銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

歯医者さんが、私の子供を間接的にいじめてきた時、お孫さんが普通部へ入学されたのは、いつの事でしょうか?と、質問をしただけで、カリタス小事件は起きたのだった

2021-12-08 21:44:24 | 政治

  9日の夜に推敲と、加筆をしますと、申し上げておりました。が、日常作業(=家事というか、終活というかに時間とエネルギーを使っています。すみません。少し、ゆったりと、進みたいからです。上は、主人が撮影した、ペルセポリスの写真です。私は、フェイスブック(=メタ)を始めるまで、は、一切写真を撮らなかったのでした。どうしてかというと画家だからです。でも、今、自分の絵が、見つからないので、主人が撮影した写真を使います。上は、ペルセポリスです。平山郁夫さんが、名作の数々を、お描きになっているところで、昔はペルシャと、言う名前の国でした。今は、イランという名前の国になっている、国の田舎も田舎、誰も住んでいないところに、あるグレコローマン遺跡です。1981年から、1983年の間だったと思うのですが、パスポート(前のもの)が、盗まれているのと。絵も数々、盗まれているので、すぐ、使うわけにもいかないのです。1980年に、トルコへ行って、エフェソスッという大遺跡(同じくグレコローマンのもの)を見て、・・・・・そこのハドリアヌス帝の、トルソの前で、2キロ×3キロの広い範囲の中にたった二人だけという形で、立花隆と出会って、『あ、この人って駄目だわ」と感じた経験があり、1991~1994年ごろにイタリアに行って、そこでも、グレコローマン遺跡を見て、

 1998年には、ギリシャに行き、デルフォイとアテネで、グレコローマン遺跡を見て、同じころ、スペインに行き、ロマネスク様式の、プラド美術館を見て・・・・・ともかく、いろいろ、見て回って、絵を描いているのですが、奥の奥に入れておいたものを、

 だけど、終活をしていたら、この写真がどうしてか見つかったので(もしかしたら、敵さんが、わざと目に付くところに置いたのかもしれません。)使います。

 ところで、この敵さん(例の鎌倉エージェントと、その家来である警察官たち<二種類、居ますが>とか、警察から合いかぎをもらって私の家の中に、自由に侵入をしているご近所様二軒がいて、もう、神経の休まる暇がないという体たらくです。)が、いろいろなものを、侵入した際に盗みもするのですが、入れ込んでも行くのです。ともかく、嫌がらせと、脅かしのために、盗んだり、入れ込んだりして帰るのでした。

 ごく最近の、異様なものとしては、湯川由紀子さんのお手紙の封筒だけが、見つかっているのも、在りますね。それは、1980年ごろ来信のものだから、今頃我が家の床に落っこちているはずがないのです。我が家から、いったん盗んでおいて、今、入れ込めてきたのでしょう。意味は、こうです。・・・・・お前さあ、威張るなよ。貧乏なくせに・・・・・です。例の鎌倉エージェント(代表は、今だ、生きている井上ひさしですが)が、考えたアイデアにのっとって、こういうものが入れ込められているのです。

 湯川由紀子さんとは、旧姓桝田さんと言ったと、記憶しています。二期上の卒業だったかな。国際キリスト教大学が、とても華やかで、人気があったころ、神戸女学院から、入学してきた人で、そこを選ぶ人の典型的ケースです。ミッション系の私立学園から、国際キリスト教大学というコースで鵜。彼女は、仕事上は、【婦人公論】編集長、から【中央公論】の編集長で、引退した、ひとですが、

 1980年代初頭のある日、中央公論社の、旧ビルの玄関から、送り出してくれる際に、「今日のはいいわ。前回のはだめだったけれど」と、言われたのです。何のことかというと、洋服のセンスと、質の高さが、「前回は、安物だったし、平凡過ぎたけれど、今回は、センスが良くて、かつ高価なものですね」と、言う事を、非常に短い言葉で、指摘をされたのでした。

 私は、一生、162cm45キロという形で、体系が変わらないのです。でも、1970年代から2000年までの、30年間、自分の体形に合う洋服なんて、売っていなかったのです。で、ブレザーと、プリーツスカートは、やせっぽちの自分にとって、体系を膨らませてくれるからいいかな?と、思っていたのですが、アウトだったのでした。

 湯川さんに会う、15年前には、すでに、CIAエージェントの大物だったベイカーさんと、出会っているので、1回目の湯川さんとの邂逅で、すでに、CIAから、「川崎千恵子には、絶対にチャンスを与えるな」という指令が出ていた可能性があるのです。しかし、当時は、まだ、そこまで、改名が出ていたわけではないのですが、ともかく、湯川さんのボディラングエッジを、みると、「彼女は、好意的ではない」と言う事が私にわかるわけです。で、2回目は「これなら、バカにされないだろうと思う、おしゃれをしていったのです。上半身は、母が買ってくれた、上等な黒のカーディガン、(当時は、とても珍しかった、ポリエステル糸で、編んであって、一見すると、絹の糸で、編んだみたいに見える、つややかなもので、今買えば、25万円以上でしょう。それに合わせて、自分で、縫いあげたので、ぴったりと、細身の自分に沿う、Aラインの、黒のウールのギャバジンの、スカート、・・・・・こんないでたちを、京急北久里浜駅近辺の、ご近所様に見つかったら、・・・・・・「川崎さん、何があるの?」と質問をされちゃうでしょうが、銀座だったら、画家が自分の個展の初日に着る様なお洋服と、みなされるので、道路を、昼間これで、歩いていても、おかしくないお洋服でした。で、湯川さんが『今日のはいいわ。前回はだめだったけれど」と言ったときに、忽然と分かったのです。有名な文筆家が、どれほど、高収入なのかと言う事を。

 今、ネコメンタリーというのを、NHK・ETVで放映しています。本日、21-12-9【土】は、東山彰良ト、愛猫カグラが、出演しました。東山彰良は、福岡県に住んでいるのかしら。それとも広島県ですか? ともかく、他の、東京圏に住んでいる文筆家に比較すると、人間的な住まいでした。奥さんも、声でも、腕などでも、出演をしましたし。

 ところが別の回で、港区か、江東区か、江戸川あたり、のタワマンに住んでいる文筆家を、紹介するときは、

ただ、主人が撮影した、ペルセポリスの写真、二枚目をここに置きます。

 すいません、ここで、体力が尽きて、掘ったら河岸で、寝ます。お添それいります。

 

@@@@@@ここが、現在書きかけ中の最先端です。

平木伸明家の、お子さんに関する紙の資料が、いくつも我が家に入れ込められているのですよ。

 奥さんが、いつも、も・もーっと大声で、叫んでいたのを覚えて居るのですが、二人の男の子の名前が列記されている、ピアノ教室の領収書も我が家に入っていたのですよ。

 こういうことが大問題なのは、暴走老女にひき殺されたという、大久保忠春(福岡県に住んでいた大学教授で、私とは、横浜国立大学付属中学の同期)と一緒の新聞記事を少し拡大してパネルに貼って、鎌倉

さんの交通事故のニュースがNHK総合チャンネルには、は、捨てました。とっくに。ごく最近入れ込められたのは、ファイルの背表紙で、もも〇〇と、言う名前が下の方についていて、、、

 

副題〇、『この章を書くにあたってのお断り』

 この章は、まったくもって、前報

毎日新聞の大物、水谷さん・・島田章三・鮎子夫妻・・杉本正子・俊一夫妻・・雉も鳴かずば撃たれまいの典型だった章三さんの実妹

2021-12-05 03:36:14 | 政治

の続きです。当初は、そこの後半に続けたいと、思っていました。しかし、最近、体力が落ちて来て、一時間で書ける量が少なくなっています。それで、昔だったら、たった一日で、書けた分が、今は、3日か、4日、かかってしまいます。それで、同じところを何度も、お読みいただくこととなってしまうので、それは、申し訳ないので、別章を起こします。

 前報で、私は、母がご近所の実力者に、「聡明な人だよ」といわれたエピソードを書いています。

 そのついでに・・・・・といっては何ですが、横須賀市で起きた大事件(何十億円もの、不動産物件がタダで、益山重夫とその義弟、仲野通巳吉に渡った)と、それに絡んで、現代アートの世界も、徹底的に、CIAエージェントに支配をされている話へ入っていきました。

 美術関係者としては、水沢勉、本江邦夫、若江漢字、島田章三、の四氏に触れています。この章では、それにプラスして、長瀬いずみ、中島三枝子、保坂航子、谷内六郎、平山郁夫、また、その奥様、などにもちらっとですが触れていきます。

 しかし、と、同時に、それらの、人々を囲む、周辺の人々にも触れています。そして、その章の主役は、大沼嘉津江さんという、一種の一般人ですが、横須賀の、根岸小学校の通学範囲では、大金が、その人へ流れ込んだ、有名人・島田章三さんの、実妹なので、一般人とは言えず、一種の有名人化しており、大きく悪口を言われている人でした。

 私って、考えることが大好きで、しかも何について考えることが好きなのかというと、人間とは何だと、言う風に考えることが好きなので、大沼嘉津江さんと、その周辺の人には、興味と関心が尽きないのです。1979年に根岸小学校、広報委員会というPTA活動で、たった一年間、つきあっただけですが、・・・・・・深い印象を受けております。嘉津江さんのお取り巻き、杉本正子(杉本俊一、横須賀市副市長の妻)さんを含めてね。

 彼女の父君は、たぶんですが、戦前の千葉大(高等工芸)を出た方で、造船所で、船のインテリアを担当されていたとは、以前から知っていました。が、最近、wikipediaから、後年、市会議員にもなって、しかも、議長だったことがあったと、知り、驚き入っています。という事は、意外と図太い人で、それが、島田章三さんと、末っ子の嘉津江さんに遺伝をしているのかもしれないと、思います。

 嘉津江さんご本人は、それを知らないらしいし、何も気にしていないみたいですが、章三さんの版画(10畳程度の部屋に飾るのに適切な普通のサイズ)が、大津支所という根岸小学校の、すぐ近所にあった横須賀市役所の分所の待合室の壁にかざってあって、それに、横須賀市が、7000万円支払ったと、言う件が、知る人ぞ知る話であって、それが、嘉津江さんが、悪口を言われる、大本だったのですが・・・・・

 美術の世界にいる私は一般の人たちが大問題としている、大津支所の版画一枚よりも、横須賀市立美術館が所蔵している、章三さんの油絵の方が高くて、大金(数十億、または、100億を超える金額かもしれない)が、1978年以降、40年間にわたって、注ぎ込まれ、それを章三さんは愛知芸大に注ぎ込んだので、そっちの方が政治的な部分で、大問題とすべきところだと、思っています。横須賀市立美術館は、別館を建てて谷内六郎の絵を展示していてそれをうりものにしていますが、谷内さんの作品の方は遺族からの寄贈かもしれないし、・・・・・・問題は島田章三さんの作品の方にあるのです。

 島田省三さんの作品は、モチーフとしては妻の鮎子さんの、ものを使っているよね。(一種の盗作に近いよね)というのは、国画会内部の、知的レベルの高い人たちの中では、共通認識だと思いますよ。

