銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

Hotel Chelseaは森ビルに買収されてしまった。NYの史的遺産だったのに。そしてプロ向け画材店も大衆向け画材店も閉鎖とは?

2022-05-01 03:07:22 | 政治

 すみません。いつもと離れますが、今朝見た夢を文章化させてくださいませ。それは、私の、1998年から始まる、24年間の、記憶を切り交ぜた夢だったので、語りたいのです。

副題1、『夢は、昔は、現実を再現した物であり、それを、一冊の書物【黄色いさくらんぼ】に表したら、アマゾンで、10年間ぐらい、10000円以上で流通をしていた。流通値段が、高額だった理由は、非常に数が少ないので、そうなっていたのだと思う。14年後の今は、999円だった』

 NYでの、思い出を、見返していく夢は、現実に一冊の書物に直しています。それは、22年以上前のgenjitsuのことで、その夢は、2008年出版の、【黄色いさくらんぼ】に結実しています。その内容は、主に、ニューヨークでの、2000年の秋、三か月にわたって、滞在型修業をした、版画工房での経験と、その前の年にすでに、出会っていた所長の、ブラックバーン氏と、2002年に再会した時、感じた、涙を内包したエピソードを付け加えたものでした。

そのころ(=2002年ごろのことで、20年以上前)は、一日を三分割して、3時間手書きで、文章を書き、二時間ほかの事をして、ばったんキューっと寝て、三時間で目が覚めて、また、三時間書くという生活をしていて、(逗子で一人暮らしをしていたので、それが可能だった)睡眠中の、最後の15分ぐらいには、次に書くことを夢に見るという形でした。

 リアルな経験を、また、夢に見るという形です。色付きな動画として、夢に見るという形です。たぶん、3分程度の長さで。それを、手書きで文章に直すと、三時間かかるという形です。

 この経験から感じていることは、引きこもっている人への忠告です。または、そういう子供を持っている親御さんへの警告です。親がそれを勧めてはダメなのですが、ご本人がこれをお読みになるのなら、「引きこもりは、自分を確立し、レベルアップをさせる得難い期間です。最高に上手に活用をしてください」と言いたいです。

 よく、幸田文の【闘】をおすすめしていますが、あれは、結核病棟の話です。結核とは、自分の意思に反して、しゃかいから引き離され、強制的に、引きこもり状態にさせられることです。トーマス・マンの【魔の山】も同じですが、ストレプトマイシンなどが、発見される前は、結核は外部から遮断される、長期入院を必要としていました。その中で、どう生きるべきかを描いたのが幸田文です。幸田文は、離婚したご主人とか、弟が、結核にかかっています。

 そのころ、療養のためにできた病院が、今は、アルコールなどの依存症治療の病院へと変化しています。久里浜など、その典型でしょう。または、バスなどの交通手段の発達により、総合病院へと変化したケースもあって、それは、横浜市日吉と、川崎市井田を、またぐ、丘の上に在る川崎市立・井田病院などです。昔は交通が不便な場所だったが、人里離れた、空気の良い場所として、選ばれて設立された結核専門病院でした。が、今では、何本ものバスが、川崎駅とか、武蔵小杉駅へ、通じているので、便利な、かつ人気の高い総合病院となりました。ただ、公立なので、最初期のコロナ患者引き受け病院の一つとなっています。

 その、引きこもりの最中に、ご近所様は、「川崎さんは、離婚をするよ」と軽蔑的に、噂しあったそうですが、(大原光孝さんというプロの画家から、リアルな発言として、それを聞いた)、それを聞いて、『人は誰でも、自分に都合の良いように解釈するのだなあ!』と、笑ってやり過ごしておきました。しかし、彼こそ、私より、ずっと、長期間にわたり恵美子夫人に家出をされていますよね。本当に笑止千万です。恵美子夫人の実名を挙げるのは、彼女は、酒井忠康氏の教唆命令で、動いているのが、わかっているからです。結構、政治的な存在なのです。

 どうして、こういう風に書くかというと、また、また、ご近所に嵐が巻き起こっているからです。石春産業に依頼した、75万円分の道路工事というのは、徹底的に、私を弾圧し、いじめるものです。ご近所が集団として、行ういじめの、何度目かとして、生起しています。近々、その詳細を、書きますが、それ以前に起きた【植木鉢の怪】などという謀略は、大原光孝さんが、主役として、行っているものでしょうし、それに、ご近所様が絡んだいじめなので、彼は、2001年ごろからは、弾圧者の筆頭格として機能をしています。そうだから、常に私の頭には、その名前は浮かんでいます。

