団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

自殺と殺人

2014年08月11日 | Weblog

  先週火曜日、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センタ―長(52歳)が自殺した。首つり自殺だった。秀才研究者として世界に名だたる笹井さんの死に方に相応しくない。私は分野を問わず、その道に秀でた人を尊敬する。ましてやノーベル賞候補にまで上がっている笹井さんのような優秀な国際的な科学者は、日本にとってかけがいのない存在であった。

 仏教、キリスト教など宗教の多くが自殺も殺人も禁じているという。私が十代の後半に渡ったカナダのキリスト教の学校で“腹切り”と“カミカゼ”に関してのカナダ人アメリカ人の講釈を聞かされた。日本人は破れかぶれで何をしだすか予測がたたない危険な人種という偏見が根底にあった。

 そうは言っても自殺は、日本人だけがするわけではない。世界中どこにでもある。宗教がどれほど禁じても自殺者はあとを絶たない。私自身67年間の人生で何回か自殺してしまおうかと考えたことがある。今はあの時時に思い留まって良かったと思う。

 笹井さんが死を決意し、遺書をしたため、ロープに全体重を投げ出した瞬間まで、彼を死ぬことから引き離なそうとするいかなる力も及ばなかった。妻、子ども、仕事、責任、名声、業績、ノーベル賞、研究成果、新たな発見。私は秀才の重圧を知らない。人が全員秀才である必要はない。生まれてきてしまったのだから、できるだけ他人に迷惑をかけないように自由を享受して、私は普通に生き普通に死んでいきたい。笹井さんと私などの存在価値は比較のしようもない。それでもどちらも命は命である。

 なぜ、とどんなに考えても私ごときの者に原因究明などできるはずもない。笹井さんの輝かしい業績を称え、彼の死を惜しむばかりである。このところ私は鬱状態である。連日倉敷の小5女児監禁事件、長崎の女子高校同級生殺人事件、新潟県新発田市の連続女性不審死、東京都西東京市での父親による中2息子への自殺強要事件の報道に塞いでいる。切なくてやるせなく怒る。新聞も読まない。テレビも観ない。散歩と私が良い作品だと信じる本の活字の世界に逃げ込んでいる。情けない。情けないけれど散歩と活字に救われている。散歩は自分の足で土を踏みしめ、自然を吸い、見て、嗅ぐ。人間社会から私の存在を引き離してくれる。本の活字は、著者の熟慮か天から何かが著者に舞い降りてきて書かれている。耳や目は誤解を生み、自分のその時の感情により、いかようにも結論付けてしまう。活字は違う。著者の言いたいことを目で読み、情報を脳に送り、自身の経験、考え、教養などを総動員させて自分そのものが理解する。だから何とか自我に留まれる。

 どの事件にも笹井さんの自殺にも私には何もしてあげられない。逃げるのみである。ふがいない。私にできることは妻を大切にして毎日を感謝して生き伸びることだけである。最後までそう生きることが私の最大の業績になる。


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