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副題1、『わたくしが、大沼嘉津江さんについて、書き始めたのは、2013年一月に、長瀬いずみという、当時は、まだ、会員ではなかった、作家から、画廊るたんで、大変失礼な処遇を受けたからだった。それは、画廊るたんの中島三枝子さんにも半分責任はあるのだが、長瀬いずみが、秋田の人だから、そう、なっていると、言うことも言えるだろう。保坂涼子(山口みつ子さんが、他殺となった件で、心理的に言えば、その引き金を引いた人物、それを私が書いているので、今は、航子と改名している)さんも田舎の出身だ。福島県、相馬市出身らしい』

 田舎って、人口が少ないです。それで、ちょっと、箔をつけると、周辺や市などから、ちやほやされるのです。で、舞い上がってしまう。で、目の前の人間を傷つけるほどの、失礼なことをしても平気なのです。これが、東京や、横浜だと、そうはいきません。

 平山郁夫さんですが、ご近所の大原光孝さんに言わせると、「奥さんが代筆するケースがあるんだよ。鶴岡八幡宮のぼんぼりなんて、まさにそれ」という具合で、けちょん、けちょんです。芸大の学長という偉い方であっても、創形美術学校出身者に、そういわれてしまう。ただ、この二行は、柄沢斉からの受け売りかもしれないし柄沢斉は、酒井忠康氏の言葉を、飲み込んだのかもしれません。

  この話は、実際にアトリエで、奥様がぼんぼりの絵を描いているところを見ないとわからないことですよね。でもね。上記の三人の男性が、平山家のアトリエに入って奥様が、八幡宮からいただいた方書士に絵を描いているところを見たわけではないでしょう。真相は、こうだと思います。奥様はね。ペルセポリスに一緒にいらっしゃるときなど、苦労があったでしょう。私もそこへ行きました。が、電車はないし、ホテルもないし、無論自販機もないし、トイレもないです。すごく大変です。だから、そういう旅行に付き添う時代は、ご苦労があった筈です。だけど、それ以外は、お幸せだったでしょう。日本画はたかくうれますし。テレビでアトリエを見たことがあるけれど、何よりすごいのは画材です。500cc入りのガラス瓶に、ずっしりと、画材が入っている、そういうガラス瓶が600本程度ありました。日本画の画材ですが、例えばラピスラズリーなどとか、硫酸銅などの、同じ鉱石でも、粒の大きさによって、発色が違うのです。でね。警戒心がないのです。で、誰かに「宅の主人は、今度学長になったものですから、忙しくて。ぼんぼりは、私が代筆しているのですよ」と、おっしゃったと仮定します。その相手が同じ、二階堂で住まいで、また同じく、ぼんぼりを出して居る酒井忠康氏、の、おくさまだったら、見事に整合性があります。

 大原光孝さんというのは、本当におっちょこちょいで、本日も一昨日も、目の前をうろうろして、それが、私への威嚇に役立つので、ブログを書くのをやめるだろうと、思っているみたいです。(か、か、か・・・・大笑の、一種)なお、彼は、平山さんのことを対等以下という感じで、話しました。むしろ悪意満々という形で、話しました。そうすることによって、自分がとても格が高くなったと、感じられる模様です。

 長瀬いずみに、失礼極まりないことをされたのは、2013年1月13日だったと、記憶しています。長瀬泉に言っておこう。私は、決して感情を表には出しません。喧嘩も致しません。だけど、考える人だから・・・・・

 ああ、これで、島田章三に対する禁忌が解けた」と、感じましたよ。 で、前報は、長瀬いずみが書かせたのだとも。私は目の前にいる、長瀬いずみとか、中島三枝子とかいう人間を「なんて、単純な、むき出し型タイプなのだろう。sophiscated なんていう言葉も知らないのではないか!」と、思って居るわけですが、その瞬間に、頭の中では、神様との対話によって、『ああ、書いていいのだ。嘉津江さんについても、章三さんについても』と、思うわけです。

 この続きは、明日9日書きます。

 和田義彦、1940年4月生まれ

 島田章三、 1933年7月生まれ、

 

@@@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。

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副題2、『前報で、PTA活動について書いているが、それは、1970年代から、80年代にかけての話です。最近では、専業主婦がいなくて、なり手がいなくて、とても学校が困ってきて、夜のPTA活動となったらしいのですが、それは、また、不倫の横行とか、別の問題が起きていると、言う話です。なお、前報で、PTA活動とは、専業主婦にとっては、良い時間つぶしで、しかも、三役になったら儲けもので、あわよくば市会議員になって・・・・・という出世コースに乗れるのだと、言っています。しかし、地域社会固有の特徴があって、横須賀地域だと、三役をやるのなら大津高校以上の偏差値の高い高校を出ておくべきだと、言う暗黙の了解があります。こういうことは不文律なので、人付き合いをちゃんとしていないとわかりません。

 なお、私が特に大津高校と明記したのには、訳があります。横須賀いち、偏差値の高い高校は、県立・横須賀高校でしょう。ノーベル賞を受賞した小柴さんが出ていることで有名です。ところが、そこを出た女子の場合、辞めがたいほど、良い職業についている可能性が高いのです。で、結婚をしないとか、結婚をしても、子供を産まないというケースがあります。で、PTA活動などには、無縁となります。

 PTA活動とは、普通の女性で、ちょっと、頭一つ、他人より優れていると、言う人が取り組む仕事です。家庭も経済的に豊かです。夫婦仲もよいですと、言う家の主婦が取り組む仕事です。しかし、それらのグループでは、女性であることが全開だから、そういう面で大変です。嫉妬とか、競争心とかが、全開の世界でもあります。人間を研究するという意味では、相当に勉強になる場ですが、体力が、必要な世界でもあります。だから、向き、不向きがあります。

 それから、男の子を持つ母親の場合、中学や高校という時期に母親がPTA三役をするのは、良くないのです。それについて、は、横須賀で、先輩たちのケースを見てきているので、確信が合います。

 ほか、ベトナムの少女臨ちゃん殺しの一件とか、あれこれがありますが、それは、9日の夜に書きましょう。

 私は、章三、嘉津江きょうだいの、ご母堂に、も、問題があったと、する説を取っています。そして、水沢夫人(勉先生と悦ちゃんの母)にも同じ様な問題があったと、見ているのです。

 水沢勉さんが、日吉に住む、姉の悦ちゃんに悪い噂(私の妹が他殺なのに、自殺だと、言う噂っを流したから、大沼嘉津江さんにも、触れていったのでした。島田家には、特にご母堂に問題があったと、推察しているからです。

 ところで、水沢家の内実を教えてくれた人は我が家の東北のお隣さんではありません。そちらもご主人が東大卒で、かつ、いすゞ自動車勤務でした。そちらのご主人は、車に私の妹と母を乗せて、バレー教室の発表会に連れて行ってくださったのです。いすゞは、今は自家用車を作っていないみたいですが、1950年代には、ヒルマン・ミンクスを作っていたのでした。

 ともかく、そちら様は、水沢家の噂をするなんて言うことはありませんでした。往年の、良き時代の東大卒らしい、ノブレスオブリッジをキープしている方でした。

 比較すると、大沼嘉津江さんが、話す、次兄章三さんて、「なんって、狭量なのだろう。なんて、自分本位なのだろう」と、思う事ばかりでした。

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毎日新聞の大物、水谷さん・・島田章三・鮎子夫妻・・杉本正子・俊一夫妻・・雉も鳴かずば撃たれまいの典型だった章三さんの実妹

2021-12-05 03:36:14 | 政治

 今現在は、12月7日の午後9時です。以下の文章の後半副題7以降の、構文を変えたり、推敲加筆をしたりしていきましょう。ところで、午前9時」までは、総タイトルを【母が内藤寿七郎先生の言葉をご近所マダムに告げたのには、驚いた。そこから、カリタス小通学バス襲撃事件は起きたのだった。】としておりました。しかし、今のところ、大いなる字数は、ほかの事====北久里浜の実質的大詐欺事件と、それが、現代アート界へ、及ぼした影響====へ使われているので、それを反映した、総タイトルへ変更します。

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副題1、『この章では、一見すると、母の悪口を言うみたいに見えるでしょう。で、私が悪者になるのを避けるため、そして、母は、とても、賢かったという事を証明する為に、新しいエピソードをここで晒します』

 とうとう弟が売ってしまった、そして、三つに分割して、実質的に一戸が、8000万円で、売り出された建売住宅になってしまった【ときわ台町内会に所属している】実家の土地ですが、1950年に、東急が売り出したときには、一坪600円でした。そして、父が選んだ場所が、6万円で、最もいい場所でした。日当たり・眺望ともに最高の場所でした。東急は、田園調布、日吉本町、篠原町と、開発していって、ここで、問題とする【ときわ台】は、東横線を最寄りとする住宅地としては、四個目の開発だったと、思います。ほかの路線の事は、知りませんが。

 こういう買い物の際には、タイミングが、大切で、父よりもっとお金持ちの人が居たのですが、最高の土地をその人たちは、買い逃しました。それで、その人たちは、余裕のあるお金12万円から、15万円で、宅地を、三区画とか、二区画とか買いました。で、私が住んでいた一角は、道路に囲まれた中に、本当だったら、8戸の住宅が建っているはずですが、実際には、4戸しか建っていなかったのです。そして、我が家から、東へ向かって、道路が、つき当たって、そこに住んでいた水谷家に至るまで、50mを、人々は社長通りと呼んでいました。

 この水谷さんが、この章の主役といってもいいほど、大切な人です。この人は、毎日新聞・所属で、文化事業を立ち上げました。大物です。今も残っている日本音楽コンクール(NHKと、共催)とか、現代アート系の芸術展(今は、消滅している)を創設した人です。しかし、水谷さんに、触れていく前に、さらに、いろいろ、書いておかないと、文章が成り立ちません。だからしばらくお付き合い下さいませ。島田章三さんについて触れる賞など、とても重要だからです。政治問題として文章を書く場合です。

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副題2、『母が言う。「現代の、お殿様って、三菱重工の重役さんだったのよ」と。山口県の人間にとって、お殿様って、本来は、毛利公です。しかし、毛利さまの子孫は、東京にお住まいかな? または、防府市か? で、現代の山口県において、多数の家来を持っている存在とは、三菱重工の重役=工場長だったのでした』

 実家の、東へ向かい、水谷さんに至る、道路沿いのお隣さんは、すべて大企業の重役でした。中に大・大企業=三菱重工のニューヨーク支店長を経験済みという方がいました。その人が、山口県か、福岡県の、工場長をしていたころの話です。母が久しぶりに帰郷をして、【下関】の街中を歩いていると、そこの奥様に、偶然に呼び止められました。そして、日吉の町で、すれ違ったら、絶対に、そういう事が起こらないのですが、下関で、出会ったから、お互いに奇遇が懐かしくて、「うちへ寄っていらっしゃい」と奥様から言われたそうです。そして訪問をすると、素晴らしい豪邸だったそうです。

