銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

京都大学等の、有名大学を出た人たちの、好みの就職先、の変遷について。

2024-02-10 20:08:59 | 政治

 前報(後註1)は、ニュージャージー州に存在するプリンストン大学について述べています。あれを書いた理由は、京都大学との、些少の類似性を感じたからです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題1、『一時期、京都大学出身の学者がノーベル賞を受賞する数が多く、東大を超えていることが話題となった。そして、その理由を書いた文章を、どこかで、私は読んだのだが、それを読んだとたんに、あのプリンストン大学での四人の若い学者の静謐なる会話を思い出したのだった』

 京都は盆地です。そして、東西南北を囲む山が結構険しい。したがって、京都大学の教授たちは、盆地の中に住んでいて、山を越えた場所には住んでいない。したがって、大学から、自宅までの距離が短い。で、徒歩圏内に、住んでいる教授もいるだろうし、交通機関(=地下鉄、バス等)を利用しても、大学から自宅まで、ほぼ、30分でたどり着く。

 一方、戦前、戦中までは、文京区在住の教授が多かったであろう東大教授たちも、東京は平野であり、東急とか、小田急とか、中央線が出来、その沿線に、住宅地が開発されると、田園調布とか、荻窪とか、成城とか、交通機関だけで、一時間近くかかるところに、良い環境を求めて、引っ越していく様になった。そうなると、5時か6時に大学を出て、どこかで、同僚とお茶のみをするとしても、それは、夜8時までが、限度となる。9時までおしゃべりをしていて、夜11時に帰宅するとなると、それは、毎日の事としては、無理になる。毎週一回でも、無理となるだろう。私が東大に、勤務していた時も、先生方は、ほとんど、自宅へ直行と言う形で、帰宅していた。

 特に田園調布に住んでいる(例えば、水島三一郎博士、理系)教授が、荻窪だったと思うが、蝋山政道先生(政治学専門)と、銀座で、毎週一回は歓談をしていましたよ・・・・・と、想像することは難しい。銀座のホテルの一室を使ったとしても、異分野同士で学際的に、毎週一回、3時間歓談をしている・・・・という図は、想像をしにくい。

 ところが、京都大学では、教授たちは、お育ちが良くて、親代々の家を持って居る可能性が強いと、考えると、大学に非常に近いところに住んでいる可能性がある。徒歩、15分から、20分だったら、歩いてかえったりする可能性はある。そうすると、バスの時間も、地下鉄の、時刻表も気にしなくていい。また、マスコミに名前が載っている教授などになると、収入が高いので、タクシーで、帰る事も1000円前後の筈で、忌避しないであろう。

 このお互いに、交流ができる。特に学際的に異分野の教授と話をする。無駄話風のおしゃべりでも、それが、意外と、教授たちに活性化要素を与えるそうである。で、京都大学の教授たち、または、助教授たち、または、助手(今は、助教と言うのかな?)でも、それぞれの段階で、それぞれの、年齢同士で、学際的交流があり、それが、学者たちの頭脳や、発想に、良い刺激を与えている‥・・・と、そういう、論考だった。

 それを読んだとたんにあの、プリンストン大学の静謐な会話を思い出した。京都大学の先生方があれほど、静謐に、個室式居酒屋、もしくは、中華料理店の、個室コーナーなど、他のお客と、分離できる場所で、異分野同士で、学際的、無駄話をする際に、あのグループほど、静かな形で、会話をしているとは、思わない。

 あの時の若者たち四人はアメリカ人としては、あまりに硬かったので、たぶん数学の若い学者だったと思う。そして、異分野同士の学際的懇談ではなくて、同じ、数学者同士の話し合いだったと思う。時間でいえば、午後二時から三時の間だったので、所謂セミナーを食堂でやっていたと、考えてもいい。食堂は、東大や、芸大など(私の母校でも同じだが、デコラ張りの長テーブルではなくて、1.5mぐらいの正方形の木製で、麻か木綿の大きめの紅白の格子模様のテーブルクロスがかかっている。お客のいない時間帯だと、early american 調の、個人の家の応接間風だと言ってよい。

 ともかく、静かだか、にぎやかだかは別として、その会での話題が、上司の悪口等で、無いことは確かなのだ。添えは、プリンストンの場合も、京都大学の先生方の、会合でも同じだと、私はおもう。京都大学の方だが、自分の専門分野での、躓きを語るとしても、それが、異分野の人の助けとか、ヒントを与えることに役立つ可能性はあるのだ。

