廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

チック・コリアの訃報に接して(2)

2021年02月28日 | Jazz LP

Chick Corea / Now He Sings, Now He Sobs  ( 米 Solid State SS 18039 )


のっけからヴィトウスとヘインズのカッコよさにヤラれてしまう、画期的なピアノ・トリオ。1968年にこのようなピアノ・トリオの作品が
出てきたことが驚異的だろう。それまでの誰にも似ておらず、これ以前には聴くことができない音楽だ。

ロイ・ヘインズがここまで現代的なプレイをしたのは、これ以前では聴いたことがない。繊細でいて大胆、触ると手が切れるようなリズムで
音楽を煽る。ヴィトウスの暗い音色が不気味に音楽に覆いかぶさり、この音楽に独特の陰影を与えている。

主流だったバップ系との決別を高らかに宣言し、以降のピアノ・ジャズのお手本になった。こういうのが出てきた影響で、例えばビル・エヴァンス
なんかは徐々に片隅へと追い込まれていくことになる。68年と言えば、エヴァンスは "Alone" やモントルー・ライヴをリリースしていた年だが、
もはや同じジャンルの音楽とは思えなくなってきていて、その距離感の大きさは否定しようがない。50年代から活躍してきた大物たちとは
価値観が違う若手が、それまでとはまったく違う感覚でジャズをやり出した、これはその第一歩だったと言っていい。

冒頭の "Steps - What Was" では曲の中盤あたりで突然美メロが出てきて、これがAメロだったのかと気付いて驚かされるのも、
チック・コリアならでは。既にこの頃からこういう作風だったんだなあと感心させられる。

現代ジャズの扉を開けたアルバムとして、このアルバムの存在の重さは計り知れない。 "Kind Of Blue" や "The Shape Of Jazz To Come" なんかと
同じ意味合いを持つ作品として評価しなければいけないアルバムだと思う。 そして、それが管楽器奏者ではなく、ピアニストが管を抜いて
やったところが象徴的だと思う。ピアノを管楽器や歌のバッキングという役割から解放し、スタンダードをきれいに歌わせなければいけない
ノルマからも解放し、ピアニストの存在こそがジャズそのものであると世に認識させたのではないだろうか。

この直後に、トニー・ウィリアムスの推薦を受けてマイルスのバンドに加わり、彼のキャリアは大きく前進していく。ジャズの最前線に立ち、
時代を動かしていくことになるチック・コリアの、これが最初の決定打。このアルバムは本当に素晴らしい。



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チック・コリアの訃報に寄せて

2021年02月22日 | Jazz LP (Verve)

Stan Getz / Sweet Rain  ( 米 Verve V6-8693 )


チック・コリアの訃報に接して、最初に聴きたくなったのはこの "Sweet Rain" だった。他の彼名義の代表作ではなく、なぜかこれだった。
そして、これを聴きながら、私にとってチック・コリアという人は「作曲の人」だったんだな、ということに思い至った。

チック・コリアとキース・ジャレットは、何かにつけて比較・対照される関係だった。同世代であり、マイルス・バンドでは席を分け合い、
その後の路線も近しく、比較するなと言う方が無理な話だった。どちらが優れているか、どちらが好きか、と話題は最後まで途切れる
ことはなかった。

私の場合はどちらが好きかというと、どちらもそれなりに好きだ、という感じだった。特にどちらかに深い思い入れを感じるほどではなく、
概ね似たような距離感で聴いてきたと思う。聴く頻度はキースの方が圧倒的に多かったけれど、彼らに抱いていた感情は同程度だった。
売れっ子だった2人は作品数が飛び抜けて多く、そのせいでマクロ的にはマンネリ感は避けようがなかった。いくら才能が豊かだとは言え、
すべての作品で新しいものを創るなんてことは、土台無理に決まっている。

音楽が本格的に好きになる人とそこまでではない人を分けるのは、演奏そのものに興味を持つかどうかだと思う。演奏そのものに感動を
見出すようになると、次々にいろんなアルバムに興味を持つようになり、それが1人の音楽愛好家を生む。

