いよいよなつうつ本番か。ひたいのあたりが重い。
今の心療内科ってどこも完全予約制で、朝一で電話したり、直接行って希望してもその日なんていうのは無理なのな。ことの性質上、予約制は必要なことと思うけれど、一方で、「はいはい、割り込みはだめよ、ちゃんと順番に並んで」、って言われてるみたいでちょっと傷ついた。
ということで一応来週の受診の予約を取った。一応な。
今日行った心臓の方の主治医に頼んだら、さすがに抗うつ剤とかSSRIとかはびびって出さなかったが、眠剤は出してくれた。おとなしくしく出せ。
写真はビルボード誌。(1980年12月20日号)
当時どうやって手に入れたかは思い出せない。銀座のヤマハまで行ったのかも。
僕は当時二年目の浪人中で親元を離れ、小田急線沿いのK塾の寮にいた。前年後半は寝たきりだったのが嘘のように一番に寮を出て、ラッシュの電車に乗り、張り切って講義に、まぁさぼってパチンコ行ったりもしてたが。後輩にもなめられないように突っ張っていたな。
この”一番に”、ってのがちょっとね。
でも、同じような二浪の寮生もかなりいて、夜中こっそりと寮を抜け出してスナックへ飲みに行ったり、寮長の夜の見回りに見つからないようにこっそりと友達の部屋に集まって、酒飲みながら人生を語り合ったり、慰め合ったりとにかく腹割って話したな。つまみはキャベツと塩だけとか。
(予備校の寮だからね、規則は厳しかった。6畳の古い部屋に男が二人。ベッドと机だけでもう足の踏み場もなかったわ)
この寮長が、まぁ頑固なおじいさんで、ある晩見つかって、逆に僕は開き直って寮長室で押し問答したりした夜もあったな。
僕が翌年春、大学へなんとか受かって実家へと戻るとき、寮長が館内放送で「あべっち君が退寮します」って放送してくれて、同輩や後輩達が玄関まで出てきて見送ってくれたっけ。
あ、いかん、これ書いていたらぼろぼろ泣けてきた。弱ってるなぁ。
お世話になりました。
同じ釜の飯を食うことのこの得難い経験は忘れられない。
素晴らしい一年だった。
このときに、同じような境遇の仲間との出会いの大切さをすでに僕は肌で感じたのだった。今は皆それぞれの道を歩んでいるのだろうな。
何人かはまだ年賀状をやりとりしてる。
ただ・・・たった一つ辛い思い出が。
とある二人部屋(どちらも一浪生)で、一人の持ち物がひんぱんに無くなるということが続いて、その後輩が僕ら二浪生達に相談してきた。話を聞くとどう考えても同室のK君の仕業としか考えられなかった。
で、ある日僕らはK君を近くの喫茶店へと誘い、やったのかどうかを問いつめた。(激しくではないよ)
そのときK君は認めたのか認めなかったのか、それすらあまり覚えていないのだが、その話はそれで終わったと思う。確か部屋替えしてもらってその後は落ち着いたんだったと思う。
彼はその後、見事にH大へ合格。
しかし・・・その後風の便りでは、4年生の時に命を絶ったそうだ。
僕はあの寮のことを時々思い出すたびに彼のことを思い出す。
盗癖だったのかなぁ。可愛そうなことをしたな。
もっとあの時優しい聞き方があったのではないかとかな。
また泣けてきた。いかんわ。もう終わり。
長々と話がそれたけど、この雑誌はそういう頃のもの。
1980年度の年間チャートの他、直前に射殺された元ビートルズの
ジョン・レノンの追悼特集も組まれている。
これね、ここ半年くらいうちの教室の出窓で飾っていたけれど、それに気づいてコメントくれた人は近所で一人もいませんでした。それが一番の問題だよ。(苦笑)