 私にとって、逗子での三年間の24時間連続する一人暮らし(テレビもあるが見ないし、新聞は取っていないし、商業地にあるマンションなので、ご近所づきあいはしないし)とは、最高の修行ができた、期間でした。離婚をするよと嘲笑った人の弱点を書き表し、文章で、嘲笑することができる能力を養っていたのです。それを地位とも知らないで、あざ笑っていたのが、ご近所様たちです。

 そのころでも、週に一度銀座に絵を見に行ってはいましたよ。だが、社交的な付き合いは、銀座でも、しない私ですから、銀座に行っていても、引きこもり状態は、続いていたと、言いたいです。

 東大に、勤務していた時に、傍で、見ていた大学院の学生とか、その後の、ポスドク生活を送っている無給、または、少額の給料の研究者たちを見ていても、2000年当時の、私ほどに、恵まれた、創作活動を行っていた、または、修行生活を送っていた人間は、いないと思います。

 私は、弾圧により、お金には恵まれていません。特に自分で稼ぐお金という意味では恵まれていません。ただし、もっとも、好きなことである、考えることを、できる生活は、できています。それを、逗子の引きこもり的一人暮らしで、確立したのです。親からの遺産を使ってですがね。

 考えるということは、それを文章に落とさないと、常に同じことを考え続ける堂々巡りに入ってしまって、苦しいので、必然的に、文章修行をすることとなります。他人に見せるためとか、注文を受けてお金を稼ぐために書く文章ではなくて、自分自身が、楽に呼吸をするため、または、ごく、ごく、自然に生きていくために書く文章です。

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副題2,『【黄色いさくらんぼ】の、主役、ブラックバーン氏は、2004年に亡くなるのだった。が、たぶん、その前の、10年間は、パーキンソン氏病で、動けない生活となっており、したがって、他人に依存をしないと成らないので、性格(または、人格)として、聖人君子そのものだった。氏が、排尿を楽にするために穴の開いたパンツのまま、私の前に、椅子にすわって、2002年に現れたとき、傍に若い看護師(または、お手伝いさん)が、立って居るのに、それを隠してあげないことの悲しさに、私が打たれた事が、その【黄色いさくらんぼ】の一冊中の白眉のエピソードだと、思う。

 それは、2002年の8月11日の午前中のエピソードなのだが、夜11時ごろ再訪をすると、氏は、ホテルのスタッフの介添えで、午前中と同じく玄関ホール(と言っても、とても小さいスペースに)座って私を待っていたのだが、午前中は穴が丸見えだったパンツの上に、真っ白いバスタオルが置かれていて、午前中、私が、顔色を変えたのを、ブラックバーン氏は、はっきりと、わかっていたのだった。言葉には出さないけれど、私がどんなに悲しいと思ったかをわかっていたのだった。あの時傍に立って居た、にこにこしていた、女性が、もし、ボブの実の娘だったら、絶対にバスタオルを置いて、その穴を隠していたと思う。

 私たち二人は、版画の事しか話し合っていないのだけれど、微妙な感情を、言葉には出さずに、やり取りしていて、私が、感受性が高くて、何でも、わかっていることを、ブラックバーン氏は、読み取り、理解をしていていたのだった。

氏は、2004年に亡くなる直前に、ニューヨーク時間真夜中に、まず、日本人の誠実な、女性版画家Aさんを間に、介在させた、電話をくれた。この日本人女性版画家Aとは、後述する、【よよ】ではない。それは、日本の、昼間、10時ごろだった。ニューヨークに来てほしいという話だった。

 今、思い返すと、ニューヨーク一、古い版画工房を経営していたブラックバーン氏は、そのコレクションを、私に預けたいと、言う話だったと思う。いけないと言ったのは二人の両方にとって、とても悲しい事だった。が、逗子の一人暮らしをやめて鎌倉の家の主婦として、暮らしていた時期なので、もう、ニューヨークに行くことはできなかった。

 版画工房がつぶれたのは【よよ】という通称の、とても、悪賢い日本人女性が、版画工房を、使用料なしで、使う制度を編み出し、それに、12人の若手を組み込んだ、ために、ほかの人も使用料を支払わなくなったのだった。お金がある人も支払わなくなった。私だけは、月に6万円も支払っていたけれど。

 よよは、版画としては、一年間にたった一作品を作って、それを、酒井忠康氏が、審査員を務めている、神奈川県展に応募し、入選させる女性だった。一年にたった一作品しか作らない【よよ】は、版画家でもなんでもなくて、ただ、ニューヨークに滞在しているということを武器に、有名人に成り上りたいと、願っている、女性だった。第二の草間になろうとしていた女性だった。作品制作態度も、パリのクリニャンクール(骨董市)で、買ってきた、真鍮製の古い鍵をなぞるという、幼稚園並みの手法だった。見ていると、とても、恥ずかしい。