そういう意味では、キースはピアニズムで勝負した人で、私の関心はその1点に集中した。あまり好きになれない側面もそれなりにあるけど、
それでも彼のピアノとその音楽を飽きずに聴いてこれたのは、彼のあのピアニズムだった。彼はバンドを指向したり、抽象性を指向したり、と
もともとはいろんなことへ手を出していたが、ケルンのヒットにより、自身の方向性を運命づけられることなる。そこには感動的な
メロディーがあり、美しい響きがあり、そういうものが彼のピアニズムから生み出されたからこそ、私は彼のアルバムをよく聴いたのだ。

それに比べて、チックの演奏にはピアニズムを感じることはあまりない。エレピを多用するせいもあるし、ピアノの演奏の仕方や音楽への
アプローチが、音の美しさを売るというよりは、グループで生み出す音楽全体への指向であり、彼自身ピアニズムへの関心は薄かったように思う。
彼にバラード演奏の決定打が少ないのがそれを物語っている。"Crystal Silence" のような静謐な曲はあるけれど、あれはオリジナル・メロディーの
美しさがいいのであって、楽器の演奏自体はバラード奏法とは言えない音数の多さを見せている。

私が彼のアルバムを頻繁には聴かないのはそれが原因なんだな、ということが自覚できたのは近年になってのこと。私はチックが書いた曲は
とても好きだが、彼の演奏そのものにはあまり惹かれないんだな、ということを自分の中でようやく認めることができたような気がする。
だから、彼の書いた曲を見事な演奏力で描き切ったこの "Sweet Rain" が好きなんだ、ということが改めて腑に落ちた。

以前、モノラル盤をもとに記事を書いたが、その後ステレオ盤も入手し、両方楽しく聴いている。ステレオ盤は音場感が自然で、分離も良く、
チックのピアノの音がなかなかきれいに鳴っている。それでも、やはりゲッツの音楽性の巨大さに圧倒されるアルバムで、何かがここで
起こっていることがよくわかる。そして、それはチックが2つの楽曲に吹き込んだ新しい風が引き金になったんだろう。

R.I.P チック・コリア



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寄り道としてのシューベルト(4)

2021年02月20日 | Classical

Zhu Xiao-Mei / F. Schubert Piano Sonata No.23 D.960, L. V. Beethoven Piano Sonata No.32 Op.111  ( オーストリア Mirare MIR 157 )


シュ・シャオメイは日本ではバッハ弾きという程度の認知しかされていないだろうが、こうやってシューベルトやベートーヴェンも録音している。
どちらもそれぞれの生涯最後のピアノ・ソナタを取り上げた、いわばコンセプト・アルバム。シューベルトは第23番という表記になっているが、
一般には第21番ということになっているD.960のことである。先にも述べた通り、シューベルトの作品は現在もまだ研究中なのだ。

1949年に上海で生まれた彼女は文化革命時代の抑圧された生活から逃れるために欧州へ渡り、以降はフランスを中心にして活動している。
もう70歳を過ぎているのでリタイアしているだろうが、セーヌ川の畔にあるコンセルヴァトワール・ド・パリで長年教鞭を取っていた。

クラシックのピアニストは、コンサート・ピアニストとして世界を股にかけて飛び回るタイプと、音楽院で教師をしながらたまに請われて
コンサートを開いたり録音をしたりするタイプに分かれる。前者は人に聴かせるための派手なピアノを弾くし、後者は内面を見つめるような
演奏をする人が多い。彼女の演奏もアーティキュレーションは控え目で、作曲家や自身の内面を掘り下げていく。

シューベルトの曲を演奏して聴かせるということよりは、この曲を通して自分の想いを吐露しているかのような演奏で、それがいい塩梅で
バランスされている。こういう雰囲気でこの曲が弾かれた例はあまりなく、そこにこの演奏の価値がある。シューベルトのピアノ・ソナタを
覚えようとして聴くと上手くは馴染めないかもしれない。この曲を十分熟知した人が聴いて、その素晴らしさが身に染みるような演奏で、
そういう意味では聴く人を選ぶ作品かもしれない。

彼女のバッハもそういうタイプの演奏で、いわゆるバッハの雰囲気は希薄。そういうのを期待すると、肩透かしを喰らうだろう。
彼女は聴き手をかなりふるいにかけて落とし、何とか残った人だけに向けて語りかけてくる。



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寄り道としてのシューベルト(3)

2021年02月16日 | Classical

Maria-Joao Pires / F. Schubert Piano Sonata Nr.21 D.960  ( 仏 Erato NUM 75262 )


