実は、未知のことに戸惑っている自分がいる。
ということに気が付いて、おかしくてね。
合同入社式なんかで、新来の若者に、社会へ出ることは辛いことじゃなく。
未知との遭遇なんだ、それを単に楽しむ、味わう、だけ、なんてのたまったのに。
いざ、自分が、未知と出会うと、心もとなさがやってきて。
というのは、自治会の体育部長、という役回りなんだけど、回覧板への回し方やら。
人集めやら、のルーティンにいたらぬ作業が、未知、ってわけで。
戸惑いながら、なんだけどね。
そんなこと、誰かに電話すれば、それで事足りるんだけど、その一歩を踏み出すまでが。
なんやかんやと自分の中で理由をつけて、結果、何もやらず、時間だけが経っている、というわけだ。
仕事の場でも、なんの場でも、ありがちなことで。
一人、笑っていたんだよね。
ルーティンのどっしりした、地に足のついた感のある仕草と、未知との遭遇でやってくる。
たぶん、転生があると仮定すると、何回も経験してきた、とてつもない未知、災害であったり。
あるいは、巨大な獣たちとの遭遇のような、そんなことが、カラダの、DNAのどこかに残されている。
のかも、なんて解釈も成り立ちそうだし。
しかし、今朝もいい青空だ。
それぞれのゴールデンな日々があるんだろうね。
そう、このブログのコメンテーターの御仁は、長野の小布施へ行かれるということだった。
わが社の女史社員は、今頃、北海道は函館でのコンサートか。
不思議と、どこそこへ行こう、とか今年は、沸き起こらないんだな。
もっとも、前半戦は、何人かの社員さんも現場へ行っているので、そんな気分なのかも。
それにしても、演出効果抜群だった、とか、その裏側に潜むものは何か、みたいな。
言われ方もしている、南北の朝鮮の会談、統一旗がふられている姿は、清々しく感じた。
そりゃ、同じ民族が、他国の都合に翻弄された何十年なんだからね。
仮に、幻想だとしても、いい場面だったと思うな。
そもそも、すべてが幻想、なんて言い方もあるんだからね。
それを、どのように捉え、解釈し、自分自身が感じるか、ってことだからさ。
「サピエンス全史」の著者によれば、そんなことの連続でもあったのが、わが人類の歴史でもあり。
あの学者さん、ハラリ、だったか、面白いわ。
なかなか、文章の意味が入ってこない時があって、そこ、発想がまったく新しい部分なんだよね。
読んでいて、自分の洗脳されていた部分が、明らかになる、そんな瞬間が、これまた。
楽しいわけで。
イスラエル人なのに、ナチスの所業を冷静に書いているところもあったりで、知というものの。
なんというのか、自由さ、とでも、ナワバリのない闊達さ、とでも。
ところで、最近、ツイッターの広告をブロックするすべを覚えて、快適なんだ。
ツイッターのタイムラインに、エロっぽいものやら何やら、広告がやってきていて。
鬱陶しかったんだけど、Facebookでもブロックできるんだね。
気分爽快。
梱包用のプチプチ潰し、みたいな快感だ。
知らぬ間に、そちらの快感に引きずられている自分に気が付いたりね。
なんでもそうだけど、不具合、不都合、不快ってのは、大げさに言えば、創意工夫で。
なんとかなるものでもあるね。
さて、ゴールデンな日々、二日目を始めるとするか。