夜の9時半に新たなお断わりを冒頭に入れます。
この一文は、眞子様の結婚が内包する困った問題(まだ、日本人が知らない部分の事)で始まり、その問題点に対する、詳しい解説文を書いて、終わる、そういう構造を頭の中に浮かべながら、書き始めました。
しかし、その中間部分が、非常に長くなりました。中間部分とは、何を指すかというと、
・・・・・眞子様の結婚は、110%政治的謀略であり、CIAエージェントたちが企画したものだが、目的は、皇室を弱体化するところにある。ところで、なぜ、CIAエージェントたちは、皇室を弱体化する必要があるのだろうか。それを説明したい。・・・・・という私の希望に応じた、説明の部分を指します。
そして、再び眞子様の結婚問題に帰ってきて、『私=雨宮舜(本名 川崎千恵子)は、ひじょうにどぎつい文章を書いていると、誤解をなさる方があるやもしれませんが、すべて、真実なのですよと、言う結論に達して、終わるはずでした。
しかし、その中間部分で、シーシェパード問題が出てきてしまいました。この裏側の真実を書いたからこそ、シーシェパード騒ぎは、やっと終わりました。
私は、最近12年間は、どの章を書くにしろ、苦しい苦しい思いをしながら書いているのですが、このシーシェパード問題について書くのは、最も苦しいものなのです。その苦しさとは、たとえてみれば、*1)、アイスピックで、立って居る自分の肉体のどこか、動脈の通っていそうなところに穴をあけて、大量に噴出する鮮血を眺めながら、『ああ、自分は失血死するのかしら。まだ、死にたくないのに』と、思う気持ちとか、*2)、椅子に座っている、自分の左太ももを右手に握って、鋭利な裁ちばさみで、グサッとあけた穴から、ぐるっと、360度、大腿骨の周りの肉を、切り裂いていきながら、『これは、死因は、失血死となるのでしょうが、あと、何時間死ぬまでに、かかるのでしょうか。この痛みに耐えられず、大声をあげてしまいそう…‥と、想像するときと、似ています。
しかし、そんなに毎日苦しいのに、ごく平気そうな顔をして、自分でできる範囲のおしゃれをして、時には歌舞伎座に出かける。そういう気力とエネルギーは、どこから出ているかというと、イエスキリストの事蹟を思い浮かべるからです。イエスが、太い釘で、十字架に手足を、打ち付けられ、その十字架が立てかけられると、今度は、槍で腹のあたりを突き刺されます。でも、死ななかったのでしょう。だから、十字架の下に火をつけられます。イエスは覚悟ができている人でした。でもね、十字架がたてられた時に、『ああ、あと何時間、自分は、この痛みに耐えられるのだろうか? 耐えられなくて、叫び出す様な、みっともないことをするのではないか?』 と、自分自身の、絶命までの、数時間、おびえた事でしょう。
しかし、イエスが、もっとも、悲哀を感じたであろう時間は、その火をつけられる数時間前、重い十字架を抱えて、ゴルゴだの丘を登っている最中でしょう。最後の晩餐の時は、自分を信頼してくれていた、最も大切な弟子が、顔を背けて、知らない人であるかのごとくふるまった時だと、思います。聖書の中には、イエスは、それを予告していたと書いてあります。しかし、新約聖書の文章は、弟子が後日書いたものです。処刑当日のイエスは、絶対に、悲哀、痛み、恐怖などを感じていたはずなのです。
わたくしの場合は、攻撃が、1965年に始まり、それ以降、長期間にわたって続いていて、イエスキリストの、様に一日間に集中していたわけではありません。でも、肉体に対する攻撃は、物理的に殺そうとする攻撃は、1965年に後ろから、首を絞められたことを筆頭に、9~10件、続いているのですが、全部助かっています。
心理的苦しみは、信じていた知人や、友人が裏切ってくるという形であり、その量と、回数の膨大さって、言ったら、この世に、私ほどの、苦しみを味わっている人間は、ほかにないでしょうと、言うほどです。また、弁護士、医者、お坊さんなど、絶対に中立的立場をとらないといけない人も裏切ってきます
特に苦しいのは、1982年に、長男が、私立中学のお受験に、不合格だったという形で、子供、や、孫へも攻撃が及んでいることです。そして、普通なら、だれから、讒言を聞かされ、彼らに、味方する様頼まれても、中立的な立場をとらないといけない、弁護士