D.960はこのアルバムが発表された当時は第11番と表記されているが、現在では第21番ということになっている。

シューベルトの作品は生前楽譜が発売された(つまり正式発表された)作品があまり多くなく、彼の死後にロベルト・シューマンを始め、
数多くの研究家たちが彼の遺稿の山を掘り起こして、埃を払い、内容を検証して正式な作品として順番にリリースするという異例の作業が
続けられているため、タイトル番号が変わることがある。特にピアノ曲は、まだ正式な取り扱いをどうするかが決まっていない曲が
たくさん残っているのだ。

マリア・ジョアン・ピリスのこの録音は言及されることが皆無のアルバムだが、演奏の素晴らしさといい、録音の良さといい、この楽曲を
聴く上での決定盤の1つと言っていい。彼女はまずはモーツァルト弾きのイメージが強く、なかなかこの辺りまでは手が届かないのだろう。

深い森の中を流れる冷たく透き通った清流のような演奏で、それでいて表現としての充足度も極まっており、この楽曲に秘められた魅力の
すべてを享受することができる。技術的にも極めて高い次元で安定していて、聴いていて引っ掛かる所が何もない。
ペダルの使い方が上手く、音の響きが素晴らしい。フォルテも耳障りなところはなく、その音が濁らず美しい。

死の2ヵ月前に書かれた生涯最後のピアノ・ソナタとして、彼の万感の想いが込められているのがよくわかる演奏だ。
楽想に枯れたところはなく、ますますみずみずしい。ここで作品が途切れてしまったことが本当に残念に思える。
ピリスは自身の姿を前面に押し出して芸術家を主張することなく、作曲家の実像とその楽想を最大限の力を込めて見せている。
だから、聴き手は純粋にシューベルトの音楽に身を任せることができる。

好きな楽曲が見つかり、順番に聴き進めていく中で素晴らしい演奏に出会ったり、高名な演奏家の演奏に満足出来なかったり、と
一喜一憂することが楽しく、音楽を聴く歓びを体験することができる。



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寄り道としのシューベルト(2)

2021年02月13日 | Classical

Paul Lewis / F. Schubert Piano Sonatas  ( 仏 Harmonia Mundi )


ブレンデルに師事したポール・ルイスは、当然のようにシューベルトを録音している。ブレンデルが残したシューベルトの録音は
現代の金字塔と言われているが、私はイマイチのめり込めない。そこに感じる不満のすべてを解消してくれるのがポール・ルイスで、
私がシューベルトのピアノ曲を聴くことができるようになったのは、この人のおかげだ。以降、数多くの演奏を聴いてきたが、
未だにこの人の演奏を超えるものは見つからない。

そして、彼のおかげでシューベルト最後の作品であるピアノ・ソナタ第21番 D.960 の魅力に憑りつかれることになった。
この曲は技術的難易度は高くないが本当に上手く演奏するのは難しく、これまでに有名/無名を問わず多くのピアニストが挑戦してきたが、
成功していると思える演奏はさほど多くない。

ポール・ルイスの演奏は本当に自然で柔らかく、多くのピアニストたちが陥ってしまう不自然なアゴーギクやディナーミクは皆無。
聴いている間は、まるでヒースの丘に立って風に身を任せているような感じだ。そして、弱音が何と美しいことか。
完全に音楽をコントロールできていて、その間の取り方は魔法のようだ。

この曲は第1楽章のみが素晴らしく、以降の楽章は出来が悪いと言われることがあるけれど、この人が弾けばどの楽章も聴き惚れてしまう。
グールドとは違うタイプだが、音楽の支配の仕方、フレーズのすべてを歌わせる力量、打鍵の完璧さには同じ天才を感じる。
譜面に書かれた1音たりとも粗末に扱わないこの意志の強さなどはグールドそっくりだ。そして、そういうコントロールを施したのが
他の何物でもなく、シューベルトだったというところに驚きがある。グールドはシューベルトを評価せず、録音を残さなかった。

まだ、録音していない曲はたくさんに凝っているので、今後を楽しみにしたい。そう思わせてくれる、数少ないピアニストなのだ。


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寄り道としてのシューベルト(1)

2021年02月10日 | Classical



この2ヵ月ほどはジャズはほとんど聴くことなく、代わりにシューベルトのピアノ曲ばかり聴いていた。
なぜかはよくわからない。とにかくそれ以外に興味が持てなかったのだ。毎日、朝から晩まで、部屋の中で流していた。
数えてみたら、その数は30枚を超えている。