 ただ、日本では、出版社勤務で、雑誌の編集をしていたのではないかなあ? だから普通の人をなめている態度が、見え見えだった。今、現在の日本では、編集者というのは、特に企画を立てるという意味では、文化界の特権者だ。したがって、たいへん頭が高くて、周辺の一般人をなめているというか、下に見て、睥睨をしている。

 彼女は、色インクも、シャルボネ(パリが本店)製ではあるが、薄緑色という安い値段の版画インクを一缶だけ持っていて、それを数年間にわたって、使っている。ただ、ただある武器を持っていて、それを最大限に利用をする。

 白人と結婚をして、勝ったと思ったのに、思いがけず、お金を稼いでくれない旦那さんに、不満を持っていて、私には、常に、「こんちくしょう」という感じで、彼の、悪口を言っているが、その旦那が、金髪の白人で、クラシック音楽の作曲家であることを、最大限の武器として活用をする人間だった。

 しかし、これから先に、どうしてよよが、その白人の旦那さんをゲットできたかをここで語りたい。そこまでは【黄色いさくらんぼ】の中には、書いていないが、旦那さんは、155cm程度でアメリカに生まれた白人としては、異様に背が低い。そこを悪利用して、突っ込んで、【よよ】は、彼を支配して、グリーンカード(米国籍)の取得ほかに利用をするために、結婚をしたのだと、思われる。よよには、他人を思いやる気品というものは皆無だ。ニューヨークには、日本人女性版画家、および日本人アーチストはほかにもいて、会社・勤務を続けながら、版画を作っている女性などたくさんの色数の、版画インクを使って、版画を作っていた。彼女などは、本物のアーチストだと、考えられる。ただし、日本のコンクールなどは、狙っていない。自己宣伝色は、少なくて、ただ、ただ、創作を楽しんでいる。どんな世界にも、いろいろな種類の人がいる。

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副題3、『ブラックバーン氏と対照的に、露悪家そのものだったホアレスが、2001年の8月に、孤独死したと、2002年の八月にNY在住の外人アーチストから聞いた。ホアレスは、ペルー出身の褐色の肌をした版画家だったが、1940年代生まれというその年齢ゆえに、ブラックバーン氏とは、仲良し(または、お取り巻き)であり、版画工房を無償で、使っていて、誰か、ほかの作家の版画を代理で、摺ってあげる摺師として、些少の収入を得ている身だった。

 彼は、毎日、サツマイモ入りの蒸しパンをわら半紙(これは、版画の下作業に使うもので、長尺のロールで、買って、版画工房に、備え付けられているもの)に包んで、持ってくるのだった。

 私はそれを、おやつだと、理解をしていた。それで、露悪家の彼には、Nラインで、一緒になった(ソーホーの画廊の個展のオープニングの帰りの事、1999年の話)時に満員の電車内で、「一緒にベッドインをしない?」と誘われて、危うくかわしたのだったが、その時、折り畳み傘を車内に忘れたので、乗客数人から、ホームに降りたのに、注意を受けたのを覚えている。とても恥ずかしかったと、メルマガに書いた。私は、Nラインの終点で普段は降りる人なのだけれど、ホアレスの猛追を交わすために、数駅前の途中で、降りたのだった。次の電車に乗ればいいと考えた。ただ、車内中の人が、二人の会話を聞いていたと、感じて、その当時は、まだ、在NYの女性たち(日本人アーティスト、たち、よよも含む)と、喧嘩をして、勝ってはいない時期で、まだ、うぶだったので、とても恥ずかしい思いをした。

 私のニューヨーク修行の副産物としては、生涯で、初めて喧嘩をして、強豪を相手にしても、自分が勝てるという体験をしたことだった。2000年のよよも、その前年度に、ひどいことをやってきたやすこだって、楽々に勝てた。自分の口を使って、何かを説明するだけで、勝てた。やすこなんて、負けた悔しさを振り払うために、私が個人的に持っていた、塩化第二鉄・原液・二リットルという猛毒を床にぶちまけるというひどいことをやって、その結果、教授は、大学を辞めないといけなくなった。どうしてかというと、やすこが私をいじめたのは、四十代の白人女性教授が、私に対して、嫉妬していることを見抜いて、その代弁者としていじめてきているのを、だれもが知っていて、やすこのとんでもない乱暴狼藉が、大規模な、二棟の寮を通じて、全学に伝わり、

 次の学期のその教授の講座をとる学生が一人もいなくなったそうだった。それで、自然に辞めないといけなくなったそうだ。私立大学はその点は厳しい模様だ。日本の国立大学だと、学生の評判が悪かったとしても、そうは簡単に辞めなくていいだろう。尚、やすこは、1998年にその大学院に入学する前に学費を稼ぐために二年ぐらい日本で働いていたそうだ。その前には、京都の、美大SEIANで学んでいたそうなので、1997年までは、SEIANという美大は、確かにあったのだと、思うのだけれど、・・・・・今は無い・・・・・と思って、念のために、今、ググってみたら、京都ではなくて、滋賀県に在った。やすこは、気取って、京都と、言ったのか?それとも、学園が移転をしたのだろうか?