あなたが、文章を書くからいけないのよ。もうやめなさいということを、メンターとして時枝裕子さん(*1)から、または、攻撃的に桜井万里子さん(*2)から、または、優雅に婉曲的にごくごく、下手に出ながら、笠松敦子さん(*3)から、言われています。
*1)、は、物理専攻の理系女子ながら、カソリック信者でもあり、歌人でもあります。職業は、通産省、特に特許庁、最上級技官、3.11が起きたときに何度も、記者会見をした、原子力諮問委員会の、それが、起きる1期か、2期前のメンバー・・・・・東大大学院卒
*2)、東大名誉教授 ギリシャ史、特に古代ギリシャの、女性の経済活動研究、もしかしたら、東大大学院卒だが、私の知る限り、国際キリストきょう大学卒
*3)、元筑摩書房社員、国際基督教大学卒、退職後、独立編集者となる。プルーストやファーブルなどの、フランス語系の、豪華本の編集を担う。
でもね。こんな苦境にありながら、発見をしたのです。この世には、こういう組織的な悪人(CIAエージェントと私が呼ぶ、知識人たちと、その手足となって、殺人事件等を行う、警察庁、または、警視庁、または、神奈川県警所属の特殊部隊・・・・・に対峙して、
神様もいらっしゃるのです。
たとえば、今般のシェアハウス問題ですが、オーナーの達之君が、書いてきた資料から、カチドキという語彙を見つけ、彼は朝日新聞社勤務ではないかと言って居ます。しかし、大学新卒時、就職ではないだろうと、言っています。両親の、祝一氏、と、清子さんが、私を苛め抜くから、そのご褒美として、30過ぎにコネ採用されたのだろうと、言っています。
どうしてそういうことがわかるかというと、達之君は学生結婚で、‥‥緩い、快楽追及の姿勢を示していたので、競争が激しくて、緊張感が必要な朝日新聞社の採用試験を受けるはずがないと、言っています。日大農獣医学部卒業なので、そもそも、ジャーナリスト志望ではないだろうしとも言っています。
しかし、なぜ、学生結婚だとわかったのでしょう。それこそ、祖母の清子さんのおかげです。変な言い方ですが、彼女が教えてくれたのです。意図せざる形で教えてくれたのでした。
祖母の清子さんは、この3人の孫(まだ、小学校にも挙がっていない段階と見える幼児)を道具として、使って、私を攻撃し、いじめてきたからです。それも、一度や二度ではないです。
仏の顔も三度ということわざがありますね。私は三度目には、本当に怒って、玄関のドアを開けて外へ出てみたのです。前田夫人の声って、・・・・・実家が魚屋でもしていたのかしら? で、ご両親が、毎日どうろで「今日は、アジ、安いよ。寄っていきなあー」という呼び込みでも毎日していたのかしら? それが、自然な教えになって、こんな大声になっていますか?・・・・と、思うほど大きいのです。で、自宅で、静かにしていると、ビンビンと全部内容がわかります。背後に二重の壁があってもです。
で、彼女がお孫さんを使って、我が家の敷地内で、家族写真を撮っているのを見つけました。それが、前田清子さんと、安野智紗夫人のせいで、盗まれた(コンクリート打ちをされてしまった)当該の、被害の場所なのです。
そこで、自分たち家族の写真を撮るということは、自分は悪くないのだ。と、言いたいからでした。ところが、どうして、そういう我が家だけ、花畑がないのかというと、前田清子さんが、藤本禎子夫人という、当時、我が家の北側に住んでいた、女性を苛め抜いたからです。前田清子さんて、都立大学の大学院を出ていて、当時、國學院大學の講師だったらしいのですが、どうしてこんなに幼稚なの?って、毎日驚かされるほど、幼稚で、まるで、中学生のいじめ社会風な現象が、この山で、起きているのでした。彼女は、1980年代は、主に藤本禎子夫人をターゲットにしていじめていたのです。で、藤本夫人は、私によく、前田さんが目を吊り上げてにらんでくるのよと、言っていました。
ところで、この家族写真を孫と一緒に撮っていたのが、1997年か、1998年のはずです。
こういうことがどうして起きるかというと、心理学的に言う投影現象です。自分の方が悪いということを知っているのです。が、それが、不安を生むのです。自分は、いい人間だと思い込みたいわけですね。だけど、実際には、自分の至らない行動で、大迷惑行為を私に与えてしまったので、それが、潜在意識の中で、重い位置を占めているわけで、早く、それを振り払いたいわけです。でもね、どうして、心理学の基本中の基本であるこういうことを、知らないのだろうと、不思議です。彼女は学部としては、静岡大学の法学部を出ています。