クラシックを聴くようになったのは大学4年の頃からだが、以降、割りと長い間、シューベルトのピアノ曲が苦手だった。
こういう人は結構多くて、ピアノ曲しか聴かないというクラシックファンの中にも、実はシューベルトはほとんど聴かない、
という人がたくさんいる。シューベルトのピアノ曲というのは、そういう音楽なのだ。

シューベルトは31歳という若さで亡くなった。13歳の頃から作曲を始めた早熟だったが、それでも18年という作曲期間は短すぎた。
その中で協奏曲を除くすべての形式で音楽を書いたが、最後まで仕上げ切れず、未完成のままとなったものが多い。
学校の音楽室の壁に肖像画が掛けられるような作曲家の中ではこれは異例のことだ。「もともとが楽曲を完成される能力に欠けていたのだ」
なんて言う人もいるけれど、私はきっと書き上げるにはあまりに時間が足りなかっただけだろうと思っている。

ピアノ曲で言えば、「ピアノ・ソナタ」というタイトルではない曲がやたらと多い。つまり、ソナタ形式をとっていないものが
多いということで、ここでも「構成感の明確な曲を書くことが苦手だった」などと陰口を叩かれたりする。
聴いた印象がアドリブ的というか、取り留めのない印象から「即興曲」というタイトルを付けられたりする。

尊敬してやまなかったベートーヴェンの葬儀の際に、棺桶の一角を持って歩いたという世代で、ちょうど時代の節目に生きた人だった。
だから、必ずしも構成感ありきの音楽でなければならない、という感覚からは一歩抜け出していたんじゃないだろうか。

大昔は「歌曲王」と言われて美メロ作曲家の代表、みたいな扱いだったけど、最近は「死を予感させる美しさ」なんていう論調が
定説化しつつある。映画「アマデウス」の影響もあったのか、モーツァルトやシューベルトのような短命だった作曲家の場合、
その作品の美しさと死を結びつける感覚が大衆化・一般化した。でも、これはちょっと安直すぎるんじゃないか、という気がする。

そんな風に、シューベルトのピアノ曲の正体は何か、を考えるといつも迷宮を彷徨うことになるわけだが、しばらく遠ざかっていた
これらの音楽をまた急に聴きたくなったのは、これまたなぜだろうと考えてみても、こちらについてもよくわからない。
わからないのだけれど、それはあまりに突然やってきて、その波に訳も分からず飲み込まれてしまっている。

聴いていてもどこに辿り着くのかさっぱりわからないこれらのピアノ曲の前では、アドリブ一発のジャズという音楽ですら、
実はあらかじめ決められた予定調和の世界の物語だった、と思えてくる。

そんなわけで、ちょっとシューベルトのピアノ曲へ寄り道してみよう。


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幸せな気分を運んでくるポップ・フュージョン

2021年02月07日 | Jazz CD

Bob James / Foxie  ( 日本ビクター VICJ-61517 )


フュージョンのアルバムはもはや10枚も手元には残っていないけれど、長年のレコード・CD裁判で常に勝ち残ってきた1枚。
もう40年も前の録音ということに改めて驚くしかないけれど、こればかりは好きなんだからしかたない。

これ以上はないであろうポップなわかりやすさ、且つおそろしくレベルの高い演奏力が同居する内容で、まあすごい音楽である。
ボブ・ジェームスのフュージョン・アルバムはおそらくほとんどすべて聴いたと思うけれど、私にはこれを超える作品はなかった。

冒頭の "Ludwig" はその名の通り、ベートーヴェンの第九、第2楽章の変奏だけど、これがいい。まさに才気爆発の感がある。
想像力の力強い翼が奮い立ったような展開で、それを支えるスティーヴ・ガッドのドラムが最高の出来。彼はこの頃がピークだった。
サントリーのCF曲として使われた "Marco Polo" の明るいムードで終わるのもいい。

