早朝覚醒+夢見が悪く、ちょっと強迫っぽく不調気味な朝。
明日は今年一回目の草刈り行軍。どうやら雨は避けられない感じだ。
こんな時は逆に草刈りでも。久々のセロトニン放出作戦。
でもうちの周りは全部刈ってしまって(人の休耕田まで)もう今は刈るとこないし。
明日皆で刈る予定のところ(家のない山道)少し刈っちゃおうか、でもスタンドプレーもいいとこ。田舎では特にね。
でも、明日皆が少しでも早く終わればいいし、何より今後に備えて草刈り力を鍛えておかなくては。
いつも(の草刈り行軍では)草集め部隊だし、一度想い出にあそこ刈っておきたいわ、ということで、二時間半ほどで500mほど刈ってみた。
ま、ちょっとさっぱりしたかな?
ところで・・・
最近「ひきこもりの支援」という言葉を目にし、ちょっと違和感を覚えた。
ひきこもりは悪ではないというような文言も。
当たり前だ。
そもそも登校している子の親に「登校は悪?」なんて言わないだろう。
不登校はいけないこと、直さなくてはいけないことというような偏見が世間に多くあって初めて「不登校は悪いこと?」なんていう言葉が生まれる。
それと同じこと。
そういう世間の見方に対して書いているのだろうけれども、ひきこもりの当事者達にとっては(おそらくは不登校の当事者にとっても)、不快なものを感じるのではないか。
このくそったれな世の中や大人たちや親の価値観などに背を向けているだけかも知れないし、思い通りになりたくないと、わざと親がいやがることをやっていることもあるかも知れない。(僕は最初はそういう感じ)
僕が本格的にひきこもっていた頃、「自分でなんとかしなくちゃ」という思いはあったけれど、「誰かに支援してもらいたい」っていうのはなかったなぁ。
およそ10年のひきこもりの後、自助グループの存在を知り、自ら出かけて行くようになった。
支援という言葉にはどこか傲慢なものを感じてしまう。
他人にできることは傾聴や共感くらいのものではないか。
「ひきこもり」に限らず、「閉じこもり」「立てこもり」など「こもる」という言葉で表される背景には、本人の強い意志が存在しているのだ。
ある体験者の人が書いていらしたが、
「大切なことは本人がトンネルを歩き通すこと」
トンネルに穴を開けて引き出すのではなく。
そばにいる人は、一緒にトンネルを歩いてあげることくらいしかできない。
(靴ひもがゆるんでいたら直してあげたりね)
「大変だけれど、お互いに頑張って自分の道を歩き通そう」
と、僕は多くの物言わぬ同胞たちへ言いたい。