前後不覚、って状態に、必ずなるんだよね、一日に一回くらいは。
もっと多い方もいるんだろうけど。
これも、不思議な話で。
もちろん、その間に、どこぞからのエネルギーが入り込み、とか。
いろいろな説はあるんだけど。
詳しく知らないのですが。
そんなこと言えば、なぜ食べるのか、なんてことにもなりそうだな。
このところ、どうも夢を見てそうな気配がしていて。
もちろん、朝の起きがけ、あの瞬間が過ぎれば、まったく覚えていない。
って具合で。
二、三日前、実は、とても重篤な夢を見ていたのかもな、という予感。
じゃないか、推測、感覚、とでも言おうか。
これについては、今は語れませんが。
今朝の表題にした理由は、たぶん、スピとかの用語を書き換えよう、みたいな野望、目論見、願望。
ってわけなんだけど。
この何百年かの、科学という名の明確化作業に毒されている、わが思考を、ちょっと、実験的に。
差し替えてみるか、くらいの話で。
朝まだきの巴川を細部はわからないのに眺めながらの、しかし、傍には。
ケニアからのキアマバラの珈琲カップ、って風情での思索。
今日は、あと一時間もしたら走れるかな。
この正月休みは何をしますか、という問いかけは、昨日、来社の。
証券レディ、社命というのか忖度自粛モードで、栃木だったかの故郷には帰れず。
なんて女史だけど、社長は思う存分のランニングですか、と来た。
わかってるね、ってなもんだ。
走る、にある、というのか、走りそのもの、過去や未来との比較ではなく。
どこかで聞き齧った言葉を頼りに、でもなく。
ただ、そのものとしてある、って。
まるで、お気に入りの、小林秀雄の、美についての話みたいになっちゃうな。
美そのものは、なまじの語りはできず、というわけで、そう、最近のプリウスライブは。
べートーベンなんだけど、時折、分析頭はもたげるけど、その中、音楽の中に。
没入状態、ってのが、素人音楽鑑賞家の小さな幸せ、ってなもんだな。
そんなこと言えば、食もそうだね。
いや、生きることそのものが、そうでもあり。
とはいえ、さまざまな日常に気を煩わされもし、しかし、だから、煩いから逃れた瞬間の甘美な。
とも言えるね。
師走の朝に、なんの生産性もない文章を書いてる、ってのも、これまた、小さな幸せ。
だな。
って、昔、そんな歌、あったかななかったかな。
というわけで、そろそろ、次なるルーティンへ出かけます。