久々に、昨日、いつもの、わが歯医者さん、カッコ薩摩隼人。
という御仁のところへ行ったわけだ。
母親同士が旧友で、鹿児島からご当地、駿河へやって来た。
口を開いたまま相槌を求められる、というか、先方は慣れたもので。
相槌すら求めず、なのかもで。
昨日も、速射砲とも呼べない語り口で次から次へ、という語り。
かろうじて、口をすすいでください、という瞬間を縫って、ところで。
せごどんが、と言いかけると。
彼、どうも、そんなに喜び勇んでの応対でもなく、訝しんでいると。
どうも、ああいった、大衆受けする、衆知の事実の積み重ねのようなドラマは。
ジモッティとしては、憤懣、まではいかないにしても、納得いかないのか。
コアなせごどんフリーク、なにせ、こちらは口伝で、つまり、事件の当事者のものすごーく近くの方から。
直にお聞きしているんだから、というね。
そんな感じのする反応だったのが、今振り返ってみると、なかなかの西郷愛の賜物か、と。
そうそう、表題なんだけど、忖度というのは、部下が上司のことを慮って、つまり、犠牲になって。
みたいな感じでしょ。
その逆、部下を慮って上司が責任を取る、というのね。
それが、生麦事件で起こったことじゃないのか、というのが、くだんの彼の見解。
横浜近くの生麦村を行くイギリス人一行、彼は、バテレン、と言ったけれど。
それを襲撃、惨殺した犯人の、責任を取って切腹したのが、直属の上司だったそうで。
下手人は、南原さん、と言ったか、示現流の使い手だったらしく、その後も、桜田門外の変での。
井伊直弼襲撃にも加担したのだったか、薩摩藩的には、重要な役回りを命じられ、ということだったらしい。
コアな、ジモッティでなけりゃ、歯牙にもかけない物語を追跡、というわけだ。
面白いね。
口を開けたままの会話は、スムーズに弾まないけれど、彼の、そんな探求を、珈琲でも飲みながら聞いてみたいものだ。
さて、今晩は、こちらも「歴史の旅」の勉強会、カッコお弁当つき、ってやつだ。