大きな声では言えないけど、二日続きの呑み、だったので。
昨日は、そういうわけで、まったりゆっくりと時間を過ごした。
ちょうど届いた、北条民雄という人の「いのちの初夜」という小説を読んだ。
癩病に侵され、23歳でこの世を去った御仁の、隔離施設への入所日、そこでの。
物語。
まさに、初夜に、いのち、というものと向き合わされたわけだ。
川端康成が、あとがきを書いていた。
そのころは、遺伝病だとかの説が流布され、というのか、医学的に言われていたのか。
なので、家族とは関係を断ち、施設への入所となる。
その上、肉体を侵蝕する癩菌が、ある人には、目に、ある人には、顔に、カラダに「症状」としての。
崩壊が現れ、いわゆる「人間」としてのカタチでなくなっていく中で、残されたのは。
まるっぽの、いのちそのもの、ということになる。
何回かの自死への試みも失敗した挙句に、その、いのち、と向き合わざるを得なくなった。
そのことを書いた小説が、文学界の賞をとった。
将来を嘱望された文士が、23歳にして世をさったわけだ。
昭和の初め頃だったか。
何年か前に、紀州は熊野を訪れた時、彼の地は、癩病者も受け入れた、というのか、すべてを受け容れる。
そんなことを三石さんが話されていた。
今回のコロナにしても、その実態が明らかになりにくく、ただ、恐れだけが先行し。
陽性者へのさまざまな差別、区別、偏見などなど、を目にし耳にし、のなかで。
あの頃の癩病者への、同調圧力による迫害なんてのは、凄まじいものがあったんだろうな、という感想の中。
彼、北条民雄さんがいのちと向き合わざるを得ない、その心の中を、こちらは。
呑気に小説として味わった次第で。
迫害なんて言葉から連想するのは、中世の魔女狩りもそうだし、もっと言えば。
桃太郎伝説なんかの鬼、ってのも、おどろおどろしく語られ、「ジャックと豆の木」なんてのもそうだね。
戦い、なんてのはそもそも、そんな具合に出来上がるんだよね。
かつてのわが列島でも、鬼畜米英、なんて言葉、今の紳士然とした新聞紙上を踊ったんだろうし。
今でも、SNSに限らず、そこここでの、異論反論反目、早い話が、小さな大きな罵り合い。
なんてのは、その類だしね。
敵を作って我が身・集団の保全を図る、ってのは、わがホモ・サピエンスが手に入れた、利点でもあり。
最大の欠点でもあるのかも。
というような考えが浮上した日曜日の朝、珈琲はケニアのキアマバラ。