::::::::ここで、挿入に入りますが、妹は千葉大薬学部卒です。卒業するときに、「あなた方は、国民の税金を使って、知識を学びました。だから、簡単に辞めてはいけませんよ」という言葉をはなむけとして、教授からもらったそうです。それで、一生、医家向け新薬のパンフレットづくりをして、学会に参加しては、説明と宣伝をしていた模様です。税金を使った分だけ、きちんと世の中へお返しをしました。それに比較をすると前田清子さんって、学部時代の、税金をどぶへ捨てた人ですね。だって、都立大学の大学院って、法学部ではないのですから。フランス語科か、フランス文学専攻のはずです。:::::::挿入から元へ戻ります。
そこへもってきてCIAが、彼女の方へ、見方をするものですから、全く反省をせず、長嶋さんという早稲田大卒の男性に、「前田さんの声は、地声だから、直しようがないんだよ」と、言わせています。ここで、例のいわくつきの地図をもう一回出します。長嶋さんは、前田さんの東に住んでいます。いわくつきとは、この地図には、嘘が含まれているからです。しかも、鎌倉市は、2021年4月8日まで、これを全市民が閲覧可能という形で、市役所に置いていたからです。
嘘とは、特に我が家に被害を与えるものだから、私はこれを使います。
ところで、私は、このいじめ兼嫌がらせ行為を、ブログに書いていません。とても複雑で、アジサイ畑欺罔事件を全部復習しないと書けないからです。
で、そういう姿を見ていて、なんと、18年後に同じことを今度は、夫の祝一氏が、行ってきました。それが、以下に置いた写真で、清子さんが、孫と写真を撮った場所から、東へ、10mぐらい下った場所で撮影をしています。清子さんと、同じ趣旨で、行っています。
当該のアジサイ畑欺罔事件が起きたのは、前田清子さんと、藤本禎子さんの争いであって、その藤本禎子夫人は、駅の近所で、小児科医院を開いていた関さんのお嬢さんなので、駅のすぐ近くに300坪ぐらいの敷地を保有しています。2021年現在、そのうちの200坪を駐車場にしています。その駐車場は、私が鎌倉に引っ越してきたころから、既にありましたので、40年間の駐車料金を全部三菱に預けていたら、資産40億円という大金持ちです。三菱銀行・鎌倉支店は、神社仏閣がお金を預けているので三菱内部、または、ほかの銀行を合わせても、日本一、預金残高の合計が、大きい支店だそうです。が、その中で、一般人、特に個人としては、藤本禎子さんは断トツの、大金持ちなのです。でね、たった一千万円で、次の所有者、石井秀樹・あずさ夫妻に売りました。
もしそれが、不動産会社が、外へ、広告宣伝をしたものだったら、ありのごとく、買いたい人が現れたでしょう。我が家だって、欲しかったねと、言ったぐらいですから。
しかし、この売買契約は、アジサイ畑欺罔事件の証拠を大きく減らすものですから、政治的な意味を持つ売買契約なので、外へは、伏せて行われたのです。
計画は伊藤玄二郎、石塚雅彦さん(元、日経新聞論説委員、ICUの同窓会長にして、私にとっては、同窓会展とか小学校の同窓生として、親しいつもりだったが、私が文章を書き始めると、同時に、敵方が、敵の先峰として、使い始めた人物。ICU第一男子寮で、ロックフェラー四世とかベイカーさんと親しい間柄となったとも推察されるし、二年下の、古村浩三君とも親しくなったと、考えられる人物。1966年のニューヨークでは、お杏さん<おきょうさんと読む>という私と親しかった女性を、自分の家庭に、一時期宿泊させた。お杏さんは、私と親しかったからこそ、大出世をしていく。公使で、夫は引退したが、公使時代、建物は平屋で、60坪あったそうだ。それは、同期卒のグループの中で、私だけを取り残し、ほかの人物を出世させ、私にさらに、強い、悲哀を味わわせるための典型的事例だった。それでも、お杏さんと、私はすれすれのお付き合いをし続けて、よく電話で、話し合った。その中で、グループ10人ぐらいの中で、もっとも性格の良いのは、中山詔子さんよねと、同意しあう会話があった。するとさっそくその電話が盗聴をされて、中山詔子さんが。とてもえげつない方法で、裏切ってきた。これは、相当に嫌な話だったが、ごこく、有名人、さくらいよしこさんが、全く同じことをやってきたので、いつか、二人をまとめて、書くこととなるだろう。
