救援連絡センター発行「救援」紙の、2面の連載コラムより
んもー。テキストファイルで送ってくれって頼んだのに<wbr />、まぜこせ。
前回は、四苦八苦して整形した。
今回は名刺広告の超お得意さま千恵子原稿を間違えたので、怒りぷんぷん。直す気力が無くなったの巻。
ちゃんと読みたいひとは「救援」買ってね。300円。
松田政男さんへ惜別と哀悼を
重信 房子 3月30日
松田政男さんの訃報を知り、<wbr />驚きと共に感謝を込めて惜別の哀悼を捧げます。
丁度、春分の日の彼岸に松田さんの訃報を新聞で知りました。<wbr />お会いして感謝とお詫びの数々を伝える機会を失してしまいました<wbr />。残念でなりません。
私が松田さんと初めてお会いした時のことが思い出されます。<wbr />69年8月ブントから分かれて丁度赤軍派結成総会が行われた前後<wbr />だったと思います。
塩見さんから機関紙に文章を書くのに、「<wbr />世界革命運動情報」<wbr />誌のバックナンバーが入手出来ないかと相談されました。<wbr />大学の友人Kさんが、<wbr />レボルト社にも時折出入りしていたので彼に貸してほしいと頼んだ<wbr />のですが、「自分はバックナンバーを揃えていない。<wbr />きちんと揃えて持っている人を紹介する」といって紹介されたのが、松田政男さんです。
<wbr />丁度本郷に「映画批評」編集室をつくり発行している頃です。<wbr />黒ずくめの服に濃いサングラスの小柄な人でナップザックも黒。開口一番「<wbr />ボクは失業革命家の松田政男です。40才までには、<wbr />革命で身を滅ぼすつもりで今生きています。」と挨拶されたので、<wbr />そのキザな科白にあっけにとられました。<wbr />
でもバックナンバーをきちんと揃えて貸してくれました。
この時、<wbr />私たちはブントから分かれて赤軍派を結成したことを話すと、大喜びで、<wbr />ブントの擬制的調和から純化して革命勢力が本気で斗うのを歓迎す<wbr />ると言って、何でも協力したいと申し出て下さいました。
松田さんは、<wbr />時々キザな驚くような科白を吐きますが、<wbr />それは本気でロマンと情熱の人であり、実務もしっかり編集長もこなしていました。
彼は「紹介魔」<wbr />と自分でも笑っていましたが、<wbr />これまで私が出会ったことのない個性的な文化・芸術・作家仲間や友人たちをたくさん紹介してくれて、<wbr />カンパや様々な便宜を図ってくれました。<wbr />
大島監督や創造社の仲間たち、五木さんや若松さん足立さんとのとっかかりも松田さんが作って下さったものです。
私も「世界革命運動情報」誌に学び刺激を受けて思索し、<wbr />赤軍派の路線を第三世界の斗いの側から捉え返したいと、<wbr />パレスチナへの斗いの参加を目指すことになりました。
松田さんは、<wbr />私がアラブに行った後も支援を惜しまず、71年秋には「赤ーP」<wbr />映画のフィルムをもってベイルートを訪
れています。
その後73年、第四次中東戦争時には、松田さん、<wbr />若松さん、佐々木守さん、<wbr />北沢正雄さんらと共に出版や情勢討議に熱中しました。
この時、松田さんは、<wbr />ベイルートからパリへと拠点を広げるべく出発しました。パリで「<wbr />赤ーP」上映など革命の文化戦線構築の役を引き受け、国内のIRF情報センターと連携し活動を始めました。<wbr />そんな時代です。
ところがその後、74年夏から秋の「パリ事件」<wbr />といわれたアラブ赤軍メンバーの逮捕をきっかけとする弾圧で、<wbr />松田さんは無関係にも拘わらず仏DSTに逮捕され暴行を受けた上で追放されてしまいました。<wbr />以来、旅券発給を拒否されていました。
2000年に私が逮捕された時には、<wbr />公判に証人として出廷され当時の斗いの意義を語り意気軒昂に検事<wbr />とわたりあっていました。松田さんには多くの友人たちの出会いの機会を作って下さり、<wbr />支援して頂きながら、様々な局面で迷惑をかけたまま、<wbr />お礼もお詫びも直接語る機会を失したまま今回の訃報を受けとることになりました。
その後も9・⒒、第二次インティファーダを経て、<wbr />檜森さんらと日比谷公園のカモメの噴水前でイスラエルへ抗議のハ<wbr />ンガーストライキに参加しました。
檜森さんが、パレスチナに連帯し自決した後も、<wbr />彼の意志を継いだ友人たちと毎月のイスラエル大使館への抗議行動<wbr />「パレスチナに献花を!」の活動を続けていました。
Oさんから、<wbr />松田さんが火災に遭われたこと、体調を崩されたことなど、<wbr />時折知らせて頂きながら案じておりましたが、獄にあって何もできず心苦しいことでした。<wbr />
革命を求め続け87才の寿命を生きた松田政男さん。「ご冥福を」<wbr />と祈りつつ「その言葉(ご冥福)はナンセンス」と嫌うかもしれないと、又、彼を思い出します。<wbr />どうぞ彼岸で新しい斗いを!と葬送したいと思います。

「革命の季節」と題す記録あり パレスチナの地...重信房子よ