 上品である事を、私が日ごろ、強く求めているのは、そういう静謐な世界を知っている私が、1984年に引っ越してきてから、驚くべきレベルの低い内容の会話が、井戸端会議として、毎日行われていて、それが、10m以上離れている私の居間にまで、内容まで、くっきりと聞こえてくる、この雪の下二丁目の、谷戸(谷間の事、鎌倉では、特に、やと、と、発音する)で、1984年から接したご近所様(特に、威張っている主流派、マダム達)に、困惑させられ切って来たからだった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『ところで、私が急に京都大学について、触れ始めたのは、露木康浩、現・警察庁長官が、京都大学卒だと、知ったからだった。そして、実は、警察庁は、露木長官になってから、驚くほど、ひどいことを、私に対して、やり続けてきている。10月18日に、急に松竹定款なるものを完成させ、歌舞伎座へ入れないことに、したのをはじめとして、ひどいことをやり続けている。ご近所様の泥棒行為も、まだ、書いていないが、ひどい段階に入っている。写真も撮ってあるので、いつか暇なときに、書こう。

 だが、この章に限り、そういう事に、拘泥せず、日本現代社会の推移を、露木長官の、就活に限って述べていきたい』

 どうして、露木長官に、強い興味を抱いたかと言うと、露木氏の、警察庁・入庁の、30年前に、京都大学経済学部を卒業した従兄弟の、就活と、露木長官のそれが、どこか似ているところがあるからだった。

 うちの母は山口県の親戚たちに、自分の家に泊まってもらう事を絶対に嫌がらなかった。むしろとても喜んでいた。非常に働き者で、きれいな布団は、常に用意してあったし、お料理を、作る事にも張り切っていた。そして、それを可能にする経済的余裕もあった。山口県出身で、大卒の親戚連中はたいていは先生とか、公務員になっていた。それで、しょっちゅう東京への出張があるのだが、常にホテルとか旅館に泊まらせることをせず、日吉の家に泊まらせていたのだった。そして、父はお酒が飲めない方なので、夜遅くまで、談論風発、会話が、繰り返されていた。お客が来るたびに、政治の事、国家のことなど、大きなテーマで、大人同士が、語り合っていた。それを、私は小学校入学前から、聞き耳をかじっていたわけで、それで、小学校入学以来、成績優秀者として、突っ走る事が出来た模様だった。ともかく、一生、親から、勉強しなさいと、言われたことはない。だけど、常に成績は優秀だった。あれは、本当に大人たちの会話を、聞いていたことが大きい。他にも父がいろいろなところに連れて行ってくれたこともあるが、大人同士の真剣な会話を、聞いていたことも大きいと思う。

 この母のお客あしらいは、主に、四十歳とか、五十歳を超えるおじさん達に、適用されていたことだったが、19歳とか、22歳で、大学入学試験とか、就活の為に、上京する若い男の子たちも適用され、よく、お世話をしていた。その中に、私より、10歳ぐらい年上の従兄弟が居て、証券会社を目指していた。その就活の年は、1954年から、1957年ごろの事だっただろうと思っている。従兄弟の正確な年齢を知らないので、そういう風に大雑把にいうのだが、たぶん、10歳は上だから、そうなる。

 彼の望みは、証券会社だった。が、念のために、公務員試験上級を、受験し合格をしていた。

 ここで、従兄弟が証券会社を希望していたという件に関連敷いて、山一證券のwikipedia から、山一證券が、日本海罪に果たした、高調期の概要をコピペしたい。

;;;;;;;;;;;;;;;

山一證券株式会社(やまいちしょうけん、Yamaichi Securities Co., Ltd.)は、かつて存在した日本の大手証券会社

野村證券大和證券日興證券と、日本四大証券会社を担ったが、不正会計(損失隠し)が発覚。100周年の1997年平成9年)11月24日自主廃業を発表、2005年解散。と言う事は、1897年の操業だと言う形になる。

概要[編集]

法人関連業務に強く、「法人の山一」「人の山一」と言われ、日本の資本市場の発展と日本経済を支える多くの上場企業の成長を支えた大証券会社であった。現代経済を支える数多くの成長企業は、山一證券の指導を受け、株式を上場している。

日本の近代化、高度成長とともに圧倒的シェアの引受主幹事を持つ証券会社へと成長し、最も多くの企業を上場させた。主幹事会社数は、野村証券以上の数で、戦後の一時期まで値付けの多くを行う、日本最大の業績を持つ証券会社であり、その後もいわゆる「四大証券会社」の一翼を担い日本経済に貢献した。

自主廃業を宣言し、1997年(平成9年)11月に業務を停止。法人としての山一證券株式会社(旧社)は2005年(平成17年)に解散するまで、108年間存続した。 

;;;;;;;;;;;;;;;;

