先日、ロルフィング1回目のセッションのことを書きました。
セッションの前に、インテーク面接があったのですが、その時間は私にとってとても意義深い時間でした。
ロルファーさんからの受けた質問の中で印象的なものが2つありました。
1)「どんな身体になりたいですか?」
2)「自分の身体で好きなところはありますか?」
1)については、「緊張から解放された身体」と答えたような気がする。
2)については、「ないなぁ~」
その時は、何となくそれで時は流れていったのですが、リフレクションはその後も続くもので、
2)については、「ない」ってどうよ。。。
嫌いなところは挙げられるけど、好きなところないんやってぇ?
ひどいなぁ、そりゃ、いつまでも身体と和解できんはずやわ。
元来、ドSでドMですので身体が悲鳴を上げていても聞かぬふりができ、身体はいつもないがしろ。
だからこそ、意図的にお手当てタイムが必要な訳で、
もっと日頃から少しでもいいから時間を割いて大事にしようよって思うのですが、
いつも疲れが溜まってから、痛みが強くなってからとか。
予防に勝る治療はないのになぁ。
そういうところを割愛して何に時間をとっているのか?
不適切なことを止めれば、適切なことは自然に起きるというけれど、何か止めた方がいいはず(汗)
メンタル面では、
昨年から、自分の勇気の足りなさとか軸がぶれぶれだったり、至らぬところに目が向く出来事が
いくつか続いていて自己嫌悪(I am not OK)の傾向は強く出ていました。
でも、右脳は主体を識別できないから他者嫌悪(You are not OK)でもあっただろうな(汗)
確かによくイラリともしましたし、憤慨もしましたし、他者コントロール願望もいつになく強かったなと。
そんな気づきがありました。
1)の質問については、
セッション最後にロルファーさんから率直に
「身体は緊張している時もあって、リラックスしている時もあって、でもいざという時に力が出せる身体になること」ですね、
とさらっと言われて、
そうそう、それが言いたかったんです。
でも、具体的に自分の言葉になっていないということは、ビジョン自体がまだもやもやだったんだと思う。
で、ふと思ったのは、ロルフィングもコーチングみたいに最初にビジョンメイキングするんだなぁ。
しかも、身体の外見のビジョンじゃない、動きのビジョン。
なるほど、数十年間慣れ親しんだ身体の動きのイメージを変えていくんだなぁ。
変容を目指すプロセスって同じなんだなぁ。
これは、これまで受けてきた治療系とは異なるプロセスです。
特に、凝りや痛みを解消しようとしている時って、気持ちが治療モードに入っていたものですから、
ビジョン自体は近視眼的なものになりがちだったなぁと思います。
まずは、今の痛みから逃れさえすればよかった。
この問いによって、施術直後に身体が楽になっているとか、背骨が整っているとかそういうことよりも、
いつもの自分の動きの中で、自分の身体が弛緩と緊張を繰り返しながらも、
慣れ親しんだ好ましくない姿勢や拙速で大雑把な動きを自分で修正できるようになっていたらいいな
と思うようになり、
最終的には「今、ここ」に自然に対処できる身体になっていることという明確なビジョンができました。
例え、痛みのある身体であっても、自分の身体を治療者に任せっきりにするのではなく、
自分の身体に責任を持ち、向き合っていくこと。
で、思うのは、身体は機械じゃないから「こうじゃなくては」という完全な動きって不要だし、一瞬一瞬が違う動き。
何か型にはめたり、意地になったりしないで、楽観的であることが大事だなと。
完全ではなく、自由であれ!
そして、もっと動きたがっている関節や筋肉があるはずなんで、そこをもっとブレイク(デビュー)させようぢゃないか!
(ふと、先日路上で見た女性の大道芸人さんのしなやかな腕、足、背中の使い方がフラッシュバック)
よきマインドセットができた、素晴らしい質問に出会いました。
セッションの前に、インテーク面接があったのですが、その時間は私にとってとても意義深い時間でした。
ロルファーさんからの受けた質問の中で印象的なものが2つありました。
1)「どんな身体になりたいですか?」
2)「自分の身体で好きなところはありますか?」
1)については、「緊張から解放された身体」と答えたような気がする。
2)については、「ないなぁ~」
その時は、何となくそれで時は流れていったのですが、リフレクションはその後も続くもので、
2)については、「ない」ってどうよ。。。
嫌いなところは挙げられるけど、好きなところないんやってぇ?
ひどいなぁ、そりゃ、いつまでも身体と和解できんはずやわ。
元来、ドSでドMですので身体が悲鳴を上げていても聞かぬふりができ、身体はいつもないがしろ。
だからこそ、意図的にお手当てタイムが必要な訳で、
もっと日頃から少しでもいいから時間を割いて大事にしようよって思うのですが、
いつも疲れが溜まってから、痛みが強くなってからとか。
予防に勝る治療はないのになぁ。
そういうところを割愛して何に時間をとっているのか?
不適切なことを止めれば、適切なことは自然に起きるというけれど、何か止めた方がいいはず(汗)
メンタル面では、
昨年から、自分の勇気の足りなさとか軸がぶれぶれだったり、至らぬところに目が向く出来事が
いくつか続いていて自己嫌悪(I am not OK)の傾向は強く出ていました。
でも、右脳は主体を識別できないから他者嫌悪(You are not OK)でもあっただろうな(汗)
確かによくイラリともしましたし、憤慨もしましたし、他者コントロール願望もいつになく強かったなと。
そんな気づきがありました。
1)の質問については、
セッション最後にロルファーさんから率直に
「身体は緊張している時もあって、リラックスしている時もあって、でもいざという時に力が出せる身体になること」ですね、
とさらっと言われて、
そうそう、それが言いたかったんです。
でも、具体的に自分の言葉になっていないということは、ビジョン自体がまだもやもやだったんだと思う。
で、ふと思ったのは、ロルフィングもコーチングみたいに最初にビジョンメイキングするんだなぁ。
しかも、身体の外見のビジョンじゃない、動きのビジョン。
なるほど、数十年間慣れ親しんだ身体の動きのイメージを変えていくんだなぁ。
変容を目指すプロセスって同じなんだなぁ。
これは、これまで受けてきた治療系とは異なるプロセスです。
特に、凝りや痛みを解消しようとしている時って、気持ちが治療モードに入っていたものですから、
ビジョン自体は近視眼的なものになりがちだったなぁと思います。
まずは、今の痛みから逃れさえすればよかった。
この問いによって、施術直後に身体が楽になっているとか、背骨が整っているとかそういうことよりも、
いつもの自分の動きの中で、自分の身体が弛緩と緊張を繰り返しながらも、
慣れ親しんだ好ましくない姿勢や拙速で大雑把な動きを自分で修正できるようになっていたらいいな
と思うようになり、
最終的には「今、ここ」に自然に対処できる身体になっていることという明確なビジョンができました。
例え、痛みのある身体であっても、自分の身体を治療者に任せっきりにするのではなく、
自分の身体に責任を持ち、向き合っていくこと。
で、思うのは、身体は機械じゃないから「こうじゃなくては」という完全な動きって不要だし、一瞬一瞬が違う動き。
何か型にはめたり、意地になったりしないで、楽観的であることが大事だなと。
完全ではなく、自由であれ!
そして、もっと動きたがっている関節や筋肉があるはずなんで、そこをもっとブレイク(デビュー)させようぢゃないか!
(ふと、先日路上で見た女性の大道芸人さんのしなやかな腕、足、背中の使い方がフラッシュバック)
よきマインドセットができた、素晴らしい質問に出会いました。
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