 このいじめの件については、丁寧に書いているが、今は、その原文のリンク先を、探している暇がない。ただ、これは、SEIANという美大名まで出したので、今、五月の1日の、夜の11時から、丁寧に、再び、詳細を書こう。版画と、化学のミックスした話となる。今、資料集めをしている処だ。塩化第二鉄の働きも硝酸銅の働きも、版画においては、本当のところはまだ解明をされていないそうだ。だが、高校生レベルの基本的なことは、私には説明ができるから。

 それにちょっと、色を付けた。安子は、仕事が行き詰まって、本当なら、私の持っている塩化第二鉄原液を使いたいのだが、それを、言い出せない。今までひどいことを私に対してしてきたのは、自覚をしている模様だった。それで、ひっかけてきた。化学的質問をして、自分が困っていることを暗喩的に知らせ、人の好い私が、彼女に自分の塩化第二鉄を貸してあげると言い出すのを待っていた。

 で、彼女は、まず、「ねえ、チエコ、どうして、銅板を、硝酸につけてはいけないの?」と質問をしてきた。硝酸とは、安い薬なので、お教室においてある。だから、学生だって、薄溶液を、つくる事ができる。しかし、塩化第二鉄は、お教室には予備のものが置いていなかった。日本の版画工房、例えば、町田などでは、毎日作り直すと思うが。

 その時の教授は引退した陰の学部長の愛人なので、教授にしてもらっているといううわさがある白人の美貌が女性だったが、無能で、宿題は出すが、それに必要な腐食液の新しいものを、用意していなかった。で、効果が無くなっているので、この大学の学部を卒業している内部卒業生は、そちらに行って、ちょっと、使わせてもらっていたと推察する。また、数人は、亜鉛版と硝酸の組み合わせで、金属板の上に、描画していた。私は深彫りという、全く違う仕事をしていた。もし、やすこが、「ちえこ、腐食液がだめになっている。あなたの原液を少し分けて、頂戴。今まで、失礼なことをしてごめんね」と言ったら、

「そうね、メスシリンダーとピペットを持ってきたら、5㏄ぐらいは、測ってあげる。だけど、私はそれを、すでに、二か月使っているから、原液としても、効果は、落ちているわよ。5㏄を、一リットルで、割ったら、200倍ではなくて、1000倍程度の薄溶液にはなると思うけれど、確かではないわ。銅板を二、三枚むだにする覚悟はある?」とこたえたとおもう。そしてさらに「ここは、正確を期すなら、教授にメールを打って、「宿題は、来週までは、できません。腐食液の能力が落ちています。早く作ってください。新しいのを」と、書くべきでしょうと答えると思う。実際にその通りだと思う。

 しかしやすこは、こういう風に言ったら、チエコは、彼女が自分用に持っている原液を使わせてくれると思ったらしい。それが、カモフラージュ的、ひっかけの言葉だった。「ねえ、チエコ、どうして、銅板を硝酸につけてはいけないの?」というもの。

 私は内心では、激怒している。その手のこざかしさとか小細工は大っ嫌いだったからだ。で、化学方程式を紙に書きながら、「硝酸銅が生成してしまい、それは、毒だから、銅板を硝酸につけてはいけないのよ。ただ、私は、東大に勤務していたから、今でも、これが書けるのよ。ところで、あなたには、これが、書ける?」と言ったのだった。もちろん、紫色のフォントのところは音声には出さなかった。だが、化学の知識は足りないやすこも、人間の感情の動きには敏感なので、私にからかわれていることはわかった。ので、激怒したのだった。

 でも、一種の殺人事件に等しい、塩化第二鉄原液を、床に二リットルぶちまけるという行動を、美大の大学院に進学した日本女性がとるとは、予想外だった。まあ、冷静に分析すると、それも、言いすぎになるかもしれないが、安子は、背が低くて、お顔がまた、だめだった。美しくなかった。だかラ、日本で恋愛に関する何か、いやなことがあって、それをニューヨークに大学院を卒業したという資格で、挽回しようと考えていたのだと、思う。