上の二人に、加えて、白石隼男君が加わった。この人は温厚な紳士なのだ。そして、三菱銀行、または、銀行協会で、重役の地位に就いたのちに引退して・・・・・
すみません。午前五時になるので、主人が起きる前に寝ます。怒られちゃうから。
ただ、この前置きの、結論は、書いておかないといけません。
この後、お嫁さんがすっぴんだったことと、お孫さんの年齢から、お嫁さんと達之君が学生結婚をしたと、言うことがわかってきます。お嫁さんは、猫とか犬が好きなので、獣医になろうとしていた優しい女性の模様です。眼鏡をかけていて、理系女子固有の、すっぴんの人でしたが(私も一応理系女子なので、常にすっぴんです)、…‥ともかく、お母さんよりは、ずっと性格がよさそうでした。
清子さんが、激しい攻撃をしようとして、その時に孫を道具として、使ってきて、しかも、それが、三度目だったので、外へ出て、事情を点検したからこそ、達之君とお嫁さんが学生結婚だと、わかったのです。
この様な形で、神様は、私を恵んでくださるのですよ。別に井戸端会議に、参加しなくても、状況を正しく判断するための材料は、十分にかつ、自然に手に入り、ます。
したがって、こういうにぎやかな家庭で、セックス大好きな青年が、新卒時に朝日新聞社の入社試験を受けるはずがないのです。彼が、厳しい競争に挑むはずはないので、新卒時に、朝日新聞に就職したのではない・・・・・最近、私を弾圧し続けた事へのご褒美だった。そういう転職だった・・・・・と、言うのもわかってきます。
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副題1,『沖縄の苦境の裏側にある真実』
日本とは、敗戦により、アメリカを宗主国とする、被・植民地国家になった。実際の戦場として米軍が、勝った方として、上陸までしてきた沖縄では、米軍が沖縄の人々を、人間扱いしていない…‥そういう事実も、その被・植民地国家であることの、典型的、現象である。
米軍兵士や、それに類する男(軍属と呼ばれている)たちが、少女を襲ったりするのもその一つだが、基地を移転させる問題もその一つなのだ。しかし、その屈辱的事実を薄めるために、
なんと、アメリカ政府ではなくて、日本政府・・さま・・が、多額のお金を、補助金として沖縄にそそいでいるらしい。アメリカ軍が傲慢であることに、沖縄県民の怒りが沸騰しない様に、するために、日本人一人一人があくせくして稼いだお金のうちの、大金が沖縄県にそそがれているらしい。
で、沖縄に行くと、景気が良くて、仕事があると言うわさがあるらしい。もと、引きこもりで、40を過ぎたまま、職歴もなく、学歴もない男性でも、職を見つけて生きていかれると知って、「うちの子は、沖縄に行ったのよ」と、ご長男が、長らく、引きこもっていた家のお母さんが、言っていた。
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副題2、『沖縄を、実質的に、大支配をしているのに、暴動が起きそうになると、お金で、沈黙をさせ慰労をする。しかし、米軍のために、支出される、そういうお金は、日本国政府が出しているのだった』
・・・・・これは、福島第一の大事故が起きた、原発所在地も同じ。最近、それが、ちゃんと公開されているサイトを見つけたのだけれど、莫大な、国家予算が、原発の地元をなす、地域社会にそそがれているのだった。原発とは、大都会から、遠く離れた田舎、特に海のそばに設置されている。そういう土地の住民は、首長と言えども、田舎の人だから、原発の、構造や、その発熱原理にに対する理論的知識などないし、もちろん、ウランや、プルトニウムの半減期の知識もない。またそれが、化石燃料とは違って、消火と、言う作業が効かない、構造であることも知らない。そして、大切な部分は、、日本のメディアが、CIAに操作されているという知識もな
だから、降りてきた大金を考えもなしに箱もの行政に、注いでしまった。今はだれも使うことがなく、廃墟として、崩れていく、音楽ホールなどに使ってしまった。そして、事故が起きたときに、住民たちへ、移転のための費用としてそれを渡すことができなかった。失礼ながら、圧倒的なおバカさんだと、言わざるを得ない。そういう人たちが、お金に目がくらんで、原発を誘致する。