 皆様は、長崎のグラバー邸というのを、映像で、御覧になったことがあるでしょう。ああ言う風に、素晴らしい眺望が眼下あって、関門海峡が、全部見下ろせたそうです。

 わたくしが母の言葉から類推するに、・・・・・元、愛新覚羅コセイさんが住んでおられた様な、純和風数寄屋造りで、庭は芝生で、眼下に、関門海峡を見下ろす・・・・・という、崖も含めれば、二千坪か、三千坪のお屋敷でした。愛新覚羅コセイさんとは、ラストエンペラーの姪にあたり、一度、父君、愛新覚羅・溥傑氏が日本を訪問されたときに、その、数寄屋造りの豪邸(ただし、きらびやかではない。見かけは、とても地味だ。だけど、数寄屋造りを、今、作るとしたら、大金が必要だ)が、テレビ画面に映ったのです。コセイさんの一家は、神戸かどこかに引っ越しをされたはずなので、私の推察通りに、本当に元愛新覚羅コセイさんの、お屋敷だったところかもしれません。平屋で、50坪以上の邸宅です。それが、三菱重工の、工場長の社宅というわけです。棟割長屋が、社宅だと、言う一般人のイメージとは、なんとかけ離れていることでしょう。

 母は、このことを私に、「本当に現代の、お殿様です。そういう事なのよね」と、言いました。で、そこのご主人は、むろん東大卒でした。さて、水谷家が重要です。水谷家も、お坊ちゃんは、東大卒で、それは、ときわ台の住民があまねく知るところでした。

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副題3、『ところで、水谷さんが、毎日新聞時代に、創設した文化事業のうち、現代アートの方は消滅している。表向きは、毎日新聞の、財政難ということになっているが、それは、半分は、嘘であり、私を貶めるために、廃止された。どうしてそういうかというと、2021年の12月6日の、NHKニュース19時で、突然にアウンサンスー・チー氏の四年の収監のニュースが出てきた。それは、まさしく、今書いている、カリタス小通学バス襲撃事件の際に、殺されたとされ、午前11時には、その外交官がアウンサンスー・チー氏と、一緒に動画として、NHKニュースに出てきた、その若い外交官を、思い出させるからだった。それで、隠微な形で、私に、この一件を書くなと言って居るところだったし、2021年12月5日、9:45AMの、NHK・ETV 日曜美術館、ア-トシーンで、建畠哲((ただし、漢字は、したが口ではなくて、日であるが、今、IME手書き入力が、このパソコンで、どうしても出来ないので、こちらの漢字を使う)さんが出てきたのも、水沢勉氏について、もう書くなと、言っていることと、同じだったからだ。ニュースも文化面(番組)も、私のブログに連れて動くのだから、私は自分を大物だと、思わざるを得ないわけで・・・・・』

 ところで2021年12月5日に博多マラソンが開かれて、最終回だと、報道をされました。予算が、捻出できないのだそうです。朝日新聞社がですよ。困ったことですね。

 ところで、なぜ、水谷家を、実名で、さらしたかというと、すでに、ご一家はそこに住んでいないと言う事と、当主様がすでに、亡くなっているので、遠慮なく、実名をさらします。一般人ですが、重要な仕事をした人だからです。毎日新聞の記者として、数々の文化事業を立ち上げたと、言う事を我が家では知っていました。父が、美術に関心があるからです。

 今、毎日新聞のサイトを開くと文化事業として、以下のものが浮かんできます。



将棋名人戦

囲碁本因坊戦

日本音楽コンクール

全日本学生音楽コンクール

伊勢神宮奉納書道展

将棋王将戦    と、出てきます。ただ、私は、自分が美術の世界の人なので、どうして、【毎日現代美術展】と、隔年に、開かれていた【国際美術展】の二つが、無くなっているのかが、ひどく不思議であり、残念であり、・・・・・・かつ、それが、無くなったのが、単に、お金の問題だけではなくて、私を弾圧するためだったから、さらに残念に思っています。

 この件は、大変重要で、2021年12月5日、午前9時45分から、NHKETVで草間彌生展が紹介をされ、そこで、建畠哲(ただし、したが口ではなくて、日であるが、今、IME手書き入力が、このパソコンでは、どうしても出て来ないので、こちらの漢字を使う)さんが出てきたのも、今、現在私が書いて居ること====水沢勉先生(葉山の美術館の館長)====が、日吉で、私に関する、ひどいうわさを流したという、件を書くな!======という脅かしだったと、思います。二人は、建畠さんの方が年上だと、思いますが、ほぼ、同格の美術評論家だからです。しかし、それならそれで、ギャラリー山口のオーナーが他殺であるのに、自殺と喧伝をされている話とか、

 毎日美術展の常連だった、大久保忠春(私のたった100人しかいない、横浜国立大学付属中学の同期卒業生)さんを、暴走老女の無謀運転という形で、殺した話などに繋がっていき、そちらに触れないといけなくなります。

 大久保さんは、大学教授なのに、それが、暴走老女にひき殺されたと、言う話が、全国ニュースにはなりませんでした。私は、一生それを知らないで過ごすところでした。ただ、偶然にも京橋の画廊で、大久保さんが、勤務していた大学の関係者が個展をしたことで、その事実を(だいぶ後になって)知りました。これは、謀略です。1997年に大久保さんと私が同時に毎日展に入選し国展と会期が同じなので、

 国画会の偉い先生から、「川崎さん、あっちの方にいい絵を出したね」と言われてしまいました。私は国画会では、島田章三さんに弾圧をされていて、不遇だったのです。それは、わかる人にはわかっていて、「川崎さんは、とうとう、業を煮やして、毎日展に逃げていくつもりなのだ」と、みなされたわけです。

 しかし、事実は違います。当時=1990年代の私は、100号以上の油絵を、一年に、7~8枚制作していました。それで、四月末に都美館に搬入する、国展、毎日展、次の会期で、開かれる女流展、さらに後に開かれる神奈川県展、上野の森大賞展、神奈川女流展などに、作品を応募していて、その中で、当時は、国画会だけが、サイズの上限・制限をかけていたので、130号を国画会に出せなかっただけです。

 私は、ものすごく純真な人なのです。計算をしない人であって、国展を、毎日展より下に置いていたわけではありません。尚、こういう生活は、私のブログによく出てくる、渡辺幸子さんも同じで、同じく各種のコンクールに応募していて、彼女の方は、私の敵は、こちらの見方であるという形で、CIAの援助があるので、青木繁対称点の対象を、受賞しています。

 そして、私の方は、、2002年か2003年で、上野の公募団体展を、撤退したのですが、彼女は、2020年までは、そういう生活を続けていたでしょう。ただ、腰を痛めたと、聞きました。変な形で、上半身が、右側に傾いていたので『あれでは、100号以上の大作を描くのは無理では、ないかなあ』と、思っている次第です。しかし、彼女が、最も大切な基盤としている新制作展を最近は、見ていないので、ネットで、調べただけですが、彼女は依然、出品をし続けている模様です。

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副題5、『ここで、島田章三さんの妹である、大沼嘉津江さんが登場する。彼女が登場する意味付けは、のちに、横須賀市副市長に夫・俊一氏が、成り上がっていく陰に、存在した悪女、杉本正子さんと、私との三角関係を、書き表す…‥という目的がある』

 島田章三さんが、なぜ私を弾圧していたかというと、北久里浜の例の水道山の一件があります。だから、島田さんも大・CIAエージェント、瀬島龍三に動かされていた人間なのです。そのおかげで、横須賀市から、大金が彼に流れていて、それで、彼が学長をしていた愛知芸大は、輝いていました。

 どういうことかというと、当時この実質的大詐欺事件には、大まかに言って、三者が、共同をして実行をしたものだったのです。まず、京浜急行です。二束三文だった、北久里浜東側の山に、京急が池田分譲地を、開発し、道路や水道や、電気ガスを設置しました。そういう風に、インフラを整備したうえで、その山の、広い土地の中から、京急北久里浜に最も近い、値段が高い場所を益山重夫という元海軍参謀が、ほぼ、2000坪を私有化し(ほとんど、無償でです)ました。その悪だくみに、私が巻き込まれ、被害を与えられそうになったので、調査を開始し、その悪だくみの、すべてが、、わかってしまったのです。その私を、益山氏の妻の、智恵子さんが、車で引き殺そうとしたのを、私が電話が盗聴されていることを知ったうえで弁護士さんに知らせたのを、電話の盗聴で知り、『妻が、この暗殺に失敗したのは、絶望的な、事態だ』と感じて、重夫さんは、自殺した可能性があります。元、帝国海軍の、上層部だったので、自殺用、青酸カリは、常に、保持していたでしょうし。

 それが、1978年10月11日だったのですが、9月の末には、私の方には、事件の全貌が判っていたので、

 池田分譲地に住む杉本正子さんに、この件を知らせたのです。どうしてかというと、彼女の夫、俊一氏は、当時、横須賀市の土木課長だったからです。日大卒で、横須賀市の吏員として、勤務している人でした。だから、横須賀市の土地が、無償で、益山一派にわたるのを阻止してくれるかと思ったのに、看過したのです。

 そして、彼ら一家は、豪邸に引っ越しました。この件で、看過した、おかげの御礼だったと、推察しています。引っ越していった先の豪邸は、その、近傍に、家が建たないという形で、2000坪を所有していて、それは、1980年から、ほぼ、35年間継続しました。かつ、杉本俊一氏は、のちに横須賀市副市長になりました。昔でいう助役です。大・大出世です。

 私が、正子さんと知り合ったのは、現在の、南横須賀幼稚園(当時は、第二横須賀幼稚園と名乗っていた)のPTA会長をしていた時期に、彼女の方から、頻繁に近づいてきたからです。彼女は、高島屋の靴売り場で、働いていた時に、ご主人と知り合ったと聞いていますので、たぶん高卒だと、感じています。

 が、偉い人大好きなスノッブ様です。大・大、スノッブ様です。偉い人とか、上流階級とくっついて、同化することによって自分の価値を高めていった人です。それも、一つの、手法ですが、私は、そういう手法が嫌いです。

 さて、それが、1978年だったわけですが、1979年に私はたまたま、横須賀市立根岸小学校の、広報委員をすることとなりました。その委員会には、杉本正子さんも入っていて、彼女の例の・・スノビズム・・をこれ以上はない形で、見せつけられることとなりました。杉本正子さんは、委員長の大沼嘉津江さんに、べたべたで、その6年前の、私がPTA会長だったころの、仲良しぶりは、120%捨て去っていることを見せつけたのです。

 なぜ、そういう事になったかというと、大沼さんが、島田章三さんの、実の妹だからです。たぶん章三さんが、大沼映夫さん(=芸大同期卒で、芸大教授になっていく人物)と懇談して、自分の妹と大沼さんの弟を、結婚させたのでしょう。その結果、国画会で、多大な権力を駆使することが、できたわけです。その上、芸大出身の奥様・鮎子さんも、国画会に所属させています。だから、国画会における章三さんの権力と言ったら、もう、すさまじいものでしたね。しかし、章三さんは、実は、人物が小さい人です。考え方が、とても狭い人です。それで、国画会内部で、芸大卒ではない人からは、ひそかに章三さんは嫌われていました。

