ってな時期だね。
あの、なんとも言えない、待ち遠しい感覚、どこへ行っちゃったか。
忘れたな。
なので、今年は、チャレンジで、そんな気分を一人演出してみるか。
そうだ、知り合いの花屋さんが、玄関に飾る松飾りだっけ、売り出していたな、あれ、いただこうか。
もちは、次男坊と娘とつくか、というか、捏ねる機会だけど。
おせちは妻と娘にお任せし、あと何かな、羽つきはいいか。
どんど焼きの先陣を切って、備長炭での焼き魚か。
とかね。
演じ手にして制作者、みたいな、しかも、観客か。
一人三役ということになるな。
と考えてくると、まんま、人生そのものだね。
この世の出来事は幻想、なんて解釈の仕方あるけど、そもそも、幻想、なんて言葉を使わざるを得ない。
そんな狭苦しさの中に閉じ込められていることでもあり。
とここまで書いてきて、ふと、尾崎豊の「卒業」の歌詞が頭の中に鳴り響いてきた。
言葉はとても便利でホモ・サピエンスの手にしたツールの中では、使い勝手がいいものなんだけど。
それが故に、ある時には障害の原因にもなり、なんだけど、その障害すら次なる道筋への里程標、なんてね。
すべてのものにはひび割れがある、しかし、そこから光を手に入れることができる。
と、オードリー・タンを気取ってみるか。
光といえば、人生の途中で光を失ったのが、かのベートーベンじゃなかったっけ。
その御仁の曲を、このところのプリウスライブで聴いている、というのはご紹介したけれど。
あら、こんなにいいんだ、なんて気分だよ。
世紀の学聖に向かっての、この感想は、失礼かもだけど、モーツアルトにしても。
天からの授かり物、って感じがするよ。
15 piano variations and fugue、ってのがよくて、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」だったか。
一つのテーマをあれやこれやと変奏する、って感じかな。
こんなのも作ってたんだ、ってわけだ。
風の時代、水瓶の時代、i knowの時代、ま、いろいろと知らないことに出会うんだよね。
そこが醍醐味。
その点が、次なる未知なる点と出会い、切り結び、知らない創造物が現れる、って算段だな。
まさに、天才性の発現だ。
というわけで、本日も天才の発揮をするか。