 ここらあたりで、安子からは、離れて、よよとの喧嘩について、語る方へ、戻りたい。よよは、自分がただで工房を使うために、モニター制度というのを作って、木曜日の夜六時から10時まで、工房の管理をしていた。だが、たちまちに、私に対して、アリと、アリゆる面で負けていると感じたからこそ、激しいいじめを行ってきた。その一つが、ご主人を連れてきて私に見せることだった。私は、その日以降、その男性をプリンスちゃんと、呼ぶことになるのだが、日本の童話の挿絵の中に出て来る王子様にそっくりだったのだ。髪は、生まれたときからの、金髪で顎あたりで、カットしてあり、ゆったりとカールしている。背が低くて、子供みたいなかわいらしさもあったので、余計に、絵本の中の、王子様を思い起こさせた。

 彼がクラシック音楽の作曲家であることは、前から、聞いていたので、私は、よよを、通さずに、彼に直接話しかけて、「グリークのソルヴェイグの歌って、英語で、どういう風に発音をするのですか?」と質問をした。ソルフェイジュの歌と発音をするそうだ。こういうことを知っているとメトロポリタンオペラの、客席やロビーで、会話をするときに助かる。

 アメリカでは、ヴァヴィヴヴェぇヴォをファフィフフェフォと、発音をして、がぎぐげごを、じゃじじゅじぇジョと、発音をすることが、多いことをわかっていることは、音楽に関する会話を、自由自在にできることを助けるはずだ。

 ところが、横でそれを見ていたよよは、激怒した。自分以外の、女性が、自分の夫に近づくことを嫌う、彼女のその時示した精神は、普段夫の悪口を聞いている私には、目を疑うポイントだったが、よよは、旦那が、べつの女性に、気持ちを移してしまうことを、心底、心配している模様だった。それで、100坪ぐらいの広い工房の、別のコーナーで、仕事をしていた、おとなしい感じの日本人女性版画家Aさんを、私の近所に呼びつけ、私に聞こえる様にして新しいポートフォリオ(版画合作集)を作る計画を、日本語で、語り始めた。私に対しては、「あんたは、入れてやらないぞ」という趣旨を示し、それが、その日の、いじめだった。当時、ホアレスと【よよ】の旦那が、男性二人として、在室していたが、二人には、日本語は、意味が解らない。私には、よよと、Aさんの二人に対して、「あんたがた、何をいじめて来ているのよ。何か、私が失礼なことをしたかしら?」と、ざっくばらんに、話しかける様な、会話術は、まだ、無い時代で、黙って耐えていた。

 黙って耐えているうちに、口の端をついて、ソルヴェイグの歌が、自然に出てきた。版画工房というのは、静かに仕事をするのが原則だから、別に大きな声で、歌ったわけではない。だけど、ソルヴェイグとは、奔放な行動をするペールギュントという愛人に対して、ただ、ただ、耐える人だから、今、いじめを受けている自分にとって、まことに、ふさわしい曲だった。

 すると、これもまた、別のコーナーで、仕事をしていたホアレスが、近づいてきて、「まるで、マリア・カラスみたい」と言ってくれたのだ。

 ホアレスは、露悪家だし、顔は、きれいではないし、それ以前には、嫌いだと、考えていた人物だった。が、クラシック音楽が好きで、朝いちばんに来ては、ラジオを、クラシック音楽専門の、チャンネルに合わせているとは、別の人物から、聞いていた。しかも、驚くべきことに、

 私が、2000年の、11月末にNYを去った、そのたった9か月後に、孤独死する。

 Nラインの途中の駅で、降りて行った彼は、きっと、茶色のレンガでできた、公立のアパート内(マンション形式。ただ、窓が小さい)で、死んだのだろう。実際には、飢え死にしたのだった。

 よよが、モニター制度を作って、若手の実力者12人が、使用料を支払わないこととしたので、工房の使用料支払いに対するモラルが落ちてしまい、工房の収入が激減して、工房がつぶれたのだった。それで、ホアレスは、唯一の収入を失った。

 彼の死後、日本にいる私に、それを直接教えてくれる人はいなかった。しかし、2002年に、私がNYで、個展をして、以前、ニューヨークで知り合った人たちにメールで、連絡を取った。その返信として、ホアレスの死を、教えてくれた人が、いた。日本人ではなかったが。

 それ以降、ブラックバーン氏と同じくらい、印象の、強い人として、ホアレスは、心に残り始めた。

 というのも、彼が毎日お昼にもってきていたサツマイモ入りの蒸しパンは、おやつではなくて、主食だったと、気が付いてきて、かつ、朝食も、夕食も、それですませていたと、気が付いてきたからだった。一時期日本人女性と暮らしていたそうで、あのサツマイモ入りの蒸しパンは、その女性が小さいころ、彼女の母親が、作ってくれたものだったのだろう