 こういう部分は、私が、今、誰からも、お金をもらっていないから書ける話です。

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副題6,『私は、今まで、大沼嘉津江さんについて、たびたび書いている。それは、CIAエージェント、瀬島隆三が、陸軍中野学校時代に、知り合い親友になった、益山重夫氏の自殺(?)に対する、復讐策として、島田章三(国画会・会員であり、愛知芸大学長であった)と、若江漢字(横須賀市、衣笠駅を最寄りとする地域に住んでいる現代アート系作家・・・・その妻の一族が経営している、大型画廊、カスヤの森美術館は、それほど、人気が高い美術館とも思われないのに、朝日新聞の、美術館の、催し物記事に、しょっちゅう登場する。それこそ、CIAエージェントたちの支援であろう。しかも、漢字氏の姉、若江良子(漢字氏のマネージャー)さんと、夢松洞という画廊のオーナー松中美保子さんが、タッグマッチを組んで、さんざんにいじめてきた。鎌倉に住んでいることの難事の一つだった。陰に酒井忠康氏の支援があったと、はっきりとわかっている。この若江良子、松中美保子両女史と、比較をすると、大沼嘉津江さんは、ずっと、穏健で、純真である。体格は章三さんにそっくりで、太って居るし。

 それで、・・・・彼女は怖くないのだ・・・・と、言う形になり、さんざんな陰口を利かれていた。どうしてそういうことになったかというと、彼女が、根岸小学校のPTA、広報委員長になったからだった。PTA三役というのは、特別な才能がない、専業主婦にとっては、やりたい仕事の一つで、うまくすると、国会議員まで、上り詰められる。 

 立憲民主党の国会議員、早稲田ゆきさんは、まさしく、そういうタイプなのだ。ただし、早稲田さんの場合は、卒業大学が、早稲田大学であり、中学と高校が白百合だから、たいていの女性は、「彼女の方が、自分より上ですね」と納得をしていて、悪口を言わない。ところが舙津江さんの方は、彼女自身の能力や資格が勝って居たと言うよりも、ひとえに、島田章三さんを、私の上に置く事が目的で選ばれて居る訳だから、普通の主婦にとっては、納得の出来ない人選だった。

 その大沼嘉津江さんが、中学時代は私立清泉に通って居たのに、高校だけは、県立の新設高校に通って、居たひとで(そこは、ひどく偏差値が低いわけで、かつ少子化の今では消滅をして居る学校だし)、・・・・・横須賀で、人の上に立つ、===ひとかどの地位に就こうとするのなら、特に女性なら、大津高校を卒業をして居るべきでしょう・・・・・と言う暗黙の了解事項が皆んなの胸にあったから、彼女は、嫌われて居たわけで、私の目から見ると可哀想な人でもあった。

 尚、大津高校とは、旧制第一高女であって、横浜における、平沼高校の位置に在る。私は当時、横須賀に引っ越してきて、たった、五年目だったが、こどもが幼稚園時代に、既に、PTAの会長をしていてそれなりに、人付き合いがあったので、横須賀の古くからの住民の、意思決定の方法や、行動様式を、結構、普遍的につかんでいたのだった。

 で、嘉津江さんには、もう一つ他人から馬鹿にされる欠点があった。・・・・・障害も無く普通に生まれたお子様を、小さい頃に死なせてしまっていた。そういう事なんて、母親としては、失格よね・・・・・と言うムードも、彼女を良く知って居る地域社会の中にはあったのだった。私は、彼女を見て居ると、「雉も鳴かずば撃たれまいに」と言う言葉を、いつも思い出した。また、

 島田章三さんに、大金が、横須賀市から流れ込んでいる・・・・・例えば、大衣(タイコロと読む。10畳程度の普通の部屋に飾るのに適切な50㎝×70㎝の額サイズ)のリトグラフ(版画の一種)を横須賀市が、7000万円で買ったとか、言うのは、普通の人には許容できないわけで、そこも憎まれて居る原因だったと思う。

  特に島田さんが描く形象は愛知芸大学長としてのものだから・・・・・そういう、現代アートとしては、プロ中のプロの世界での評価を狙って居るわけで、一般庶民に取っては、何を、描いてあるかが、皆目解らない絵だから、よけい、その値段の高さが、不審を持たれていた。東山魁夷とか、平山郁夫と言うわけではないので、・・・・美術界・・・・特に現代アートの知識には、うとい・・・・一般庶民には、納得が出来ない訳だった。

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副題7,『こ こで、全く新しい、文章を開示します。それはですね。成人したこどもが、実家の近所に住んでいる場合、その親の代で、ご近所から、いやな人だなあと、思われている場合があるというケースです。島田家は、母親が、歌人だったそうです。それは、根岸小学校の学区内では、とても、異質な存在です。いわゆる浮き上がるという状態を示していたと、思うのですが、そのご母堂自身も反対に、ご近所主婦などを相手にしないと、言う態度があったのではないかしら?

 ここで、水沢勉先生のご母堂の話に入りたいと、思います。これは、母から、聞いたことでもなく、妹から聞いたことでもなく、むろん、弟から聞いたことでもありません。お手伝いさんから、聞いたことでもなく、全く別のルートで入ってきたのですが、

 水沢家では、「奥様(=勉先生のご母堂)が、威張っているので、いやな感じよ」と、言う噂です。私の母は「沢野夫人は、難しい人よ」と言って居ました。沢野家って、道路一本隔てた、西北にあたる家なので、ごみ捨て等で、お付き合いがあるわけですが、その際に、いろいろ、苦しめられたのでしょう。一方で、水沢家とは、一切お付き合いしていませんでした。

 これから水沢家が、内包している問題点について、触れていきます。ただし、それは、ご長女の悦ちゃんが、私の実妹喜美子が他殺であるのに、「自殺したのよ」といううわさを日吉で流したからです。なぜ、悦ちゃんがそんなことを知っているかというと、弟の、水沢勉先生から、そういう話が入ったからでしょう。では、なぜ、私が、ブログでも、他殺であるとは、書いていますが、自殺だとは、書いていない、話を、水沢先生は、自殺だと、信じたのでしょうか?

 それは、実妹、喜美子が、私にかけてきた、「困った、困ったお金がない。不安でしょうがない」という30分程度の電話を録音した手合いが、それを聞かせたから、信じたのではないですか? それも、私の生涯で、初めての妹からの来信でしたが、その一年後ぐらいに、妹の連れ合い・柏木孝司さんが、かけてきた、30分程度の電話も生涯で、初めて彼から来たものです。そして、14階から飛び降りたと、言いました。しかし、何度も強調をしますが、江戸川区清新町の、都の供給公社が、分譲した、マンション群に存在する、五棟ぐらいの、14階建て、マンションでは、14階には、人が入れない仕組みになっているのですよ。妹は、四階建てで、広さが、119平米ある、発売当時は、とても高かったマンションに住んでいるので、その14階建てに見えるマンションの、14階に、柏木孝志さんは、上ったことがないのでしょう。だから、彼は、口から出まかせのウソを言ったのです。そして、こちらも録音をされ、いろいろな人に聞かせるべく、音源を、伊藤玄二郎が持っていて、酒井忠康氏には、まず、聞かせたでしょう。それから、水沢勉先生が、それを聞いたかどうかは知りません。でも、酒井先生に頼まれて、悦ちゃん(私の妹、喜美子と日吉台小学校の同期卒)に聞かせたのです。

 水沢勉先生のご母堂が島田章三さんの、ご母堂と同じく、ご近所を睥睨し、威張っているがために、それによって傷ついた人が、水沢家が隠している秘密を私に教えてくれました。それをここに今書くと、復讐譚になるので書きません。ただし、もう一つあります。本江邦夫さんが、羽田空港で、急死をされた件は、私と水沢勉先生と、三人が絡んだ一件です。本江さんは、むろん他殺でしょう。韓国から、帰ってくるジェット機内で、コーフィーなどに混入して、遅効性の毒薬を飲まされたと考えています。お気の毒です。そこで、水沢先生は、ひとつだけでも、CIAエージェントが、どう動くか理解をなさらないといけなかったのです。

 水沢家の問題点は、このお母様の精神的な未熟さゆえに生まれていると、考えています。社会的な地位を考えると、東大卒のご主人がいて、ご主人が、いすゞ自動車の社長にまで上り詰めたというのは、上級国民そのものであり、我が家の東隣り方向に住んでいる、例の、母が、「現代のお殿様よ」と、伝えてきた、三菱重工の重役一家と、ほぼ同等でしょう。でも、母は、とても楽しそうに、そのエピソードを話したわけで、「威張られて嫌だった」などとは、言っていません。そして、私もそちら様から、いやな思いを感じさせられたことはないのです。

水沢先生は、この噂を日吉で、流した結果、四人の人の殺人に、加害者側として、下端をしたと、私は考えています。それは、カリタス小通学バス襲撃事件が起きて、その事件で、被害者として二人が、報道をされ、加害者が、自殺したこととなっています。むろん、自殺は嘘で、加害者も、殺されているでしょう。その三人+本江邦夫さんです。

 ちょっと、厳しい、いやなことを書きました。しかし、元へ戻ります。大沼嘉津江さんと、島田章三さんに戻ります。いつも中途半端なところで、終わっていたこの兄妹について、最終段階まで、語りたいからです。

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副題8、『私は、島田章三さんの、実妹、嘉津江さんと、PTA活動を通じて、長時間を一緒に過ごし、嘉津江さんの、次兄=章三さんに関する自慢話を相当量、聞いた。私は、常に、物事を斜めから俯瞰する人間で、嘉津江さんが、変なことを言っていると、思っても、決して、リアルな生活では、喧嘩をしない主義だから、嘉津江さんは、私が内心で、何を考えているかは知らなかったと思う。だけど、私は、この一年間で、・・・・・島田章三さんって、ずいぶんとつまらない人だなあ・・・・・と、考えるにいたった。1979年には、島田さんが、すでに、大学教授であるとは、嘉津江さんから、知らされていたが、自分が、横浜国立大学付属中学時代に、指導をしてくれた先生とか、お茶大付属高校時代に、指導をしてくれた先生の、うち、7,8人、人格の特に、優れた方がいて、そういう人たちの方が、ずっと尊敬ができると考えていた』

 ともかく、大沼嘉津江さんが、広報委員長というPTA三役をしていたころ、彼女は、相当な陰口を聞かれていました。だけど、ご本人はあまり気にしないタイプ(お兄さんとそっくりな、太っている人だった)らしくて、おっとりと、最後まで、投げ出さず、委員長を務めました。が、広報(新聞)を作る知識はない人です。で、中学時代から、新聞部で、活版印刷の立派な新聞を発行していた、私が、新聞発行にあたっては、実質的なリーダーでした。ともかく、それに感謝したのか嘉津江さんは、超上等なケーキを作って学校へもってきてくれました。パリで、売っている様なタイプです。丈が低く(一番高い中央で、6cmぐらい)て、バターや、クリームがタップリと使ってある濃厚なもの。プチサイズで、も、おなかいっぱいになり、かつ、見かけも、美的に言って、とても美しいものを、作ってきてくれました。