そのお金とは、都会に住むサラリーマン、もしくは個人事業主があくせく労働をした結果、稼いだお金を税金として納めているものだ。それを政府は、ウランまたは、MOX燃料を買うと、言うお金になして、しまっている。原発地元民への、補助金にも使っている。最近美浜原発では、そのMOX原料をフランスから、輸入したそうである。MOX原料とは、ウランと、プルトニウム混合燃料で、それは、実態を言うと、発電後のごみなので、チェルノブイリ事故とは、それを使っている最中に起きたものだけれど、岸田総理大臣の、「休止中の、原発は、プルトニウムを蓄積していっているのですよと、言う発言を、詭弁だと、言って抗議をしている私を助けるためにわざわざ、フランスから運んできた。
このシステムが、第一番に、宗主国アメリカに、日本人のお金が吸い上げられて行っていると、言う現象の、例なのだ。ほかにも、一般人に、は、秘匿されている各種のシステムがあって、日本人は、そのお金をすいあげられて行っている国民なのです。
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副題2、『アメリカの中枢部が、今、現在、最も警戒している国家とは、日本です。中国でもロシアでも、北朝鮮でもないです。イランでも、イラクでも、シリアでもないです。北朝鮮のミサイルとは、あたかも、日本を攻撃しているがごとくに見えますが、違います。私が、この雪の下の、ご近所問題を書いたときに、生起します。アメリカのCIAnい命令されるとそれを発射します。
中国の艦船の、尖閣諸島周辺への出没も同じです。北朝鮮のミサイル迎撃システムを秋田県と萩市に設置すると、言うのも、わたくし狙いのいじめです。で、それを丁寧に、書くと迎撃システム関連ニュースは消えました。
シー・シェパードも、映画【コーブ】も、私をいじめるための、システムです。それも、丁寧に、裏側を書くと、消えました。今、化石燃料排除の大運動が起きています。グラスゴーで、COP26が、開かれました。そして、グレタ・トゥーンベリさんからのメールが、直接私のAOLのメールボックスに届いています。
しかしこれも、わたくし狙いのいじめかもしれません。というのは、父が、日本の石油エンジニアの草分けという存在だったからです。ある時、国際基督教大学の同窓会で、隣に座った、石油会社勤務だった男の子が、「え、礒部さんのお父さんって、秋田鉱専卒なの? 今、石油会社の重役って、ほとんど秋田鉱専卒ですよ」と、驚いてくれたのですが、父は、1928~1930年(昭和五年前後)に秋田鉱専の石油科を第一回生として卒業しています。
私が、このブログの世界で、よく書いている話の一つに、・・・・・わたくしのパソコンがよく壊れるのは、ICU同期卒の、古村浩三君が、やっている部分も多いだろうし、それを隠すために、片山祐輔君のなりすまし疑惑が起きた。片山祐輔君の父親は、日本IBM勤務だそうで、システムエンジニアとして、始祖みたいな、古村浩三君に、依頼をされて、了承し、ご長男を、犠牲の羊として、提供したのだろうと、言っています。古村浩三君は、それほど、IT世界では、えらいのだろうと、言っています。古村君は、1966年にICUを卒業し、すぐニューヨークに渡り、勉強を開始しました。
だから、ネット社会の大発展の基礎を築いた始祖みたいな存在なのです。
彼が、卒業した、1966年より、ほぼ、40年前の1928年ごろ、私の父は、その当時は輝ける技術だった、石油開発エンジニアとして、大学を卒業しました。そのさらに、20年後卒業した人物たちが、原発技術者というわけです。つまり、大きな階段をなして技術革新が、世界に、波及し、父も、その一端を担っていたのです。
父は最初、横浜にあった、早山石油(のちに丸善石油となった。その後、どこに吸収合併されたかは知らない)で、いわゆる精製プラントの立ち上げと、管理を担っていたのですが、わけがあって、満鉄へ移動しました。満鉄では、調査部、中央試験所というところ(撫順と大連に建物があったらしい)撫順(または、だいどう、または、雲崗・・・・・これは、例のごとく、私のブログに登場した地名が変更になるという例)で、石油を見つける仕事をしていました。
その当時、炭鉱の中から、少量らしいのですが、頁油岩(けつゆがん)というものがとれたらしいのです。これは、英語名オイルシェールと言って、私が、こういうブログを書いた後では、三井物産だったかな?が、アメリカに乗り込んで、オイルシェールの開発を行いました。だけど、大損をしたと思いますよ。