 なんという事だろう。彼に、私は、贅沢極まりない生活を、それとは知らないで、見せつけていたのだった。三か月しか、時間がないと、思っていたので、体力をつけるために、23stに、ある韓国人経営の、総菜やで、いつも8ドルから10ドルのおかずを買ってきて、近所のコンビニ(風)の何でも屋から、一ドルのコーフィーとパンを買ってきて、工房の裏の方、例の映画【裏窓】に出て来る階段傍の、隅で、食べていたのだった。

 薩摩芋は、クイーンズの安い八百屋で、一週間に一回、3ドルぐらいで、三本買う。粉も、一週間に一回、3ドル程度で買う。砂糖は、一か月に一回、5ドル程度で、買う。ガス代と、電気代を入れて、400ドル=5万円弱ぐらい。交通費が、答辞17ドルだった、一週間、乗り降り自由なカードを四枚買って、それと、コインランドリーのお金等で、100ドル。

 ただ、家賃がわからない。私が、2000年にアパートを借りたときの不動産屋は女性社長だった。金髪の50代でベンツに乗っていた。彼女と、自分が借りる物件に、ベンツに乗って向かう際に、こういう公営住宅を見つけた。そこだけ、大木が育っていたので、公園か何かかと、思って、「あれは、何ですか?」と質問をしたのだけれど、一切の答えがなかった。アメリカニューヨークにおいて勝ち組(=月収200万円か、300万円)の人が、月に、7万円で暮らす人をどれほど、ばかにしているかを、知った。

 日本でも、同じ傾向があると思うが、私に言わせると、ホアレスは、露悪家だったけれど、外人の同僚たちは、許容していたのだった。老人も若い人もホアレスを、正しく理解しそれなりに好きだったのだと思う。工房で一番長い時間を過ごす彼を、白人というか、よよの支配下にいない人間たちは、黙認していたのだった。使用料については、最初期から、いい加減な支払い方だったと思うけれど、・・・・・・

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副題5、『私は、黄色いさくらんぼを出版したころはホアレスよりも、ブラックバーン氏の方に焦点があっていた。ブラックバーン氏は1950年代に、結婚適齢期を迎えていたと思うが、パリで、修行したアーチストである彼に、ふさわしい結婚相手(黒人同士)が、見つからなかったので、独身のまま、ニューヨークの、文化遺産(歴史遺産)でもある、ホテルチェルシーで、50年近く、暮らして来たアーチストだった。

 1999年以来知り合っていた。本当にいい人だとわかっていた。しかし、よくわかっているうえに氏がパー既存し秒で、動けないので、もし、同じホテルに投宿していると、彼に分かったら電話で、毎日呼び出されるだろうと考えて、2002年だけは、明日帰るという最後の日のごぜん中にだけ訪問をしたのだった。彼のパンツの穴に衝撃を受けて、結婚をしていないと、こういう結果になるのだろうかと、思い、涙が、あふれそうになったが、一生懸命自分を抑えて、「何か買ってきましょうか?」と言った。彼は「全粒小麦パンを買ってきて」と言った。

 しかし、ホテルの、すぐ、近所に在る高級な食品をイタリア形式(または、地中海のヨーロッパ側の国の市場形式)で、売っているスーパーが、夜10時に締まるということを知らなかった。個展をしている一番最後の日だったので、忙しくて、つい、遅い時間に行った。

 ボブは不自由な身で、不必要なぜいたく品をお手伝いさんに買ってきてもらうのを遠慮していたのだった。私なら甘えられるのにボブが選んだ、最高のぜいたく品がパンだったのだ。悲しくて、たまらなかった。

 で、自分のために、買っておいた、黄色いさくらんぼ、8粒ぐらいを持って行った。それは、驚いたことに、大きなマータイ(麻袋)にずっしりと詰まっていて、量り売りをされていた。じぶんようだから、てを突っ込んで、一掴みだけえらんで、帰ってきたのだった。11粒程度、あって、しわしわだったのに、とてもおいしかった。5月にしゅうかくするだろうに、既に八月だった。だから、しわしわなのだ。でも、おいしかった。コンビニ風のお店は、15分程度も歩けば、見つかるはずだったが、置いてあるのは、ジェリービーンズ程度であって、全粒小麦パンなど絶対に置いていないのは、すでに、1990年と、2000年に、合計、180日、ニューヨークで、暮らして来た、私にはよくわかっていた。

