団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

セミ共和国

2014年08月07日 | Weblog

  毎日暑い。散歩コースの途中で写真を撮った。どうということのない川と川まで迫る木々に覆われた山肌が写っている。写真は音を記録できない。気温も写らない。それでも写真を撮らなければならなかったのは、セミの共和国がそこにあるからだ。

 散歩全コースの周辺全域がセミに占領されているわけではない。家の前から300メートルくらいの桜並木が続く。どんなに暑い日でも川風と桜の木陰はひんやりして気持ちいい。その道路周りのセミは、もっぱら独唱にいそしんでいる。橋を渡って県道沿いの海までの道のりは約1キロある。海岸へあと200メートルぐらいのところにセミしぐれが集中しているスポットがある。そこを“セミ共和国”と私は名付けた。半端な音量ではない。何千何万というセミの音波は「ウワ~ン ウォ~ン フォ~ン」とあちこちに衝突をしては合併吸収を繰り返してのびたり縮んだりして山を下る。圧倒される。こんなセミの洪水のような合唱を聴いたことがない。私は長野県の生まれで山の近くで育った。長野でも独唱かせめて輪唱どまりであった。

  山はほとんどが広葉落葉樹ブナ、ナラ、クヌギなどである。セミの好きそうな木々である。以前から気になっていたのだが、セミは竹林にはいない。おそらくエサになる甘い樹液がなく、竹の木肌がすべすべでセミには止まりにくいのだろう。この地域の山もご多聞に漏れず、森や林は竹に浸食され竹林は拡大の一途である。だから竹林があるところでセミの合唱はぽっかり穴をあける。その真空地帯が音波伝達の移動に変調リズムを与え、総合音響効果を高める。

  気温が上がれば上がるほどセミは勢いづく。鳴き声からしてセミの種類はヒグラシらしい。低い山である。標高は100メートルくらい。山肌は樹木で覆われている。民家はない。セミから発せられる音はまず山頂付近で空に向かって大きく膨らむ。音の雲は山を越えた海からの風に押され一気に下り始める。標高の高いところの音が低いところの音を食い尽くす。次から次へと音の雲は同調合体しうねりとなって山の傾斜に沿って川に向かう。音のなだれである。

 道路側はアスファルト舗装の歩道と2車線の県道がある。道路の交通量は多い。自動車の騒音は、セミ共和国の民衆の叫びに打ち消される。山、川、道路の向うは、住宅地だ。住宅のまわりの庭の木々にも一匹オオカミのような離れミンミンゼミやクマゼミが単発で山側のセミ共和国に存在を主張して張り切って鳴いている。川と道路を挟んで山側の大音響、住宅地側の気の抜けたような受け一方の静まり。私は人間社会とセミ共和国との国境に立ち、セミの絶叫コンサートに耳を傾ける。

 毎年繰り返されるセミ共和国の時限立国の証人となる。川面にはすでにトンボが多く姿を現した。トンボは鳴かない。蝶が舞う。蝶は羽音さえ立てない。うるさかったアオサギも産卵子育を終え、松並木の頂きにある10数個の巣は空き家になった。季節はゆっくり次へと駒を進める。うだるような暑さの中、約1時間の散歩を終え、汗だくで家に戻った。冷蔵庫には手で絞った西瓜ジュースが冷えていた。ベランダからセミの鳴かない竹林を眺めつつ、腰に手を置き、冷えた西瓜ジュースを飲み干す。流れ落ちる汗が、耳にセミ共和国の残響を呼び戻す。


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