 こういうタイプのケーキですが、JR御茶ノ水駅近辺で、一回見かけただけで、それ以外では、(例えば東京駅のエキナカでも)、見たことがありません。ただし、パリでは、こういうタイプのホールケーキを売っています。日本のケーキは、フルーツ等を使って、見かけは、とても、美しいが中身は、美味ではないです。結局、パリ風のケーキではサイズが小さいのに、材料費が高くなるので,他店との、競争に負けるから、はやっていかないのだと、思います。

 その、濃厚なケーキを食べると、嘉津江さんが、上流階級の、お嬢様であることが、しみじみと納得をさせられました。私が作るお菓子は、プリン、ゼリー、クッキー、パウンドケーキ、が、基本で、中に入れるもので、バリエーションをつけるだけで、あの様な、プロ顔負けの、(そうですね。パティシェとしても、星一つ、または、二つ上げたいぐらい、素晴らしい味でした)ホール・ケーキは、作れません。

 ところで、皆様は、PTA活動の実際をご存じですか? 実は仕事としては、広報委員が、最も面白く、かつ長時間拘束をされる立場です。で、40回ぐらい、大沼嘉津江さんと、4時間以上を過ごしたので、彼女がつぶやく話から、章三さんの人格とか、行動様式をつぶさに知ることとなりました。

 それらは、私から見るとアウトアウトの話でした。嘉津江さんは、大学を出ていないのかなあ? 芸術概論とか、心理学概論とか、とったことがないのでしょうか? ともかく、懐疑というものがない人で、兄(章三さんの方、和歌の世界の人、東大出身の、長兄については、話が出なかった)のやる事、言う事は、すべて正しくて、素敵だと、思っている人でした。だけど、私にしてみると、・・・・・それって、商売人としての感覚ですよね。芸術家のそれではない・・・・・と、言う話の連続で、うんざりしていたのです。しかし、例のごとく、リアルな世界では喧嘩をしない主義だから、自分の考えを嘉津江さんに告げることはありませんでした。

::::::::::ところで、ここでスピンオフですが、章三さんの妻鮎子さんについて述べたいと思います。すごくきれいな方です。誰に似ているかと言えば、現在の朝ドラの主役、上白石萌音・系の、美女で、あそこまで丸顔ではなくて、うりざね顔ですが、きれいな人で、絵も、シンプルで抒情的です。だけどね。不幸な人だなあと、思ってみていました。ただ、こういう言い方は、国画会の中で、知的レベルの高い方なら、全員肯定してくれると思いますよ。鮎子さんは、未亡人になったことで、やっと章三さんの呪縛から解放されたのです。二人は全く違うタイプで、夫婦であることが不自然な組み合わせであり、ひとえに章三さんの希望と熱意で、成り立っていた夫婦でしょう。:::::::という挿入から元へ戻ります。

 1979年に章三さんが、どういう人であるかをすでに把握をしていたのに、どうして、国画会の、展覧会に、出品をしたのでしょうか?

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副題8、『ここで、私が、1950年代の中学生のころから、2001年まで、50年間にわたって、熱心に見て回った、各・公募団体展の、特色とか、性格の違いを述べておきたい。美術界の人間でも、私以外の人間は、こういう事を語らないと,思う。利害関係が微妙に絡んでいて、自分の損になるからだ。でも、私は、常に、真実を語ろうと考えている人なので、こういうテーマでも、真実を語りたい。しかし、論文というほど、長いものではなくて、いわゆるうんちくの類だ。ところで、私は、ここに名前を挙げた団体展以外にも、行動や、自由美術、太平洋、一水会、新魁樹社とか、いろいろ見ているのだけれど、自分が、将来出品するつもりがないと、考えていた団体は、文章をまとめるほど、その特徴を把握していないので、文章としては、触れないで置く』

 国画会を選んだのは、1950年代から(そうです。灰色の、コンクリート製の都美館の時代から、)ずっと、公募団体展を見続けてきた私の各団体の特徴をつかんだゆえの選択でした。

 春一番に開催されるのはモダンアートです。これは、抽象画が多い。しかし、私は、自分の絵の傾向をまだ決めかねていたので、モダンアートにかかわると、不自由になると、思いました。次が、春陽会です。これは、具象画が、おおい。かつ少しエネルギーレベルが落ちていると、感じました。ここで、飛躍して秋へ飛びます。秋で、もっとも有名な展覧会は、日展です。ジュディオングみたいな、上等な人もいます。ただね。10枚ぐらい、全く同じものを描いた絵が並んでいることがあるのです。テーブルの上に、花瓶、リンゴ、ブドウ、牛の頭の骨などが、並んでいてそれを四方八方から、見つめて、描かれた、10枚ぐらいの、同じタイプの絵。これが何を意味するかというと、徒弟制度を意味していて、その先生の言うとおりに制作をしていたら、日展に必ず、入選すると、言うことを意味しています。こういうのは、私にとっては論外です。

 次に有名なのは、二科展です。岡本太郎が一時期出品をしていたことでも有名ですが、最近芸能人を多数入選させています。芸能界出身の人でも、絵の才能がある人は、多いとは思います。しかし、チケットを売りさばくための手法でもあると、思います。それって、団体の財政基盤を確かなものにするとは思います。でも、私にとっては、民放の、ニュースショーの中で、工藤静香の絵を見せられても、「私って、ブラックが好みなのですよ」という風体だから、・・・・・・・・・・まあ、後は言いません。

 さて秋一番の展覧会とみなされているのは、新制作です。ここに問題の人保坂航子(本名は、涼子の筈。ただし、山口みつ子さんが、殺されることになった引き金を引いた人なので、・・・・・そのいきさつを書いて居る、私から、身を守る為に、名前を変えている・・・・・私は、むろんの事見るのも嫌です。(2010年1月17日より前は、大丈夫だったのですけれど)

 そして、望月画廊で私をいじめぬいた渡辺幸子さんも、ここに出しています。この二人が嫌いだから、新制作に出さないのでしょうか? もちろん違います。本当のところは、色の問題があるのです。1980年代までは、新制作の会場にいると、『白いなあ』と、感じるのでした。 

 小関利雄先生の、画塾で、塾頭をしていた、熊沢 淑さんなど、1980年から、2000年にかけてが、最も活発な活動期間だったと、思うのですが、新制作展では、150号を横向きに飾っていました。非常にぺーるな、グレージュという色彩を用いていました。が、それが、都美館の、一つの壁の半分を占めていると、壁のグレーに対抗して、浮き上がって見えて、実際より、さらに、白いなあと、感じるのです。

 新制作というのは、1980年代においては、公募団体展のトップだと、みなされていました。で、会場にいると、とても感じがよく、快感を覚えます。統一感があるし、それが、上品という語彙で、あらわされる空間だからです。

 同じことは独立の会場でも言えました。今でこそ、独立は、絹谷さんが、トップです。また、馬越陽子さんも会員です。この二人の絵は豪華絢爛です。高い絵の具であるカドミウムイエローとか、レッドをバンバン使ってある、派手な絵です。しかし、1980年代までは茶色いと、いう感じだったのです。お上品さを売り物にしている、新政策とたい子言う売る為か、泥臭さとか、肉体の生命力というものをセールス・ポイントとしていると、感じます。しかし、茶色は、私にとってはだめなのです。殺した色を研究するのだったら、まず、グレーを研究したいのでした。

 すみません。ここで、未完ですが、中断をさせてくださいませ。もう、23時間半起きていて、ほとんど死にそうです。台所の後片付けに入りたいです。続きは七日の午後、始めます。ところで、メモ書きとして、次に何を書くつもりかは、書いて置きましょう。普通のブログ文体とは、はなれますけれど・・・・・・

 水谷さんに戻らないといけないですし。水谷さんは、わが実家から、四軒目のお宅で、かつ、毎日新聞の名物記者として、NHKと、共催の、音楽コンクールと、自社独立の文化事業である、毎日現代美術展と、毎日国際美術展を立ち上げた人なのです。

 そういう高い実力のある人だと、両親から聞いていて、毎日新聞社発行の本を売りにもいらっしゃるので、よく知っている人のつもりでした。で、私は、日吉中の大人から、かわいがられていると、言う自信もあったので、東横線の車中で、「水谷さんは、どこの大学を出ていらっしゃるのですか?」と、質問をしたのです。

 私が最も知りたかったことは、東大出身なのか? それとも芸大出身なのかという点でした。

 しかし、水谷さんは、突然黙りこくってしまって、とても怖い顔になりました。そして、電車が渋谷駅に着くと(当時は、終点だった。三階に駅があった)、あたりの人々が、動いていて、聞き耳を立てていないことを確かめたうえで、「僕の卒業した大学は、青空大学だ」とおっしゃったのです。そして、改札口に向かって歩きながら、数十秒後、「あんたはバカだけど、あんたのおかあさんは、聡明だ」とおっしゃると、走る様に、向こうへ、跳んで行ってしまったのです。

 私が、日本現代史に、ひどくこだわるのは、この失敗があるからです。水谷さんの、高等教育時代には、戦争が絡んでいるのです。きっと軍国少年だったので、海軍兵学校とかに通っているうちに、敗戦を迎えたという事情があるのでしょう。

 いや、ここですが、東大卒だと、聞いているお坊ちゃまが、私より年上です。すると水谷さんは、終戦時、30歳以上だったと、言う事になります。すると、青空大学とは、陸軍・中野学校・辺りだったりして。・・・・・うーん判りません。ただ、もし、陸軍中野学校卒だとしたら、立派な紳士でも、他人に語れないことがあるものだと、思います。時代の激変によって、昔は、誇りだったことを、現代では、隠さないといけなくなる。本当の事はわかりません。今となっては、水谷家と接触するすべがないので、特にわかりません。

 また、別の考え方もあります。松本清張という人は、小学校しか出ていないのに、小遣いとして、朝日新聞社に勤務し、そこから出世していきました。大ベストセラー作家になりました。しかし、清張さんは、個人事業主です。一方水谷さんは、組織の中の人です。組織の中で、大きな仕事をするためには、ひとを支配する力が必要です。毎日新聞に入社をしたほかの人間が、小学校卒の人の言う事を聞くはずもなく、やはり、水谷さんは、それ相応の学校を出ているのだと思います。例えば、中国支配のために大学・東亜・同文書院だったりして。それは、すごく優秀な人が入学した大学なので、誇ってもいいわけですが、ちょうど、国際基督教大学に入学している私と、立場が反対なので。東亜同文書院の名前を出すことを避けた、という推察も成り立ちます。

 私にとっては、たまたま、父が昭和五年ごろ卒業だし、その10年ぐらい前の大正時代には、おば二人だって、女子師範学校を出ています。だから、男性にとっては、大学卒業するなんて、全く当たり前のことだと、思っていたのに、戦時中に、10代から、18歳ぐらいを過ごした人にとっては、敗戦も絡んで、大学へ進学できなかった人も多いのでした。

 この恥多い、かつ、つらいエピソードの中で、唯一の救いは、母をほめられたことです。母は、高等女学校と、その専科を卒業しただけで、今でいう短大卒の立場です。だけど、聡明だと、言われました。「へーっ、女性の価値って、四年制大学を出たと言う事とは、関係がないのだ」という全く新しい地平を開かせてもらえました。

 しかし、1945年まで、地方に住む女性にとって、唯一の高等教育の場だった、女子師範学校は出ていないのに、聡明だと、言われて……でも、その母の失敗というか、恥の話を後半で、語らないといけないのが、この章なのでした。

 

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朝ドラスカーレットの主役は、陶芸家にして私の妹と同じ名前、喜美子だった。そして小田歯科医院だが?