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副題6、『最近の事なのだけれど上にも出て来る大原光孝さんという人物の収入(または、生活費)が何によってもたらされているのかを、考える機会が、増えた。彼の奥さん恵美子さんは、兄が、病院経営者なので、その理事にでもなっていたら、お金持ちだ。だが、同居を解消している今、光孝氏は、何によって収入を得ているのだろう。

 彼の養母さんは、医者の奥さまだ。私は、医者には、医者特有の年金が入ると、考えていた。しかし、半蔵門駅で出会った、頭の良い方(88歳の女性)が、「医者には、年金はありません。だかラ、医者の未亡人である私にも遺族年金は入りません。ただ、私は ビットコインの投資などで、お金が入るので、大丈夫で、子供(お医者さん)には、すがっていませんよ」といっていた(後注1)。それを聞いて以来、大原光孝さんの、収入源が、不思議で、ならなくなり、

 ・・・・・彼には、(もしかするとだが)、私をいじめたり、弾圧することで、月給が出ているのではないか?・・・・・と、推察する様になった。彼が、ケンタッキーフライドチキン・鎌倉店の横丁かどで、急に姿を現して、脅かす(?)のだが、その時の彼の顔を見ているうちに、そうではないかと思い至る様になった。

 この山には、そういう仕事を引き受けることで、月給が出ている人間が、ほかにもいるので、そう、考える様になった。この想像が当たっていても、当たっていなくても、ともかく、芸術一本やりで、生活していくことは大変で、私は、ときどき、ニューヨークの、人々の悲しさを思い出す。

 ボブ(本名、ロバートブラックバーン)氏は、ホテルチェルシーの経営者ほかの助けで、立派なお葬式が出たと、聞いている。ホアレス(=【黄色いさくらんぼ】の中では、仮名、エドゥアルドとして、登場している)は、孤独死(実際は、飢え死に)をした。そして、よよに支配をされて、彼女と一緒になって、私をいじめた日本人女流版画家Aさんの事も心配だ。同じく、女流日本人版画家であるが、会社勤めをしているBさんのほうは、大丈夫だ。日本の会社だったら、ねんきんがでるだろうし、外資系の会社だったら、貯金や投資にはげんでいるだろう。

 ボブは、工房がつぶれたので(よよの、せいだったが)収入がなくなってしまった。その上、からだが、不自由だったから、とても、弱い立場だった。1999年に、初めてボブをホテルチェルシーへ、版画を批評してもらうために訪問をしたときに、ボブは不在で、お手伝いさんだけが居た。彼女は、発酵臭のする、チコリのお漬物を、大きめのタッパーウエアいっぱいにもってきていて、ボブ用の、小さな冷蔵庫へ移している処だった。

 その時、通いのお手伝いさんであるキャシー(仮名、50代の、専業主婦だと、考えられる人)と、ボブの間に、お給料以上の手伝いや、助けが、有ることを知った。だから、深夜、たった八粒の黄色いさくらんぼを持って行ったときに、一つぶ、食べたボブが、「残りは、キャシーにあげようといったときには、驚かなかった。

 しかし、実は、午前中にもっていった、上等なクッキーをも、彼が、「キャシーにあげよう」といったのだ。それが、同じ日に、二度も続いたので、私は涙が、どっと出そうで、あわてて、辞去したのだった。午前中持って行ったのは、箱を作るのが、下手な、アメリカ人らしい、折り紙風の箱に入ったクッキーだったが、『どこで、売っているのかしら?』と思うほど、上等だった。私が、1999年と、2000年の、版画修業中に出入りした様な場所では、かつて見たことがない。

 箱は、5インチ×5インチの底辺で、高さが3インチ程度の、小さいものだったが、中には、種類の違う大き目のクッキーが、7枚程度入っていた。私は、四年も前から、ボブが、一人暮らしであることを知っているので、『これだけでも、彼は十分に楽しめるでしょう』と考えて持って行ったのだが、その時も、ボブは、一枚だけ食べて、残りは「これはキャシーにあげよう」といったのだった。午前中には、傍に、20代か、30代と思われる若い女性(黒人)が立って居た。彼女がボブに真っ白な、Tしゃつと、新しいパンツを着せていたのは、わかっていたが、ちょっと、足りないところがあった。新しいパンツだから、おきゃくを迎えるのに、ふさわしいと、彼女は、考えていて、排尿用の穴を隠すのを忘れていた。ボブがクッキーを上げたいといったキャシーはむろん、この若い女性ではない。若い女性の方は、お勉強をして資格(介護士とか、看護師の)は、持っているだろう。だが、まだ、未婚で、しかも、子供を育てたこともなかった。にこにこしていたけれど、ボブは、彼女にとっては父親でも、叔父さんでもない。でも、キャシーにとっては、ボブは、叔父さん程度の、親しみをすでに抱いていると、感じた。

