イルガンチェフェとネーミングされた珈琲。
と書いてくれば、昔アラブのエライお坊さんが、って続くわけだ。
西田佐知子のコーヒールンバ。
唐突だけど。
今朝は少し湯温が高かったかな、って具合で。
日に新たに、日々に新たに、をまんま表してくれる珈琲なんだな。
だから、細胞だって、と続き、一週間だっけ、もっとか、いずれにしても、常に。
流動していて、いつまでも「自分」じゃない、というか。
カラダは常に入れ替わって、生まれ変わって、という次第で、そこをかろうじて繋ぎ止めているのが。
自己同一性、というのか、アイデンティティ、ID、ってやつだ。
そこが不分明になると、落語の、ここで死んでるのが俺なら俺は一体なんだ?って。
そんな噺になるわけだ。
あれは、「粗忽長屋」、だっけ、忘れましたが。
ところで、井上光晴の娘さん、井上荒野という作家さんが書いていた。
「私が小説を書くのは、書くことによって見知らぬ場所へ行くため、
見たことがない景色を見るため」
なんだけど、今、はまっているのが、韓国ドラマの、なんだったか。
そうだ、「愛の不時着」ってので、韓国の娘さんが北朝鮮に不時着、かの国の。
イケメンの兵隊さんと出会っちゃう、っていうやつらしく、そのドラマが。
ベタなくらい、こうなるこうなる、と思って見てると、その通りになる、んだって。
そのお約束が、たまらなくて、だそうだ。
自分の小説書きとは真逆な物語の展開に、はまっている、というのが面白くてね。
この話題を取り上げたのは、書くことで見知らぬ場所へ行く、ってフレーズにピピピッと、ね。
来たからなんだな。
書くに限らず、イメージを描く、でも、解釈をする、でもいいけど、そんなこと、わりとあるからね。
パラレルワールドとも言い換えられるか。
その根底にあるのは、すべて、自分で創造できる、ということに繋がるんだけど。
それをもって、我が身は神なり、とね。
今朝も、白いアサガオが咲いている。
「あふれる喜び」という花言葉を、この月末の発表会に援用し、という魂胆で。
さらに、その場のコンセプト、ってのは、伝えること、伝わること、腑に落ちること、わがことのごとく。
なんてことになるかな。
せっかくのCOVID-19禍を、最大限に利活用、その本源的な部分をわがことにする、とかね。
行動変容は、未来を創造するための道具です、ってわけだ。
強要されたきらいのある変容を、わがこととしての創造に転化する、とも言えるか。
としたら、ワクワク感、満載でしょ、ってなもんだ。
さて、月曜日という日に、出かけるとするか。