 従兄弟が目指したのは、山一證券ではなくて、野村證券だと、思う。ともかく、どういうわけか、不合格だったらしい。優秀な人物で、その後三菱系の証券会社に入り、五人ぐらいのメンバーで、横浜ランドマークタワーを建設している。ああいう大プロジェクトって、トップは大体五人程度で、決定をして進行させるみたいなのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題3、『山一証券の、破綻には、いろいろな要素が絡んでいて、非常に複雑だったことがNHKスペシャルなどで、私は、教えられた。だが、上の概要を見ても、わかる通り、日本の四大証券会社の一つで、株式上場を、引き受けた主幹会社は、野村證券より多かったと、書いてある。大大証券会社で、日本が、右肩上がりの経済成長を遂げている時代に、大きく、日本社会に貢献をしていたのだった。

 バブルがはじけたのは、1990年三月から、1993年十月と書いてあった。従兄弟が就活をしたのは、1954~57年の間だと仮定すると、ほぼ、四十年前だから、先駆的、感性を持って居て証券会社を目指したのだった。

 駄目だった原因は、東京に親が住んでいないと言う様なことだったと思う。だから、本人としては、全く納得ができない模様だった。しかし、ともかく、大卒で、新卒時に、どこかへ入らないと、社会人として、一つの瑕疵になるので公務員になった。

 経済学部出身だから、最初から、公務員を目指せば、大蔵省、通産省、経済企画庁の、三か所(今と、名前が違うが)には入れたと思うが、最初は、民間企業を目指していたので、時期的に、立ち遅れて、その三か所ではなくて、国税庁に入庁した。とても、地味な省庁で、大いに不満だったらしい。で、何年そこにいたのかわからないが、見事に三菱系の、証券会社に、転身をした。

 ただし、国税庁勤務が、あながち、悪かったとは言えないのだ。まず、奥様とそこで出会っている。職場結婚が多い時代だったが、国税庁勤務の中級公務員だった奥様は、美しくて優しくて、夫を大切にしてくれる人だ。もし、新卒時から、証券会社に入ったら、そこで出会った女性と結婚をすることとなる。証券会社の補助事務の女性は、まあ、高校卒かもしれないし、短大卒かもしれない。そういう時代だった。だが、社員としての同僚の男性が、大金を扱う職場だから、女性陣も当然、派手な生活を好む人である可能性がある。そうすると、現在の様な、しとやかで、控えめで、かつ賢い奥様と出会っていたかどうかは怪しい。あの結婚は、とても、成功した結婚の一つだと、思っている。良かった。それは、非常によかった。

 それと、ちょっと笑いながら教えてくれたのだけれど、「国税庁に勤務していた人間は、自動的に、公認会計士になれるのですよ。それで、僕も、知人の会社を、一つだけだけど、引き受けているんです」と。これは、彼が入庁した資格が、上級公務員(大卒・・・・特に京都大学卒なんて、国税庁でもぴか一の方だったと思うが)だから、もらえる資格なのか、中級公務員でも、63歳まで、勤務すると自動的にもらえる資格なのかを、私は、知らないが、従兄弟は、超・富裕層にあこがれる人でもないので、高額な年金+、一会社の税務管理での謝礼で、十分に満足して生きている模様だ。子供たちも全部、自分の家を持ち、自分は、大きな一戸建てを処分し(または、子供にあげて)マンションに引っ越している。貯蓄(資産合計)は、数億だろうし、老後破産など、全く心配のない生活だ。それは、安藤隆春元警察庁長官の、年収数千万円よりは、劣るが、

 証券会社でも、最終段階では、顧客(または、顧客としての企業)の、株を管理指導する立場ではなくて、ランドマークタワーを作るなどの、プロジェクトの、財務担当として、その場に出向をしていたらしいので、それは、前向きで、ストレスの少ない仕事であり、楽しかったと推察している。そこらあたり、やはり、京都大学卒と言う、ブランドが利いていると思う。

 ところで、この従兄弟の就活の顛末が、露木警察庁長官の新卒爾に似ているのだ。それで、私は、前報と、この章を書いているわけだった。これは、あまり政治には、関係がないので気楽な文章となっている。特にご近所様が、登場しないので、特に気楽な文章となっている。ところが、実際の生活は、相変わらず、気楽ではない。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題4、『ここで、警察庁長官として、は、その名前が、人口に膾炙した、もっとも、大きな存在としての、1937年生まれの国松警察庁長官も、現在も、安藤隆春氏ほどではないが、高い年収を誇っている人だと、言わないといけない。86歳でも、社外取り締まり役を頼まれておられるのだ』