この人はフリー・ジャズ・ピアニストとしてデビューした訳で、この振れ幅の大きさは一体何なの?という感じだけど、
よくよく考えると、ESPレーベルの音楽が出始めた頃はこれが当時の最先端の音楽だったし、80年代の音楽マーケットでの
フュージョンの勢いの凄さときたら現在からは想像も付かないほどのものだった。つまり、ボブ・ジェームスという人は、
そういう時代の最先端の音楽を見つけるといち早くそこに飛び込み、その中で最良の音楽を生み出すことに生き甲斐を感じた人
だったのかもしれない。アングラだの売れセンだの、そういうことはきっとどうでもよかったんじゃないだろうか。

ハード・バップがもう2度と戻ってこないのと同じように、こういうポップ・フュージョンももう戻ってくることは決してないだろう。
でも、その時代に生きた人にとってはそれが青春の音楽であり、その気持ちが変わることはない。
きっと、それが1番重要なことで、何よりも大切なことなんだろうと思う。

今では80年代という世相へのノスタルジーと、そこにあった独特の雰囲気がいろんな分野で再評価されているけれど、
ボブ・ジェームスのこの音楽もあの時代にしか生まれることのなかったユニークな音楽。
とにかく明るく、わかりやすくて、聴いていると無条件に幸せな気分になれるのだ。


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存在の耐えられない重さ

2021年01月30日 | Jazz LP (Impuise!)

John Coltrane / Duke Ellington & John Coltrane  ( 米 Impulse ! A-30 )


赤ん坊が眠っている揺り籠をゆっくりと揺らしているような "In A Sentimental Mood" で始まるこのアルバムは、概ねアーロン・ベル / ウッドヤードの
演奏とギャリソン / エルヴィンの演奏という2つの雰囲気の異なる楽曲群のミックスになっている。前者はエリントン主導の音楽で、
後者はコルトレーンが主導する。コルトレーンが終始恐縮してエリントンに追従しているわけではなく、この2つは音楽的には対峙している。

2人の音楽性は水と油のように混ざり合うことはなく、物別れに終わっている。交わり切れなかったのか、最初から独立並行させる
つもりだったのかはよくわからないが、「共演」ではなく「競演」になっている。そのため、統一感には欠ける内容になっていて、
聴いていて居心地の悪さが残るだろう。尤も、ジャズはそういう刹那的な瞬間を捉える音楽なのだということであれば、こういう内容に
なったのは自然な流れだったのかもしれない。飛ぶ鳥を落とす勢いだったコルトレーンの音楽要素は何としても生かしたかったのかもしれない。

そういう意味では、B面冒頭のストレホーン作 "My Little Brown Book" が一番理想的な形に収まった演奏だったように思う。
エリントン / ストレイホーンの不可思議な世界観とコルトレーンの控えめなアドリブ美学が奇跡的に溶け合った美しさが聴ける。
現状は巨匠同士の共演という点でしか認知されていないが、もし全編がこういう内容になっていたら、このアルバムへの評価は
大きく変わっていたことだろう。

ただ、それにしても、この存在の耐えられない重さは一体何だろうかと思う。音楽家一人ひとりの存在感がこんなにも重く生々しく
感じられる作品は他にどれほどあるだろうか。このアルバムはそこが恐ろしい。



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珍しいだけに止まらず

2021年01月23日 | Jazz LP (Pacific Jazz / World Pacific)

Bud Shank / In Africa  ( 南ア Pacific Jazz PJX 5000 )


持っていることを忘れるくらい、長い間聴いていなかった。レコードは針を通さないと物理的に劣化するので、時々聴かないと
後で泣きを見る。前回聴いたのがいつだった忘れたが、幸いにも盤もジャケットも異常は見られなかった。

放置していたのは、バド・シャンクの音楽にあまり魅力を感じないからだと思う。聴けばそのいくつかは悪くないとは思うけれど、
時間を置いてまた聴きたくなるということは特にない。気の毒だが、プレーヤー止まりの人だったと思う。
主要なものは一通り聴いたけれど、結局手許に残したのは、これとローリンド・アルメイダと共演したアルバムの2枚だけだった。

南アフリカ楽遊の際に現地で製作された稀観盤で、昔、スイングジャーナル誌巻頭のレーベル特集企画ページにジャケ写が載ったことで
有名になったアルバムだ。以来、コレクターが目の色を変えて探すようになった。

そういう単に珍しいだけのアルバムかと思って聴いたら、案外そうでもなかった。冒頭で "A Tribute To The African Penny Whistle"という
アフロ系リズムの自作曲を演るなど、なかなか手の込んだ作りになっていて、退屈なウェストコースト・ジャズとは一味違う感じだ。
フルートとアルトを交互に持ち替えながら、スタンダードをベースにした素朴な演奏で、悪くない演奏を聴かせる。