というのもアメリカでの生産の場合、地中深く、ふとい管を差し込んで、そこから、強烈な酸を、送り込むのです。頁油岩(イコール オイルシェール)というのは、本の頁の様に重なった石灰石の間に、石油がたまっているという資源で、その石灰岩を、酸で溶かして、石油だけを、浮き上がらせて、それを、別のパイプで、吸い上げようという仕組みです。ですから、一般の石油生産よりも、酸を使う費用が掛かります。しかも、今は、化石燃料を使わない様にしましょうというのですから、すでに撤退をしているでしょう。誰が、提案をしたのだろう。ともかく、私のブログから、生起し田事業でしょう。ところで、些末なことですが、この頁油岩=オイルシェールという単語は、翻訳語ではないのですよ。日本人は、その物質を、本の頁みたいだねと、観察し、漢字を当てはめたのです。一方でアメリカ人は、それを、牡蠣の貝殻みたいだと、考えて、そういう単語・貝殻=シェールを当てはめたのです。
ところで、無いだろうと思っていた、wikipedia が、二つ立って居ました。その中で、日本語としては、油頁岩と、なっていました。それは、私のブログに出てきたものは、消滅させるか、改名するの典型で、80年以上前に、撫順炭鉱で、実際にそれを研究していた父が、発音していた、頁油岩(けつゆがん)の方が、オリジナルだったと、思います。
ところで、wikipediaの中に、油田地帯よりも、炭鉱地帯で、よく発見をされるとありました。だから、撫順炭鉱(今は、大同炭鉱というらしい)、で、父たちが探していたのはあり得る発想です。
しかし、この資源は、中に、石油化する前の、古代のシダ類などの植物成分を含んでいるために、さらに、精製にお金がかかりそうで、しかも、精製後の油が、ガソリンとしては、使えず、軽油、もしくはジェット機燃料として、使えるだけらしいのです。ますます、採算性の悪い物質です、と、なるから、三井物産はアメリカでの、生産は、中止していると、推察していますが、どうでしょうか?
なお、こういう研究をしていた父の事績が、どうしてシーシェパード運動につながっていくか? というと、さらに、敗戦後の、日本社会の特殊事情が、かさなるのでした。日本は負けました。で、もともと、石油を生産していなかった国です。秋田県に、石油が出る一帯がありました。だから秋田鉱山専門学校(今でいう大学にあたる)が、設立されたのですが、それは、市場経済にかなう規模ではなかったと思います。父が新卒後、最初に勤務した早山石油だって、プラントは、停止状態だったと思います。
で、本当に困ったわけですが、ここに佐藤正典さんという、人事院総裁が登場します。
:::::::今、人事院についての、wikipediaを開くと、
国家公務員法の一次改正によって、1948年12月に臨時人事委員会の組織・権限を強化する形で発足した。GHQ民政局公務員課長のブレーン・フーバーの絶大な支援の下に、人事行政の一元化を目指して設置された。設立当初の人事院はGHQの後ろ盾もあり、強い権勢を誇っていた。例として旧内務省が入居していた内務省ビルは、人事院が奪い取るかたちで「人事院ビル」と改称している。ほか、各省庁の反発を押し切って○×式試験を強行したこともあった[4]。::::::
という風に書いてあります。想像通りです。その人事院が、1948年に発足する前の段階の、臨時人事委委員会は、旧満鉄・勤務者や、満州政府での、官吏や、満州に設立されていた、大企業の管理職などの再就職を世話するために満鉄の上司で、人情の厚い、佐藤正典さんが、設立したものだと、推察しています。
で、父も拾っていただいて、経済安定本部という、当時は、特権的エリート集団であった、霞が関の役所に勤めました。技術屋が、事務屋になったわけです。尚、経済安定本部は、のちに経済企画庁と、名前が変わり、組織が新たになっていって、大来多佐武郎父子などの、経済評論家を生み出すなどの、エリート集団となっていくのですが、私が何度も、経済安定本部とか、経済企画庁について、書くものですから、この組織も消されてしまいました。
まあ、そういうこともあって、自分がライターとして、どれほどに、大物かを、さらに、自覚させられていくのですが、話を1947年ごろに戻します。佐藤正典、
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