団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

川名壮志著『謝るなら、いつでもおいで』

2014年08月05日 | Weblog

  長崎県佐世保の高1女子同級生殺人事件が起こる直前、本屋で『謝りたければ、いつでもおいで』(川名壮志著 集英社 1500円税別)を買った。2004年6月1日に起きた佐世保小6同級生殺人事件を徹底取材した本である。この本を買おうと思ったのは、『殺人犯はそこにいる』(清水潔著 新潮社1600円税別)の真摯な記者精神に感銘を受けた流れで自分の足で歩き回って取材する他の記者のノンフィクションを読みたいと思ったからだ。読みだした次の日の26日に高1女子同級生殺人事件が起きた。

 ラジオ・テレビ・新聞で事件の真相を知ろうとしたが無駄だった。私はラジオを聴くのをやめ、テレビを消し、新聞でこの事件に関する記事を読むのをやめた。どの番組でも「なぜこのような事件が起きたのか」と最初から大上段に迫ろうとした。いきなり“なぜ”を究明できるはずがない。しまいに“加害者の心の闇”で括ってしまう。清水潔著『殺人犯はそこにいる』を読んで、事件を取材するには被害者側のことも加害者側のこともしらみつぶしにコツコツと直に話を聞かなければならない。追い返され、誤解されても、何でも訪ね、頭を下げた。清水氏は17年以上かけて取材をした。川名氏は9年間をかけている。ところがテレビもラジオも新聞も専門家とかおよそ相応しくないコメンテーターに意見を求め、適当に尻きれ状態のまま終わらせる。いつも通り被害者の名前も写真をも躊躇なく出し、加害者のことは煙に巻いたように隠す。私はこのような不公平な扱いを認めない。

 『謝りたければ、いつでもおいで』を読むことにした。何か問題の理解につながることを見出せるのではと期待した。半日で324ページのハードカバー本を読み終えた。2つの事件を比較しながら被害者、被害者の家族、加害者の家族に思いを馳せた。もちろん加害者と被害者に直接取材できて、正直な告白を聞くことができれば、真実は明らかにされる。しかし被害者の命は加害者によって奪われてしまってそれは不可能である。まだ生きている加害者は国の法律で厳重に保護され人権を保障されている。直接取材はできるはずもない。少年法やもしかしたら精神鑑定によっていつかは、何もなかったように無罪放免される。佐世保小6同級生殺害事件の加害者は、すでに20歳を過ぎ社会復帰して普通の生活をどこかで送っている。

  本の題名になっている「謝りたければ、いつでもおいで」と言ったのは、佐世保小6同級生殺害事件の2歳違いの現在23歳になる被害者の兄である。事件後、鬱状態になり結局高校を単位不足で退学した。紆余曲折を経て単位制の高校を卒業して大学へ進学した。時が経つにつれ、彼は事件から立ち直り始めた。それはまるで少年法が理想とする加害者の可塑性な社会復帰の可能性を、皮肉にも被害者側の兄が実現した奇跡だと川名氏は書いた。ついに「謝りたければ、いつでもおいで」の言葉になった。私は、この本を読むことでまるで彼の脇に寄り添うことを許されていた感覚になっていた。理解もできず、慰める言葉さえ思い浮かばない。それでも一緒にいるという感覚を持てた。

 社会復帰した加害者が謝罪のために被害者遺族を訪ねるか否かは私には分からない。知りたくもないし、予測も願望もない。私自身は加害者を許すことはない。「謝りたければ、いつでもおいで」と言葉にした兄。そう語った兄の経緯や背景を活字にしてしてくれた著者。お蔭で、ラジオ・テレビ・新聞・週刊誌では得られない貴重な情報で私の佐世保の2つの殺人事件の見方が変わった。真実が明かされなくても、途中で投げ出さず、追求し対峙し続けて執拗に書き残してくれる人がいる。悲しくて、やるせない2つの事件だが、『謝りたければ、いつでもおいで』を読んで心の濁りが少し澄んできた。

 


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