"Misty Eyes" というオリジナル曲で見せる抒情的な情感が良くて、この1曲のために処分せずに残したようなものだが、
それ以外の演奏も飾り気のないストレートなジャズで、まあ、悪くない。環境が変わると、演奏の気分も変わるんだろうなと思う。


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冬の寒い朝の過ごし方

2021年01月19日 | Classical

Yevgeni Svetlanov / Sergei V. Rachmaninov Piano Pieces  ( 露 Melodiya C10-15595 )


朝は大体5時頃に起きる。在宅勤務になってそろそろ1年になろうとしていて、もう目覚ましをかけることはないけど、勝手に目が覚める。
今はこの時間はまだ外は真っ暗で、6時を過ぎる頃になるとゆっくりと空が白み始める。

たっぷりと時間があるのでレコードを3枚分くらい聴くけれど、この時間帯にジャズは耳障りなので、大抵は静かなピアノ音楽を聴く。
元々、ジャズとクラシックを聴く比率は10対1くらいなのだけど、毎年冬のこの時期になると、この比率は逆転する。冷たい空気の中では
なぜかクラシックの方が聴きたくなるのだ。理由はよくわからない。

寝起きのぼーっとしている頭にモーツァルトやベートーヴェンはうまく入ってこないので、バッハやスカルラッティのようなバロックか、
もしくはシューベルト以降の作曲家のものがメインになる。

スヴェトラーノフが弾くラフマニノフのピアノ曲集もこの時間帯によく合う音楽だ。大指揮者として名を成したこの人も、
元々はピアノ弾きとして音楽を始めたわけで、大成した後も気が向いたらこうしてピアニストとしての仕事もしていた。
指揮者になろうという人は音楽を大局的に眺める傾向が強いから、その演奏も普通のピアニストの演奏とは雰囲気がガラリと変わってくる。
不思議なものだ。

ラフマニノフ自身が歴史に名を刻むような大ヴィルトゥオーゾだったから、書いたピアノ曲も技術的難易度が高いものが多かったが、
ここでは静かで憂いに満ちた楽曲だけが選ばれていて、それらをスヴェトラが物憂げに弾いている。これが他の誰も出せないような
ある種の独特な雰囲気となっていて、素晴らしい。

「ヴォーカリーズ」や「エレジー 作品3-1」のような、ラフマニノフにしか書けない美しく儚いメロディーを聴きながら、
暗い空が徐々に明るくなっていく様をぼんやりと見つめているのが、毎朝の決まり事のような日々が続いている。



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セピア色の音楽

2021年01月17日 | Jazz LP (Vocal)

The Modernaires / Tributes in Tempo  ( 米 Columbia CL-6043 )


モダネアーズはグレン・ミラーお抱えでその名が知られている男女混成コーラス・グループ。日本ではこういうのはまったくウケないけれど、
海外ではジャンルを問わず、コーラスというのは人気がある。元々は古代キリスト教の聖歌にルーツを持つ形式で、意識することがなくても、
彼らのDNAに刷り込まれているのだろう。

フォー・フレッシュメンが現れて高度な歌唱を屈指するようになると、それに追随するグループが次々と出てきたが、それまではこういう
ドリーミーな歌唱をするのが王道で、パイド・パイパーズと人気を二分していた。楽器の重奏だけでは表現しきれない情感を出すのは
コラースしかないということで、40年代になると白人ビッグ・バンドはこぞって専属グループを抱えていた。

こういうのを聴いていると、その時代のことなんて何も知らないにもかかわらず、古い真空管ラジオから流れてくる音楽を聴いているような
気分になる。部屋の中がゆっくりとセピア色に染まっていくような気がする。タイム・マシーンなんて出来なくても、別にいいんじゃないか、
とさえ思えてくる。


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実は良質なハード・バップ

2021年01月09日 | Jazz LP

Tony Scott / Free Blown Jazz  ( 米 Carlton STLP12/113 )


