団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

オートロック

2013年04月03日 | Weblog

 昨日、スーパーで買い物を終え駐車場の車に戻った。今の車は便利である。鍵を持つ私が車に接触すると自動的に車の施錠が解除される。リモコン式である。運転席の後の座席に買った商品を入れた買い物袋を置いた。運転席に座り車のエンジンをスタートさせようとした。突然左側の後部座席のドアが開いた。あれよあれよという間にひとりの老婆が乗り込んできた。私は鳩が豆鉄砲をくらったように驚き凍りついた。ドアが開いた時、私は瞬間的に暴漢が私の車に私を襲う目的で乗り込んできたと戦慄を感じた。まったく予期していなかった。油断大敵雨あられ。

 海外で暮らしていた時、転勤するたびに現地の友人たちに口うるさく注意を受けたことがある。鍵を開けて車に乗ったらまず最初に誰も潜んでいないかくまなく車内を調べる。特に後部座席。安全を確認したらすぐにドアのロックをすることである。人混みの多い道路で窓を開けて走行するなどもっての外だとも言われた。北米でもアジアでもアフリカでもヨーロッパでもロシアでも同じことを言われ続けた。日常生活に危険がたくさん潜んでいた。前任者や現地の人々の適切なアドバイスは多いに役立った。車で同じ時間同じ経路を走るな。家の鍵はたとえ数秒間出る時でも必ずかける。バスに乗る時は絶対に後部座席に座らないで運転手から見えるところにいる。

  日本では考えられないことである。それどころか日本の自動車はほとんどがオートロック化されていて、走り出してから数分経つとロックされる。私の家ではトイレさえも、外に出れば多くの建物のドアは自動化されている。甘やかされ過ぎだ。日本に帰国して9年。すっかり海外生活で身につけたリスク管理を怠っていた。

 今回の出来事で一番怖かったのは沈黙であった。老女は私の顔をにらむように見つめて、間違いに気づき素早く降りた。一言の言葉もなかった。動きに老いはさほど感じなかった。「間違えました」でもなければ、「ごめんなさい」でもない。老化による不注意かもしれない。日本人独特の気恥ずかしさで言葉を発せられなくなったのかもしれない。それにしては横柄というか、好感が持てる態度様子顔色ではなかった。70歳から80歳という年齢を考慮すれば、礼儀も道徳も弁えていて当然の域に達しているはずである。おそらく彼女が乗ってきた車も私の車と同じく白だったに違いない。老女が乗った白い車が私の車の前を通り過ぎた。後部座席に座った老女は運転席の夫らしい男性に話しかけていた。ちゃんと話せる人だった。普段私の車には妻しか乗らない。妻が乗る時は必ず助手席に乗る。夫婦で夫が運転席で妻が後部座席に座るのは、日本の珍現象のひとつかもしれない。

  もし彼女が素直に「あら、間違えちゃった。うちの車だと思ってうっかり乗っちゃった。ゴメンナサイね。失礼しました」とでも笑顔で言ってくれれば、私は「こんなこともあるんだ」と気を取り直したに違いない。沈黙の後味が悪かった。日本語を話す者どうしが、こんなことでいいのだろうか。暴漢に襲われたわけではない。被害だってなかった。世間から「気配り」「目配り」「手配り」があそこでもこっちでも昨日も今日も一つまた一つ消えてゆく気がしてならない。声を掛け合おう。話をしましょう。誰にだって失敗はある。許しを請おう。老いることは、しかたがない。しかし老いを言い訳にしてはならない。老いは歩んだ人生の結晶であってほしい。結晶は綺麗で光を放つ。人間の結晶の光は、言葉ではないだろうか。

  これからはせいぜい私も不用心に鍵をつけたままの他人の白い車を間違って運転して家に戻らぬように気をつけなければ。

 
 
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