2021-12-02 23:12:10 | 政治

 今は、2021年12月5日の、午前11時40分です。朝、この文章の加筆部分・最後尾を書いたのが、午前4時半で、六時に寝床に入りました。しかし、まったく、眠気が訪れません。

 それは、40年以上前に、敵さんが、子供に加えてきたひどい攻撃を書いたからです。私は今まで、どんなに誤解を受けても、他者の攻撃とか他者の悪とか、だけを書いてきました。誹謗中傷をしていると、みなされても、それに対応する自分の方の被害は、語ってきていませんでした。特に子供に加えられた害に、ついては、語ってきていませんでした。それは、敵さんのあくどさを熟知しているからです。私が子供を愛し、それに加えられた恐るべき被害を語ると、そこが、弱点だと、みなされて、そこにさらに攻撃が加えられます。そして、40年前に子供に加えられた被害が、今度は孫世代に、繰り返される恐れがあるからでした。

 しかし、機は熟したと、思う気分が高まってきました。その上、私自身の死が近いという思いがあります。彼らの攻撃意欲と、私が神様に、彼らの悪をご報告することが、スピード競争になっているわけですが、・・・・・鎌倉駅の地下道で、を書いたことで、かまくら随一の有名人である、養老孟司先生と、井上ひさしが、どういう風に動いているか、または、動かされているかを、書いたことで、・・・・・その前に浅尾慶一郎や、角野栄子さんについて、書いていますね。途中で、文章が終わっていて、完成していないが、・・・・・敵さんたちは、私が次に何を書こうとしているかを察していると、考えます。だから、敵に促されるという趣きもありますが、まあ、筆の進みにつられて書いたのです。しかし、本当に苦しい事だったらしくて、眠気が、一切訪れないのです。で、普通の仕事をできる状態でもないので、最後のところあたりを修正、補稿していきましょう。そういう輔弼を、5日に入れて、以下、4日に書いた、冒頭に入っていきます。

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 ところで、この章は、4日の夜九時まで、総タイトルを【やまゆり園事件の真実を書かせないが為に妹が殺された。…それを自殺として日吉で回された事を書こうとしたから、カリタス小通学バス襲撃事件が】としておりました。が、4日の、夜九時15分に上のものへと変えました。二番目のものが、100%程度の割合で、以下の文章の、趣旨を正確に表しているとは思いませんが、それでも、朝ドラは、4000万人の人が見ている可能性があるので、それを使った方が、苛め抜かれていたわたくしの苦しさが、表現しやすいからです。という輔弼を入れて、二日に書いた初稿の冒頭に入っていきます。

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副題1、『オミクロン株についての、私の、独自の論・・・・・それは、やはり、生物兵器です・・・・・となる。そういう風に、発表してしまうと、また、負担が増すが、だれも、言っていないことなので、それは、言っておきたい』

 長谷川智恵子さんが、茨城県教育委員会で、「染色体異常を示す胎児は、妊娠中の検査で。見つけて堕胎をさせましょう。そうすれば、県の予算を無駄に使かわないで、すみます」と云いました。(あと注1)これは、塩見和子さんが、裏で、そういう風に言う様に教唆した可能性もありますが、智恵子さんご本人が、すでに「この地球上に人類が数として、溢れすぎてしまった。それで、我々富裕層は、宇宙に飛び出していくことが、期待をされていて、その準備は、進んでいるのだが、自分の世代、及び、自分の子供や、孫の世代には、それが、間に合わない可能性がある。それで、次善の策として、絶対に、人類の数を減らすべきで、したがって、妊娠を間引く必要がある」と、信じている可能性もあります。長谷川一族とは、大金持ち・・・・・智恵子さん自身、当時、日動笠間美術館の館長だった。サザビーの日本支社長をしていた塩見和子さんの手配だと、思うが、リヒ(キ)テンシュタインに、自分のポートレートを、カラーリトグラフで、制作してもらっている。日本人女性で、妻であり、母である人としては、稀有な存在・・・・・・なので、フリーメーソン化している可能性があり、世界中の富裕層と、交流がある可能性があります。となると、人口抑制しなければいけないという方針を、彼らと一緒になって、自らも、心から、それを信じていた可能性があります。

 ただ、長谷川智恵子さんが、これほど、忌まわしい発言をして、しかもそれをNHKニュースが報道をしたという事は、一つには、私の4番目の孫が、軽い自閉症スペクトラムがあると、診断をされたことへの、残酷な攻撃だった可能性があるのです。このケースが失敗をしたので、さら劇的で、盛り上がった事件として、やまゆり園事件を起こしました。やまゆり園事件は、私を脅かすのが目的なので、植松聖は、47人もの殺傷は、起こしていません。NHKは何年間にもわたって、【19の命】というサイトを運営していました。が、19人もの死者はいませんよ。一人も死んでいません。尾野一矢さんの、首を刺したというのは、事実でしょうが。

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副題2,『新コロナウィルスが、生物兵器であるとか、日本は、被・植民地国家であると、言う発言を続け、かつ、ご近所から、土地を盗まれるとか、銀座で、最も心が通っていた画廊オーナー山口みつ子さんが、殺されてしまうとか、種々様々な、攻撃にさらされてきた、私に対して、四番目の孫に軽い自閉症スペクトラムが、発生したということは、敵方を欣喜雀躍をさせたらしい。長谷川智恵子さんの、発言も、そこを、グッと、えぐってやろうとして起こされたのだが、それが、失敗したと考えて、次に起こされたやまゆり園事件ほど、忌まわしい謀略はなかった。あれは、障碍者は、口が自由に聞くことができず、事件について、正しい説明ができないだろうという見込みに基づいた、・・・・・障碍者を馬鹿に仕切った忌まわしい事件だった。植松正は、リクリートをされて、教え込まれている犯人だから、彼が、障碍者を馬鹿にしていると、言うのは、ほぼ、嘘の脚本である。本当の悪人は、私が、常日頃、鎌倉エージェントと呼んでいる人たちで、それに協力したのが、黒岩神奈川県知事だった。

 このオレンジ色のフォントで、書いた部分が、非常に重要だった。それを、やまゆり園事件の、一周忌直前に、再び、私に書かれることを恐れて、妹を殺したのだった。それを、自殺と、言う形にするために、大きく協力したのが、妹の連れ合い、柏木孝司だから、私も、本当に大変だった。だが、しこしこと、かつ、きちんとそれを書いていこう。

 しかし、やまゆり園事件が発生した当日の午前中から、真実を語り続ける私をだまらすために、事件一年後、彼らは、私の実妹・喜美子を殺しました。

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副題3、『朝ドラ、スカーレットほど、私にとって、ひどいドラマはなかった。陶芸家が、主役ということは、ご近所陶芸家にして、私の猫の事で、自分が窃盗をしている方なのに、私の猫から、「あなたは嫌いだ。私はカワサキチエコの方が好き」と、言われたら、パニックに陥って、警官を呼んで、自分の恥ずかしさや、気まずさへの、復讐をしようとした、石川和子さんを、称揚するための、プロット採用だった。石川和子さんとは、伊藤玄二郎から、その会社名をもらった鎌倉春秋窯を開いていた、彼の元愛人である。脚本家は、裏からあれこれの指令を受けていた可能性がある。

 そして、戸田恵梨香に、喜美子という妹の実名と同じ場名前を、役名として与えて、NHKに【スカーレット】という朝ドラを製作させ、放映し、私の、心をえぐりにえぐりました。ところで、戸田恵梨香は、すっぴんに近い化粧で、演技をしていました。陶芸家が、土をひねっているときには、実際に、お化粧はしていないでしょう。

 妹は・りけじょ・なので、家の中では、眼鏡をかけていました。が、外へ出るとき、特に新薬の宣伝をやりに、ホテルで開かれる、医師会とか、医学会に出席するときは、マスカラなどをバキバキ塗って、ばっちりとお化粧するので、すごい美女でした。その妹がほとんどお化粧をしないわたくしに向かって、しかも、目の小さな私に向かって「私は月見草で、お姉さんは、薔薇、見たいな人だから」というのです。そう言う表現は、別の章へと移動をした、初稿時の、この後半に触れる麻布の、【愛育病院】の、【内藤寿七郎】先生の診断と、つながるのですが、ここでは、詳述しないで、先へ進みます。

 しかし、私は【スカーレット】放映中には、何も書いていませ。朝ドラは、だいたい視聴率が、20%前後です。すると、4000万人の日本人が見ている可能性があるのです。そこへ向けて、「このドラマは、私をいじめるためのドラマです。しかも、実妹、喜美子は、殺されているのです」と、言ったって、誰が信じます。誰が耳を貸しますか?

 だから、ひたすら黙っていました。だが、鎌倉エージェントと、それに、付き従う人々の残酷さには、激しい怒りを持っています。だから、相手がどれほどに、有名な人であろうとも、対・わたくしに直接ひどいことをした人は、必ず、いつかは、委細を、詳細に書きます。直後ではないですが、いつかは、書きます。本日、2021年12月4日は、石井秀樹さんという人物が大いに使われて、意味ありげな行動をしました。本日は、それについては触れませんが、シェアハウス問題に戻ったときに、石井秀樹邸が、どういう意味を持っているかについて、触れます。

 ところで、内館牧子原作で、伊藤健太郎が、主演をする映画、【十二単衣を着た悪魔】が、おおこけに、こけました。伊藤健太郎は朝ドラ【スカーレット】で、大きくブレイクをした人間だし、・・・・・内館牧子は、相撲界をつぶしていこうとする人間だし、・・・・・映画は、木下工務店の資金援助を受けてできているしで、

『ああ、そうなんですね。これって、CIAエージェントたちが総力を挙げて作った映画ですね』と、思い当たりました。で、その時に、急に気が付いたのです。伊藤健太郎って、小説家伊藤整の四代目の子孫でしょう。伊藤玄二郎の孫かもしれないし、本家の、嫡出子(長男と、次男がいる)の孫かもしれません。

 ところで、五日に加筆しますが、この映画は、ホテルの、パソコンで、1000円で見る事のできる映画の筆頭に置かれていました。私は、無論、ホテルでも、夜は、パソコンで、ブログを書いているので、映画を見る時間などないのですが、『こういう形で、生き延びているのだ。伊藤玄二郎も、内館牧子も』と、思い当たりました。CIAに保護されていると、結局は救済されるのです。特に金銭面では、補填をされます。「よろしいですねえ」というだけですが・・・・・

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副題4、「妹が他殺であるということは、今まで何度も書いているが、棺の中に寝ている遺体を見たときに、胸から下がペッちゃんこだったのも、なるほどと、思い当たった事案だった』