聴いてビックリの高音質盤。1957年11月16日の録音だが、59年に発売されている。珍しいメンツの組み合わせだが、LP2枚分の録音を
しており、もう1枚はSeccoから発売されている。どういう経緯のリリースなのかはよくわからない。このカールトンというレーベルは
RCA Victor の傍系レーベルだがジャズ専門ではなかったし、レーベルが企画した録音ではなく、誰かが御膳立てした録音で、その後に
版権を買い取っての発売だったんじゃないかと思う。

それぞれ持ち味があるメンバーが集まっているが、その誰か固有の色が付いた音楽ではなく、共通言語のハード・バップになっていて、
これは穴場のレコードだと言っていい。サヒブ・シハブの重量級バリトンが効いているが、トニー・スコットもバリトンに持ち替えて
演奏している楽曲もあり、とても聴き応えがある。一流の奏者ばかりなのでクオリティーが高く、ちょっと驚かされる内容だ。

トニー・スコットとジミー・ネッパーの名義になっているが、この2人が特に目立つような感じではなく、みんながそれぞれいい味を
出している。やはりビル・エヴァンスの演奏が一番気になるわけだが、自身のスタイルが出来上がりつつある上り坂の時期であり、
彼の独特のリリシズムがこのアルバムを平凡なハード・バップ・セッションに流れることを防いでいると思う。ハード・バップはピアノが
重要なキーになるのだということがこれを聴くとよくわかる。"Body And Soul" でのソロなんて、まるで "Flamenco Sketches" だ。

モノラルは聴いたことはないけど、このステレオは時代を考えると極めて良好な音質で、この演奏の良質さをうまく後押ししている。
安レコということでまともに相手にされていないのが残念でならない。


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不思議と惹かれる演奏

2021年01月05日 | Jazz LP (Jubilee)

Randy Weston / Piano A-la-mode  ( 米 Jubilee JGM 1060 )


ピアノ音楽を聴く楽しみは、何と言ってもこの楽器が本来持っている美しい音色に耳を澄ますことだったり、和音の調和を楽しむこと
だったり、紡ぎ出されるメロディーに酔うことだが、こういう楽しみ方のすべてを否定するのがランディー・ウェストンである。

モンクとの類似を挙げられることが多いけれど、私にはあまりこの2人が似ているという印象はない。根っこのところが違うような
気がする。モンクは伝統を重んじるリズムの人、この人は伝統的なものを嫌い、フレーズの断片をコラージュする人。
彼が書いた代表作 "Little Niles" は1度聴くと忘れられない後ろ髪を引かれるような不思議な印象を残すが、あの感覚である。

レコード・デビューしてまもない時期の演奏だが、不思議な余韻が残る、心に引っかかるアルバムだ。ピアノ・トリオの王道なんて
最初から相手にしておらず、自由なインスピレーションで思うがままにピアノを弾いていて、その屈託のなさが好印象を残す。
メロディーの美しさや調和のとれた和声の心地よさとは無縁なのに、この演奏にはある種の安らぎのようなものを感じるのだ。
不思議なレコードである。

このアルバムは青色の大レーベルが初版だが、なぜかこのセカンド・レーベルのほうが音がいい。だから、初版には手を出さず、
この黒色の小レーベルが出るのを待っていた。盤の形状がリヴァーサイド盤と似ているので、同じ工場でプレスされたのかもしれない。

この版で聴くペック・モリソンのベースの音色が素晴らしく、気が付くと彼の出す音色に耳をすまして聴いている。
ウッド・ベースの木が鳴っているのがよくわかるとてもいい音だ。ペック・モリソンの音色のことなんて、今まで考えたこともなかった。
コニー・ケイのシンバルも生々しい音で録られており、このサウンドはいろんなことを教えてくれる。

アルバムの最後に置かれた "Fe-Double-U Blues" が何とも言えないカッコいい雰囲気のブルースで、何度も聴き返したくなる。
ここにランディー・ウエストンの底力が込められているのだ。



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間を聴くピアノ・トリオ

2021年01月02日 | Jazz LP

Pete Malinverni / Don't Be Shy  ( 米 Sea Breeze Jazz SB-2037 )


昨年末の猟盤は不調を極め、12月に入って拾えたのは3枚だけ。一体、いつになったら回復するのやら。
それでも内容には満足しているので、楽しんで聴いている。これはその中の1枚。
初めて聴く人だが、あまりの良さに久し振りに衝撃を受けた。まだまだ優れた演奏はあるものだ。

