術して退院するとすぐに闘争に復帰し、以前と変わらず、労組の活動だけでなく、福岡市民救援会や死刑廃止、排外主義にNO!、きんしゃい金曜!脱原発行動など様々な活動の場に出ていきました。以前よりスマートになった筒井さんは「前よりカッコよくなった」など言われて、はにかむように笑顔を返していました。しかし、実は肝臓などにも転移しており、抗がん剤治療などを受けながらの復帰でした。
そして、昨年、肩の痛みで検査すると肩の骨への転移が見つかりました。痛み止めを打ちながらの活動になりました。しかし、筒井さんは以前より増して、活動の幅を広げ、出掛けていくようになりました。見かねて、わたしは自宅療養をすすめたことがありました。しかし、筒井さんは、首を横にふります。そこで、わたしは聞きました。「もしかして、筒井さんは闘争の現場で死にたいとか、そんなカッコいいこと思ってるの?」すると、筒井さんは、困ったようなはにかむような笑顔で、小さく「うん」といいました。それで、わたしは、「そう、わかった。だったら、自分の好きにすればいいよ。筒井さんの人生なんだから」と言いました。
わたしが、最後に筒井さんの顔を見たのは、2019年12月21日。死刑廃止・タンポポの会の通信発送の時に、筒井さんがお連れ合いと組合事務所に現れました。組合の書類作業に来られたようでした。
それから、間もなく12月24日に腹痛で入院し、年末年始は外泊で自宅に戻って家族と過ごせたそうです。しかし、筒井さんは次第に弱って、緩和ケア(ホスピス)に移る予定と聞きましたが、空きがなく、待って、1月17日午前に転院しましたが、翌12月18日朝に急変して亡くなったのです。転院して「余命1週間」と聞いていたので、「まだ1週間」あると思った翌日の訃報には大変衝撃を受けました。
12月19日に、福岡市東区松崎斎場で通夜を、翌日、同所で葬儀を行い、筒井さんを送りました。どちらも、宗教色のない形で、たくさんのお花で飾られた中に、筒井さんの写真。昔の写真のスライド、喪主の思い出、献花、弔事でした。両日とも150人くらいの参列者があり、たくさんのお花、弔電、「香典」が届けられました。斎場ロビーには、筒井さんや筒井さんの家族の写真、筒井さんの普段の持ち物などが飾られていました。たくさんの労働運動、市民運動の仲間、筒井さんの趣味だった合気道の友だち、弁護士・学者たち、関東や関西からも駆けつけてくれました。