 妹は、2017-7-10に、薬で、眠らされた後で、運び出されて、重機用の重量車体の、タイヤで、骨盤位下の、肉体を、ひき殺されて、死んだと、推察しています。結構立派なお葬式が開かれて、遺体を直接見たので、そう確信しています。妹の連れ合いは、私に生涯初めてかけてきた長電話の中で、「警察署で、遺体と対面した際に、僕は、それを見る気にはなれなかったのですが、娘が(姪は大卒の看護師です)、シーツの下に手を入れて、遺体をさわって、「ああ、骨盤がつぶれていると、言いました」と、以下、あれこれ、説明をしたのです。

 しかし、即座に「彼は、嘘を言っている」と、思いました。私は彼を冷血動物にして、共産党員だから、CIAの手下である。したがって大いに出世できた(JTの研究所の副所長)が、私にとっては、油断ならない人物だと、判断をしていました。ずっと前からです。

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副題5、『妹の連れ合いこそ、本当に恐ろしい。千葉大在学中から、共産党員であり、井上ひさしに典型的に、それが、表れているのだが、戦後、1949年の、三鷹事件(鉄道事故の方)当時から、共産党の、上層部は、CIAの別動隊であり、彼も、そういう動きをしている存在だったのだ。CIAは、警察と、共産党を、支配下に置き、私兵として使い、本当に優秀な日本人を殺していこうとしている。私は、そういう意味で、1965年から、ベイカーさんという金髪碧眼の、エール大学の交換留学生に目をつけられてしまっている。・・・・・』

 彼(=柏木孝司)とは、法事とか、新年宴会でも、一度も、個人的な会話を交わしたことがないのです。こちらを小ばかにしていますし。それに、本当に妻を愛していたら、妻が自殺したなんて、電話で知らせるのはおかしいです。

 この連絡は、こういう風にするべきでした。まず、自分の娘に、・・・・・彼女にとっての、従姉妹(=私の娘)に、電話で、「母が急死した」とだけ知らせなさい・・・・・というのが、普通です。二人は、当時は仲良しでした。しかし、私が他殺であると書き始めたときから、姪は、父親から、私とは、連絡を取らない様に命令を受けている模様で、かつ、私の娘が、ニューヨークへ、連れ合いの仕事の関係で、一家で、行ってしまったので、関係が切れていますが、2017年当時は、仲良しでした。

 で、娘からの連絡を受けて、「喜美ちゃんが急死したんだって」と私が、その情報を聞くのが普通でしょう。で、私は「えっ」と、一瞬絶句します。が、次に「お葬式の事は聞いた?」と娘に質問をします。すると、娘が、「それはまだ聞いていない」と答えます。それで、二、三日待って、お葬式のお知らせが来たら、娘一家と、私と主人と、息子一家が参列するという形で、総計10人は出席したと思います。たとえ、家族葬にしても、川崎英二一族、総計10人が参加したはずです。しかし、のっけから、自殺と知らされては、それぞれの、連れ合いも子供も参加せず、川崎家側は、総計三人だけ、お葬式に参加することとなりました。向こう=柏木一族、は子供まで来ていたので、自殺という知らせは、受けていなかったとも、推察されます。

 私は、2017年7月11日、柏木孝司氏から、シャーシャーとした説明を受けたときから、

 妹は、自殺ではないはずだ。自殺だと、言う電話をかけてきて、それを録音して、しかるべき人、例えば、北鎌倉女子学園の先生だったし我が家のほぼお隣さん(ただし、高低差が、大きいが)川合良一さんなどにも、聞かせるべく利用をするのだろうと、直感をしました。

 それが、実際に、日吉で、水沢勉さん(葉山の美術館館長)を、介在して、起きているのです。それを、私に書かせないがために、カリタス小通学バス襲撃事件は、起こされたのでした。水沢勉さん、もしくは酒井忠康氏を守る為でしょう。

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 うーん、ここで、また、普通のブログの文体で、書く事を中断したいと思います。メモとして、書きます。思いがけないことに、結論まで、メモが先に到達しそうです。日吉の小田歯科医院が舞台です。それが、妹が他殺だという真実に対して、35%程度の傍証づけをしてくれます。

 妹の死について、輔弼すべきことは、

一例をあげれば、17日の葬儀の、三日後、西葛西駅から、柏木孝司氏に電話をかけて、「一緒に夕食をとりませんか?」と、言ったら、「僕は、カロリーメートだけでいいんです。だから、駅までは、行きません」と断られた話など、・・・・・おかしい。おかしいです。葬儀の三日後に、妻の姉が、最寄り駅まで、来ているのですよ。絶対に妹の話を一緒にしたいと願ってきているのは確かでしょう。そのくらいのことは、普通の頭脳を持っていたら推察できるはずです。それなのに会わないとは、絶対におかしいです。深い悪意を感じます。

 彼は、共産党員だから、私を尾行している警察から、随時、私の行動についてのお知らせが入っていて、・・・・・私が「柏木孝司さんは、嘘をついている。妹は他殺だ」と確信をしている・・・・・という情報が入っているから、逃げたのでしょう?

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 そして、二例目としては、火葬場で、小林篤生さんから、「あの人じゃあなくて、あなたが、自殺をするんじゃあないか。先に、と、僕は思っていました」と言われた話など、です。それを、書かないといけません。小林さん(ICUで、一期下)の、書物【無門関の教え】

の出版に奔走した、私に対する、浄智寺さんを利用して、小林さんが、私を、大きく裏切って来た話(大法輪郭という仏教書専門出版社から、出版された。ので、私が教えた手法よりも、上等な書物となった。ので、私に対する親しみや、恩義など捨て去った、男性なのだ。姻戚関係としては、兄弟だけど、)に通じるし、

 小林篤生さんの妻(=柏木孝司さんの実の姉)が、小林さんが亡くなったのち(彼は、腎臓がんだと、私にその出版の件で、二、三度会ったときに、私に、告げていた、腎臓が、一つしかないとも言っていた。だから、自然な、病死かもしれないし、そうではないかもしれないが、

 ともかく、ラフで、不用心な性格の人物ではあるといっても、小林篤生さんが、戸田の火葬場で、私に対して、「あなたの方が先に、自殺をするんではないか?と、思っていた」というのは、彼が、私の妹・喜美子・が、自殺をしたということを信じているわけで、それは、ひどい事でした。しかし、その日に、彼の発言を拒否したり訂正したりすると、リアルな世界での喧嘩になるから、黙っていましたが、

 日吉で、水沢勉さん(現在葉山の美術館館長)ともあろう、大、大のインテリが・・・・彼は、父君は東大卒で、いすゞの社長だったのですよ。それから、ご本人は栄光学園、慶応大学卒です。これって松沢成文、もと、神奈川県知事もそうだし、東電の清水社長も、そうだし、ご近所の核燃料棒工場の立ち上げに、携わったと、私が推察している、富沢氏もそうです。富沢氏の父君は、慶応大学の教授だったのですよ。ともかく、横浜の住民にとっては、プラチナ級のエリートコースだと、言えます。・・・・・そんなエリートが、軽々と、

 「礒部の喜美ちゃんは、自殺したんだそうですよ」と、姉君、悦ちゃん(喜美子と、同年に日吉台小学校を卒業)に伝え、悦ちゃんは、同じく、同期卒の、ひろしちゃんに伝え、ひろしちゃんは、母の沢野夫人(90歳を超えているが、かくしゃくとして元気です)に伝え、・・・・・なお、沢野家は、塩野義製薬勤務一家です。それで、私にこういうことをかかせないために、ぞふるーざ問題が、大騒ぎになりました。その沢野家の、後ろが寺沢家で、そちらのお嬢様二人がカリタスに通学しているので、カリタス小通学バス襲撃事件が起こされたのです。加害者は、自殺したこととなっていますが、彼もまた、だまされ、利用された被害者で、自殺ではなくて、当日、どさくさに紛れて、殺されたのだと、推察しています。・・・・・・

 沢野夫人は、小田歯科医院の、みのり夫人に伝え、みのり夫人は、ご主人の歯科医に伝え、

10年ぐらい前から、微妙におかしかった、その医院での処遇が、拍車がかかって、いじめ方向へ走ってきたのでした。治療中に、話し合います。その時に、弟が、相続した実家について、「あの家は、いま、どうなっているのですか?」と、言う質問はまだしも、数年にわたって、お孫さんの中学受験の成功の話が出てくるのです。

 これが、ものすごいいじめなのです。どういう理由でそういうかを、1978年にさかのぼって、説明をいたします。

 益山重夫という人物が、1978年10月11日に、北久里浜の丘の上で、急死しています。当時、私は、その近辺に住んでいて、道路が100%益山氏の私道だったので、地境地主でした。その日の午後四時ごろ、私は、益山智恵子さんに、車で、轢き殺されそうになって、それを弁護士さんに、(盗聴をされていることを知っていて】電話で報告をしています。

 どうして、ひき殺されそうになったかというと、私が益山夫妻の悪辣なたくらみのすべてを、知ってしまったからです。もし、それを、週刊誌などに、売り込まれて、週刊誌が、公開したら、自分たちの生きる場所がないと、思ったから、私を殺そうとしたのでした。

益山智恵子さんは、50m向こうで待機していました。当時、すでに私は尾行をされていて、「今だ」という風に智恵子さんにお知らせが行ったのか? ともかく、智恵子さんは車を急発進をさせて、弾き殺そうとしたのですが、120度で、角度をつけて曲がっている道路の、くぼみの方に飛び込んで、私は助かりました。智恵子さんは、そのまま、車で、二時間ぐらいかけて、鎌倉か、元街へ、食料品を買いに行ったのでしょう。

 彼女の夫は、元海軍参謀という横須賀ではエリートだし、この水道山をただで、自分のものにしようとする悪だくみの最中でしたから、ご近所に、自分の姿をさらすのは避けていて、元街ユニオンか、紀ノ国屋まで(鎌倉のケース)買い物に来ていたのです。その二時間ぐらいの間に夫の命が果てていたのです。自殺か、脳溢血かは知りません。しかし、それ以降、激しいいじめを、私が、受けているところを見ると、自殺だったのではないでしょうか? その後、1984年に、鎌倉に、引っ越したのですが、ご近所人間にいじめられるのも、伊藤玄二郎が先導する事案でしょうが伊藤玄二郎は、CIAエージェントとして、リクルートをされている人物ですし。

 智恵子夫人は、夫亡き後で、夫の親友だったと、言う元陸軍参謀にして、伊藤忠のトップである、瀬島隆三に、援助を求めたのです。益山重夫と、瀬島隆三は、陸軍中野学校時代の、友人同士でしょう。しかし、私は、益山市の旧士を、だれから、しらされることもないのに、知っていたのですよ。外を、夜11時ごろ、二、三人の人間が、割と、大きな声で、話しながら通るのを聞いて、その姿を、目で見ていないのに、葬儀屋だと、直感をしたのです。すごい勘です。が、その上、私にひどいことをした人は、その分量に応じて、自分が被害を被るのですよ。益山重夫が、その一番最初の例でしたが、私に対して、ひどいことをした人間は、たいてい先に死んでくれています。で、私は天のご加護というのを信じる様になりました。

