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松井とイチロー

2013-01-20 | 日記
2012年12月、松井秀樹さんが現役引退を発表しました。
彼は星稜高校~読売巨人軍~ニューヨーク・ヤンキースを初めとした大リーグ時代と、「野球」を通して長い間我々をワクワクさせ、そして沢山楽しませてくれました。
選手生活にピリオドを打つことは寂しい限りですが、ここで改めて「ありがとう」と言いたいです。

1990年代中盤以降、松井とイチローはタイプこそ違え、何かと比較されてきました。
強打の松井:天才、巧打のイチロー:秀才ではありますが、松井がワールド・シリーズでMVPを受賞した翌日の新聞は、
朝日「天声人語」イチローはカミソリ、ゴジラはナタ
産経「産経抄」記録のイチロー、記憶の松井と表現しています。

この2人は共に高校卒業と同時にプロ野球入りしていますが、私はその時以来ず~と注目して来ましたし、大フアンでもあります。
1つ先輩のイチローは、当時のオリックスの監督であった仰木さんが、それまでの鈴木(鈴木一朗)からイチローに変更して注目されましたし、松井は星稜高校3年の夏の甲子園で「5打席連続敬遠」ということで賛否両論となりました。
その後のドラフトで、長嶋監督自らがくじを引いて引き寄せたことで、当時巨人フアンでもあった私も大変喜んだことを覚えています。
2人がプロ野球に入団してからはリーグが異なるため、対戦することはありませんでしたが、1996年のオールスター・ゲームにおいて、打者松井の場面で、全パの仰木監督がイチローをマウンドに立たせたこともありました。
この時の全セの監督は野村さんでしたが、松井に代えて代打高津となったため、違った意味での2人の対決は見られませんでした。
オールスターがお祭りだとするならば、その対決は興味本位でも面白かったと思うのですが、野村監督は「野手には野手、投手には投手の役割がある」と言っていたそうです。

大リーグ時代の松井で輝かしいのは、デビュー戦のヤンキー・スタジアムで打った満塁ホームランと、2009年のワールド・シリーズで大活躍し、ヤンキースを9年ぶりの世界一に導きMVPになったことです。
また2006年5月11日、浅目のレフト・フライを取ろうと前進し、芝生に足がもつれ、グローブをはめていた左手首を骨折した時は驚きました。
その後リハビリのため、NJ州にあるヤンキース傘下の「Trenton Thunder」でプレーしたこともありました。
最近は巨人時代から痛めていたと思われるヒザの状態も悪化し、ヤンキースを離れた後、エンゼルス、アスレチックス、レイズのいずれでも満足な結果は出せませんでした。
一方マリナーズ時代のイチローは、毎年素晴らしい成績を残すもののチームが弱いため、モチベーションを維持するのも大変だったことと思います。
偶然ではありますが、大リーグの名門チームに2人の名前が刻まれたことも嬉しいことで、今年40歳になるイチローにはマリナーズ以上の活躍を期待したいものです。

私ごとではありますが、マイカーのナンバーは「51・55」です。
イチローの新天地での背番号は「51」から「31」に代わってしまいましたが、「51」は名外野手のバーニー・ウイリアムスが付けていたことで、自ら辞退したようです。

そして自宅には2人のバブルヘッド(首振り)人形があります。
イチローはマリナーズ時代のもの。
松井は2A時代のユニフォームのもので、当時2000個製作し、球場で配布されました。
ユニフォームは白地に黒ではなく青のピンストライプ、胸には「THUNDER」のネーム、背番号はもちろん「55」、そして帽子のマークはNYです。
この2人の首振り人形は、米国出張の折に探して購入しました。

 

                                                            
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