 私は、高額な年収をもらっている人の事ばかり書いているが、自分とは無縁でも、決して嫉妬はしていないと申し上げておきたい。私は親から恵まれた過保護と言ってよいほど、いろいろ与えられた方なので、稼ぐ能力がないのだ。ただ、自分に力がないと、言うだけではないと、考えて居る。いろいろ、妨害を受けて来た。

 それでも他人を羨ましがっているわけではない。私は、一種の高等遊民で、お金には疎いのだった。そのまま、死を迎えたいと思っているので、他人を羨ましがっているわけではない。

 ただ、従兄弟が、民間企業(特に証券会社)を優先して、国家公務員になるのを、嫌っていたのは、一種の先駆的感性であり、1955年ごろまでは、霞が関の官僚になる方が、民間に就職するより上だと、言う判断があったと思う。その国家公務員の中でも、新卒者の、好みはあり、実は、警察庁は、あまり、好ましいとは思われていなかったのだった。それは、時代の、高況度、不況度が、関係して来る。

 パソコンがまったくおかしくなっていて、税務申告の最終段階が入力できなくなっている。しかし、自分自身の被害ではなくて他人の就活とか他人の人生とか、他人の、年収とかについて語るのは、非常に気楽な文章であり、らくちんらくちんである。楽しんで、書いている。

 ところで、これから先は露木長官へ入っていきたい。ただ、露木長官に入る前に、元警察庁長官とは退官後、高額な年収を得られる立場だと言う事を知った、私が居ると言わせていただきたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題5、『露木長官も民間志向だった。しかし、そちらに蹴られた。肺結核の既往症があるとのことで、民間企業が、忌避したのだった』

 今、google 検索をかけると、三日前には、見ることができた歴代警察庁長官と、露木康浩氏個人のwikipedia が見当たりません。でも、記憶をたどって語ると、露木長官は、民間企業に行きたかったのですが、結核の既往症があるとのことで、民間会社が、合格を拒否してきたそうです。

 非常にがっかりしたと思います。そこで、国家公務員、上級職を、受けていたかどうかは、書かれていなかったのです。ただ、剣道は、長くやっていて、その方面の先輩から、警察はどうだ?と、言われて、警察に入ったそうです。1986年入庁だから、バブルがはじける前で、露木長官も民間志向だったのです。

だから、最初は、第二志望というわけです。唯ね。現在の私は、松竹の定款問題を始め、すさまじい、攻撃を受けていて、しかも、今三日前には、見ることができた頁を、すでに、見ることができないとなって、ちょっと、怒り心頭です。

 日本の警察庁は、アメリカの直属の家来なのでこういう風になります。ともかく露木長官は、渋々と言う感じで、警察に入ったのです。が、退職後、多くの役職が待っていて、ほかの省庁より、社外取締役の依頼も多いのではないかなあ? それに半蔵門ホテルを始め、国家公務員って、福利厚生が、充実しているから、月給より、10万円は、豊かな生活が出来ますよね。すごい。しぶしぶ入ったのに、最初に入りたかった会社に入るよりも、総合資産は、上になったでしょうね。

 後註1,

フィールズ賞授賞式が行われるPrinceton大学の食堂では、静謐な雰囲気の会話を、ポスドクらしい人たちが四人で交わしていた

2024-02-07 21:37:09 | 政治

後註2,

安藤隆春・元警察庁・長官の現在の年収を、計算違いをしていた模様 + なぜUS steelを日本が買収するのですか?

2024-02-06 00:16:44 | 政治

この一連のシリーズの中では、以下が最も重要です。読んでいただきたいのは、是ですね。

後註3,

露木警察庁長官NHKに登場する。能登は大変です。but ザクロに関連して警察が私を追いかけ回すので、これも大切な問題です

2024-02-02 22:04:59 | 政治

下の二つは、もっとも大切な章を、導き出した、思いがけないアイテム、ザクロについて、書き始めた章です。それが、狙われるのですから、どれほどに、私の、被害が大きいか(精神的な意味でですよ)お察しいただきたいと存じます。後註5が発端です。

後註4

KINOKUNIYA鎌倉店が、私のblogを勘案した変化を見せて……ザクロの2  大下英治はなぜ今小沢一郎を書くのか?

2024-02-01 09:45:15 | 政治

後註5

 ざくろ・・・それ一つでも、政治が語れる。それは私にとって、プルーストのマドレーヌと同じ種類の物だった

2024-01-30 10:46:45 | 政治

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フィールズ賞授賞式が行われ... | トップ | ちょっと今書き始めましたが... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治」カテゴリの最新記事