 1978年に北久里浜の水道山を、地籍変更届の仕組みを利用して、無償で、私物化する、実質的な、大詐欺事件が起きます。しかし、書類上は、整っているので、それを訴訟とか、言う形に持ち込むことはできません。週刊誌も、これほどに、大きな事案(裏に瀬島隆三が控えている)は、取り上げないでしょう。

 今、現在そこには、上の様な、美しいマンションが建っています。京急北久里浜駅そばに、五階分を一気に上がる、地中エレベーターがあり、このマンションは、360度の眺望を誇っています。富士山も見えるし、千葉県も見えるはずです。横須賀市は、人気がないとはいえ、優良物件中の優良物件です。そして、この外観が、傾きマンションとして、有名になった【らら横浜】とそっくりですね。さて、この外見が同じ物件ですが、両方とも西隣の白井達雄さんが、重役をしている、松田・平田設計事務所が、引き受けた物件だと、見ています。

 それを、北久里浜の方だけを、「そうでしょう?」とぶつけてみたのですが、否定をされています。しかし、この山では、白井さんの奥さま=夫婦別姓の、小野寺夫人に、「あなたは、東大卒なのに」と言ったら、「違います」と言われたし、石井梓さんに、「SFC(慶応湘南キャンパス)でしょう?」と言ったら、「違います」と言われたし、関本夫人に、「三井物産勤務でしょう」と言ったら、「違います」と、言われていて、私に対しては、どんなことでもうそを言ってもいいらしいのです。あ、は、歯。ああ、笑っている場合ではないです。ね。

 ところで、北久里浜における実質的な大詐欺事件ですが、私は、その事実と、自分がまきこまれていて、自宅内に、突然に青地などというものが設定をされたので、

……ここですが、これが、赤木俊夫の自殺事件と、雅子夫人が、週刊文春を舞台にして、あれこれ、嘆きの記者会見をすると、言うウソへつながっていきます。青地というのは財務局が管轄する事案ですから、それをかかせない様にするために、赤木俊夫の自殺というウソが編み出されました。・・・・・

 1978年、8月から、10月にかけて、横須賀法務局で、お金を払って、大量のデータを手に入れました。登記簿謄本の類とか、公図の写しなどです。それが、段ボール箱いっぱいあったのに盗まれています。ご近所人間、二つの家が合いかぎを持っていて、自由に侵入をして嫌がらせや、泥棒をしています。だけど、あの段ボール箱の中身の意味が、彼ら、とか、彼女ら、一般人に、分かるはずがないので、警察が、侵入して盗んだと考えています。

 日経新聞に警察の探訪が連載をされていた時期(2007年ごろだった。今から、14年は前だ)、があって、そのある回に、下っ端の警官が、「ある家に入ったら、パソコンが何台も置いてあるので、びっくりした」と語っています。すると上司が、「電源アダプターを調べないとだめだ。その数だけ、パソコンを持っているはずだから」と言いました。それは、きっと我が家の事です。それ以降電源アダプターは盗まれるし、・・・・・それ以前には、秋葉原の電気街の路上に、一個千円で売っていたものが、急になくなって、・・・・・正規品(一万円以上、一万五千円ぐらいする)を買わないといけなくなったのでした。

 ひどいです。ただ、こういうものはお金を出せば買えますが、父や母の写真とか、父が絵が上手で、新聞種になった記事の切り抜きなどが、盗まれているのは再現不可能なので、つらいですね。ただ、新聞記事は、国立国会図書館に行けばあると思ったのに、満州で発行された新聞は、

 マイクロフィルム化されているということで、それを見ると、文化面だけ、オミットされて、マイクロフィルム化されているのでした。で、「新聞とは、紙を折って、作るものだから、奇数頁で終わっているのはおかしい」と書いたら、マイクロフィルムが劣化したことになって、マイクロフィルムも見られないことになりました。その上、爆笑問題に、国立国会図書館を訪問をさせて、荒俣宏さんと、サヘルローズが加わって、奥の奥まで、その四人に見せて、それをNHKは、お正月の特番としていました。えぐりにえぐってきます。

 誰が発案をしているのでしょうか? 井上ひさしでしょうか?

 ここで、日吉の、小田歯科医院に戻ります。小田歯科医院には40年以上信頼して通っています。しかし、沢野夫人から、あれこれ、私の悪口を、聞かされると小田夫妻は、沢野夫人には逆らえないのでしょうね。特に私のブログから、部分的な抜き取りを作られて、それを見せられると、誤解をしますね。

 それにね、母が「沢野さんは、食えない人だわ」と言って居ました。つまり、意地悪をする人で、しかも、頭がよくて怖いと、言うケースです。中学校で、いじめが起きると、その首謀者になる様なボス的タイプです。

  沢野家の、ひろしちゃんが、路傍で、ご近所の小さなお子さんを遊んであげていたので、通りがかった私が「ひろしちゃんとこのお孫さんも、こういう感じなの(年齢の事です)?」と、質問をすると、「僕、子供いないのです」とひろしちゃんが答えて、『あれ、まずいことになっちゃった。だけど、納得、納得』と感じました。沢野夫人の長男のお嫁さんになり、広い敷地(150坪程度)の中の、二戸の分離した家に住むといっても、相当に、ストレスの強い生活だと、思われます。お嫁さんは、委縮しているうちに懐妊ができる年齢を超えてしまったのでしょう。

 こちら、雪の下でいえば、安野智紗夫人が、そういうタイプにあたります。怖いのです。逆らうと何をされるかわからないというタイプです。

 私は文章は書きます。しかし、攻撃をされたことを書くだけで、攻撃をしてこなければ、別に言上げをしません。ただ、本日の石井秀樹さんみたいに、一見すると、攻撃ではないみたいに見える攻撃でも私には、ちゃんとわかりますので、自分の脳内に、カウントをしておきます。

 さて、上に書いた様に、益山重夫が自殺(?)したので、復讐をし始めた、瀬島隆三は、その四年後の、私の長男の中学受験に、裏から手をまわして、不合格としたのでした。あの時、どうして、入試問題を手に入れて、答え合わせをしてやらなかったのだろうと、不憫でなりません。その後、終活の際にも、激しい攻撃や、いじめを息子に対して行っています。西原理恵子と、大前研一氏を利用して、三国屋善五郎の社長が、罠にかけてきた話は、書いていますね。

 社長は、上村卓美と、言う名前だったはずですが、辰美と変えています。 そして、神奈川県南部の三支店を閉鎖しています。

 ここで1982年に戻ります。六年の時の担任の先生は、卒業文集を早めに作る方針でした。それが手元に届いたのが、一月でした。その中で、息子は「僕は東大に行く」と書いていました。私は縮み上がって、「こういうことを書いたらダメなのよ」と言いました。息子はきょとんとしていました。まだ、12歳だったから無理もないのですが・・・・・

 しかし、二月に入って、当時は、二流だった(現在では、私立の株が上がっているので、一流に近くなっていますが)、二校を受験して、不合格だった時には、息子は、初めて母の言った意味が分かり、やるせない、そして、どうしようもないほどの、つらい思いをしたと思います。そして、その時点で、母親を嫌いになってしまったのです。ある部分でですが、で、英語を教えようとしても、聞く耳を持たない様になりました。

 そうですね。「僕は東大へ行く」と卒業文集に書いたことを、とがめないでいたら、母親を嫌いにはならなかったと思います。もしですが、私が、「うわ、前向きね。すごいなあ」とでも言って居たら、息子はあれほど、荒れなかったと思います。

 ただね。友達関係では、無事に鎌倉に溶け込みました。引っ越してきたとたんの、九月初めに、富沢君と安野君ともう一人の男の子に、暴力的、リンチを受けたそうです。例の高枝切りで、尾上共同事業体が、11本の木を切った場所です。それで、一たい三で、勝って帰ってきたそうです。それで、すっかり自信が付いたそうです。これも息子はしゃべっていません。娘が明日結婚披露宴という前の日に、この家で、経験したあれこれを語っている際に、困ったことの筆頭として、これを語ったのでした。当時、主人は松坂のセントラル硝子に単身赴任中でした。(これも瀬島隆三のいじめだったと思います)そして、私は外へ英語塾の講師として出ていました。「あのね、お母さん、あの子たちって本当にずるいのよ。制服で隠れている処だけを狙っているの。半そでの開襟シャツとおズボンに隠れているところだけを狙って、傷をつけているの。本当にひどい」と言いました。

 親って、本当に大変です。ただね、ひたすら、耐えて待ったのです。ただ、ただ傍にいててつくりのおやつを提供し、夕食の時にみんなで、会話をするというだけの生活ですが、それが、大変なエネルギーを消耗するのです。

 その後のありとあらゆる現象を考えると、瀬島隆三は、既に、1982年に子供への攻撃という形と1986年の、アジサイ畑欺罔事件という土地が盗まれ、山が勝手に、崩されると、言う二つの大きな攻撃をしてきたのでした。私の人生って、本当、小説にしてみたいぐらいの激しくもつらい人生です。

 でもね、神様がいてくださるというのを、すでに、気が付いています。神様はありとあらゆるところで、結果として穏当な配慮をなさっておられるのです。

 さて、小田歯科医院に戻ります。先生の診療室、特に待合室にあるトイレは、長らく和式でした。したがって、ウォッシュレットを入れることができないので、コンセントは無駄な配置でした。

 ところが東京都の、区立図書館でコンセントにガムテープが張られ始めたころ(石原都知事・猪瀬副知事の時代でしたが)小田歯科医院でも、トイレのコンセントに、ガムテープが貼られました。

  それは、2007年ごろの話で、私は自宅では、システムは絵画、多発するので、仕事ができず、東京中の図書館、カフェ、レストラン、バイキングビュッフェなどをさまよっていた時期です。まだ、リチウム電池が、普及しておらず、特に中古のパソコンを使うときは、電源アダプターが必須だったのですが、小田歯科医院のトイレのドアを開けっぱなしにして、電源アダプターを差し込んで、パソコンの仕事をしますか? それはあり得ない動作なのに、ガムテープが張られていることを発見したときの切なさ・・・・・

 そのうち、小田先生が、心理的にいじめてくる様になりました。その方法は、いろいろあったのですが、一番つらかったのは、我が子が、中学受験で、不合格だったのをえぐってくるものでした。それも一回で、三校全部の名前をおっしゃって、「結局は慶応普通部に行きました」と、言う形ではなくて、数年にわたって、繰り返されたのでした。「野球が好きでね」という枕詞が付くので、さりげない普通の会話でした。しかし、私は先生の治療がぞんざいなものになった時、とうとう、こういいました。

 「先生、それって、いつのお話でしょうか?」と。すると先生は慌てて、「いや、ずっと前の話です。孫はすでに社会人です」とおっしゃいました。これが決壊点でした。大きな堤防も崩れるという決壊点でした。

 これが、カリタス小、襲撃事件が計画された最も大きなポイントです。小田先生の背後関係、及び、水沢勉先生の背後関係を書かせないがために、‥‥・私を脅かすための、策として、それが、計画をされ、実行をされたのでした。

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