ゆったりとしたテンポの楽曲がメインで構成されていて、非常に間の多い演奏が心地よい。こんなに優雅なスイング感に浸るのは
長らくなかったような気がする。写真を観る限りでは若い人のようだが、落ち着き払った弾きっぷりが素晴らしい。
若い演奏家には大抵の場合、どこかに野心があるものだが、この人はそういうものはどこかに置いてきたかのようだ。

全編に歌心が溢れていて、紡ぎ出される優しいフレーズが終始語りかけてくる。やっぱりそれがどんな音楽であっても、
歌を忘れてはいけないのだ、ということを想い出させてくれる。最小限の音数で、最大限の効果を生み出している。
ピアノが表面的な綺麗さに流れず、適度の粘りが効いており、過去の名盤たちに共通するある種の香りが濃厚だ。

そして、バックのメル・ルイスのブラシ・ワークが最高だ。まるでデビーのモチアンのようなブラシさばきで音楽をゆったりと揺らし、
全体を上品な質感に仕上げている。最後に置かれた "Who Cares" の何と素晴らしいことか。ピアノ・トリオの快楽の結晶のようだ。

選曲も良く、私好みの名曲がずらりと並んでいるのが嬉しい。エヴァンスやファーマーの愛奏曲を上手く消化して、
オリジナルな音楽として提示してくれている。これはまちがいなく傑作。最後まで手放すことはないだろうと思う。


コメント (4)

コロナは生誕250周年を台無しにしたか

2020年12月31日 | Classical

Wihelm Frutwangler / L.V.Beethoven Ⅸ Sinfonie D-moll, Op.125  ( 独 Electrola WALP 1286 / 87 )


2020年はベートーヴェンの生誕250周年ということで当初は世界中で様々な催しが企画されていたが、コロナ禍の影響で軒並み中止となり、
さほど盛り上がることなく終わろとしている。まさかこんなことになろうとは誰も思っていなかったわけで、残念なことだ。
ただ、クラシック音楽に親しい者にしてみれば、わざわざそんなイヴェントを持ち出さなくても日々ベートヴェンには接しているわけで、
催し物があろうがなかろうがあまり関係はない。気が向いたらお気に入りの演奏を持ち出してきては、ボソボソと聴くわけである。

年末になると自然と第九を聴く回数が増えるというのもどうなのよ、と思いつつも、やはり聴いてしまうのは、大抵はレコード2枚組という
面倒臭さから普段あまり手にすることがないことへの懺悔にも似た気持ちからかもしれない。

第九と言えば「バイロイトのフルトヴェングラー」ということになるわけだが、現代においては昔ほどの御威光はないらしい。
昔はそれこそ「神」として崇め奉られたこの演奏も、近年の多様な価値観の隆盛の中で相対化が大きく進み、以前のようなイヤらしい
神格化ではなく、もっとナチュラルに評価されるようになってきているみたいで、これはいいことだと思っている。

「この演奏はバイロイトの本番公演のものではなく、当日の本番直前に行われた通しリハーサルの演奏だ」と噛み付いた神をも恐れぬ
日本の団体がいて、その後、この演奏は真贋論争に巻き込まれた。当のHMVが公式声明を出さないものだから、結局のところ、何が本当か
わからないまま時間が経過し、このことがこの演奏への狂信的な崇拝気分に水を差したことも影響しているのかもしれない。

バイロイト祝祭劇場の音響は録音には向かない、とフルトヴェングラーが録音の申し入れを断ったために、この録音は非公式に行われ、
レコードもフルトヴェングラーの死後に発売された。そのせいでこういう事態を招いたわけだが、この演奏に只ならぬ異様な雰囲気が
あるのは事実で、ここから受ける音楽的感動は本物である。だから、真贋がわからないのならそのことを最重視しよう、というのが
現在の定説となっており、この論争は意外と常識的な着地を見せている。私もそれでいいと思っている。

2020年はベートヴェン生誕250周年の年として記憶されることはなくなってしまったが、新型コロナはベートヴェンの生誕を祝おうという
人々の気分を果たしてダメにしただろうか。私はそうは思わない。こうしてレコードを聴く限り、彼の音楽は不滅である。
コロナは私たちからいろんなものを奪い、そして強制したが、音楽を祝福したいという気持ちまでダメにすることはなかった。
このレコードを聴けば、音楽があれば私たちはいつだってタフになれる、ということを確認することができるのである。



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