1960年10月30日北海道砂川市にて出生。
翌年には東京へ。そして千葉県八千代市の社宅へ転居。
小学5年生より東京お茶の水の日曜テスト教室へ通い、国立大の附属中を受験し合格。
小学校の卒業式は、友達と別れるのが悲しくて涙が止まらなかったのを覚えています。
附属中学校では、ぎすぎすとした雰囲気の中、いじめにも会いました。
一人か二人の首謀者とその他大勢の傍観者と協力者。
世の中は冷たい所、周りは敵ばかりなんだという世界観が
身に付いたのはすでにこの時期でした。
当時県内では学校群という制度があり、相当な高得点を
得ないと希望高校に入れないという不安だらけでしたが、
なんとか乗り切って、高校入試の得点は485点でした。
高校では中学時代とはうって変わって自由な雰囲気となり、
僕はミニサッカーの同好会を作ったり、合唱コンクールでは
ピアノを弾いたり、勉強も一生懸命にやり、恋もし、まさに
文武両道の素晴らしい青春時代でした。
今振り返っても素晴らしい思い出です。
人生で最高の時だったかも知れません。
いつまでも、あるいはもう少しこの幸せは普通に続くのだろうと、自分の洋々たる未来を疑いもしませんでした。
いよいよ翌年から初めて共通一次試験という一斉テストが
行われるという高校3年の夏休み、それまで勉強もスポーツ
も順調だった私は、突然机に向かうことをしなくなりました。
全国30万人の受験生が、時報を合図に一斉にマークシート
を塗りつぶす作業をするさまは、何かブロイラー工場の鶏の
ようなイメージを持ちました。
大好きなサッカーもできなくなり、なんだかつまらないな、
始めはそんな気持ちでした。
机にはほこりがたまるようになり、帰宅後は寝てばかりいる
ようになりました。
しかし高校へは通っていました。
翌年の受験は、第一希望の大学への点数に足らず、第二希望
の工業大学を受験するも、不合格となりました。
そして18歳、一浪の時です。
お茶の水の駿台予備校へ向かう、朝のラッシュの総武線車内で
起こった突然の吐き気。水道橋付近でした。たった一回の吐き気。
それがきっかけでした。
以来約30年、対人恐怖やひきこもりの問題を抱えて
生きてきました。
吐き気への不安から電車へも乗れず、友達と一緒に学生
食堂で昼ご飯を食べたり居酒屋へ行ったりすることや、
床屋へ行くことさえできなくなりました。
人前での発表では、市販の乗り物酔いの薬を飲み、口の中
に飴や乾燥梅干しをしのばせながら、なんとかこなしました。
一度でも皆の前で吐き気がしたらもう自分は終わり、という
ような気持ちでした。
そんな自分を必死に隠しながら、アップアップで大学院を修了、メーカーの研究職につきました。
でもそこでもう限界でした。
何年かひきこもり、その後も再び働いたりもしたのですが、
長続きはしませんでした。
精神的にはずっとひきこもりなのです。
いい大学を出て、いい会社に入ること、そんなあいまいな
ものを目指して頑張ってきたように思います。
でも、一方でそれは常に自分にとって重い目標だったのだろうと、今なら思えます。
知らず知らずのうちに、
白か黒か、ゼロか100か(all or nothing)、敵か味方か、
勝ちか負けか、完璧にこなすかひきこもるか、というような
中庸のない、偏った考え方が身についていました。
内なる自分の中で、「本当はもう何もしたくない」と叫ぶ自分
と「頑張って完璧にこなさなくては恥ずかしい」と強迫的に
追い立てる自分とが今も時々ぶつかり合っています。
メーカーを出社拒否、休職、退職し、30歳手前から再び
ひきこもり状態へ。
心療内科へも通うようになり、自律訓練法などを教えて
頂きましたが、効果はあまり上がりませんでした。
しかし、何とかしてこの対人緊張を治さなくては人生お先
真っ暗だと思っていました。
当時シャーリー・マクレーンという有名な女優さんが著した
精神世界の本や、日本のマスコミでブームとなっていた
霊的能力なんていう世界に興味を持ち始めていました。
自分の対人恐怖の原因を何とかして探りたかったのです。
今自分の生きているこの人生以外にその原因があるのでは、
と当時は本気でそれにすがりました。
でも結局それでも楽になるということはありませんでした。
1992年、今の奥さん、こいけと知り合います。
この人との出会いがあればこそ、今自分は生きていられます。
全く何もしないでいた時期にも、僕を支えてくれました。
ただ生きているだけで愛される、条件をつけない愛というもの
を初めて教えてもらったように思っています。
やっとACという概念を知ったのが1996年頃。
それから自助グループやインターネットで同じような体験を
持つ仲間達と出会い、交流を経て、少しづつ自分の生き方や
家族の偏った価値観に気づきました。
自助グループでのミーティングやネットの掲示板、メール等で
自分の体験を少しづつ言葉や文章にしているうちに、
恥ずかしい、恥ずかしいと否定ばかりしていた自分を少し
肯定的にとらえることもできるようになってきました。
自分だって頑張って生き抜いてきたんじゃないか。
世間体や結果ばかりを気にして、自分の本当にやりたいこと
など考えることもなく来てしまった自分。
電車の中で一回気持ち悪くなったくらいで、もう家から出られ
なくなってしまった自分。
テストで高い点数を取る、それが唯一自分が人より優れているところなのだと思いこんでいた自分。
過ぎ去ってしまった29年をやり直すことはもうできません。
自分の体験を少しでも生かしたいと思いました。
空気の汚れに敏感なカナリアという鳥がいます。
不登校やひきこもりの人達は、
"この世の中なんだか息苦しいよ"
と、声なき声で鳴くカナリアのような存在ではないでしょうか。
そんな子供達を競争競争で追いつめるのではなく、
ありのままの自分を受け入れ、自己肯定感を与えられる
ようなそんな塾ができないだろうか・・・
2000年4月、思いきって山里に古い民家をお借りして転居し、補習進学塾「カナリア舎」を開き、自宅の一室で小さな補習塾を始めました。
今もさまざまな事にそのつど苦しい、生きづらい自分を
感じます。自分は周囲に受け入れられていない、と針の
むしろにすわっているような気持ちになる日もあります。
でも、生徒さんを癒すどころか私の方が癒される、
そんな経験もするようになりました。(2008年1月)
2009年4月、近くで転居、築約100年の古民家と農地、山林などを購入。
正式に百姓となり、自然農による耕さない、無農薬、無肥料の、機械を用いない自給農業も始めました。
あべっち(2014年11月加筆)
先週のPET-CTの結果を聞きに。術後4年経過。 幸い再発の兆候は全く見られず、半年後の検診まで無罪放免となった。
ひと安心だ。手の入院手術に始まった今月の病院通いも、明日の手のリハビリ指導で終わりだ。
帰宅後は久しぶりにだらだらと炬燵で過ごす。
明後日は実家へ新米を持参することにして精米など。
親父ももうすぐ84歳。健さんと同世代か。 あちこち悪いのだがなんとかしぶとく生きている。
そういえば昨晩、健さんの遺作となった「あなたへ」を見た。
以前も見たのだが、劇中で田中〇子さん演じる妻の亡くなった病名を 健さんが言うシーンがあったのだが、それが健さんの報道された病名と同じだった。
偶然の一致なのだろうか。
ひょっとしてこの映画撮影前にはすでに、病気を告知されて、闘病をされていたのではないか、 そんなことを想った。