 私は、悲しくて、悲しくて、額装用の器具を買いに、パールペイント(日本の世界堂みたいなお店・・・・五階建てだったと思う。六階建てだったか?)へむかいながら、Canal St.(中華街)を、涙を流しながら歩いた。

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副題7,『2022年5月1日の、本日、13:00PMに、google mapを、チェックしていて、パールペイントも、New York Centralもなくなっていることを知った。自分が大物であることは、ここまでの、変化をニューヨークにもたらして、いるのだった。これは、85歳、になっても(それは、いまから五年後だが)日本でのあれこれを片付けたうえで、ニューヨークへチェックに行かないといけない。どうしてそのふたつのお店が、無くなったのかを、質問に行かないといけない。

 そして最も驚くことにはあの黄色いさくらんぼを売っていた高級スーパーが亡くなっていることだった。それについて、調査をしていた三年前に、ホテルチェルシーを、森コンツェルンが、買収したことを知ったのだった。ひどい! アメリカ人、特に文化界の、文化遺産なのに。

   ところで、画材店が無くなったのは、ウエブで、注文をするので、リアル店舗が無くなったということはあるかもしれない。だけど、芸術家たちが、ウエブで、注文をする先であるレンブラント・ニュージャージー本社も、どうも消えているのだった。そして、昔よりもさらに、田舎に引っ越しているみたいだった。

 私が、レンブラントニュージャージーと引くと、そこに住んでいたカップルがレンブラント(画家)の作品を発見したというニュースばかり出て来る

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副題8、『なぜ、森コンツェルンは、ホテルチェルシーを買ったのか? それは、時期が、2011年らしいので、3.11と、むろん関係があるだろう。私は、福島の原発が、大洪水で、爆発したときに、3月16日には、これは、メルトダウンで、ヒロシマ型原爆と同じものなのですよ。死の灰が、降っているのです」と言って居る。その後、5月末、菅直人首相への不信任案が出るまで、主に科学的文章ばかり書いていて、どうして人間の体がだめになるのかを説明する直前まで、言っていたのだけれど、

 小沢一郎、谷垣禎一混合軍が、菅直人首相の不信任案を出したあたりから、政治の評論へ移行をしてしまった。でも、2011年に、このブログの世界で、書いたことは、すべて、真実であり上等でもあったので、読者数も増えたし、自分のライターとしての信用度も増したと思う。

それで、数々の謀略的出来事が起きたのだけれど、石塚雅彦さんなどが動いて、「森万理子さんを、雨宮舜=川崎千恵子は、批判していますので、やっつけましょう」という心理的、感情的提案もなされたのかもしれない。

 私は確かに、夢殿を実物大で、再現して、金箔をはりまくった作品を批判しています。でもそれをするのは必然です。この章で出てきたホアレスも芸術家なのです。運が悪いのかもしれない。だけど、毎月、7万円で暮らしていたのに、その細々とした収入さえ、自己中の極みの、きつい性格の人、よよのモニター制度で、版画工房がつぶれ、入らなくなったために、電気やガスを、五月ごろから、止められ、ベッドに横たわった形で、2000年の11月末、最後に分かれるときは、普通の人の体だった彼が、8月に飢え死にしたのです。

 そういう現象を知っている、私には、金箔で覆われた夢殿は、本当に、許容できない作品です。

 しかし、2022年は、その、ゆめどのというさくひんは、彼女の経歴から、削除されてるみたいです。さじ加減一つです。強者の恣意の典型です。森コンツェルンも、強者でしょうが、私の敵として存在している石塚雅彦さんも、強者中の強者ですから。森コンツェルンがhotel chelsea を買ったことを知ったのは、偶然でした。例の黄色いさくらんぼを買った、高級スーパーの名前を知りたくて、地図を見たらないのです。びっくりして、その周辺(=23丁目)を調べている最中に、その買収劇を知ったのでした。宿泊費は、3万円以上が普通の平均値・だそうです。近所に新築物件としての、ホテル・サボイ・チェルシーもできて、そちらの宿泊費は、8万円が平均額だそうです。芸術を志向する人間は、普通は、金持ちではないのですよ。ごく少数の成功者を除いて、金持ちではありません。ホテルチェルシーは、これからは、日本の、観光客で、占められることでしょう。アメリカ人芸術家ではなくてね。

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 さて、こういう文章を書いたのは、今朝、ニューヨークに自分がいる夢を見たからでした。大学時代の友人とにゅーよーくのカフェに私が居ます。彼女に、明日の昼に、ブロードウェイにある有名なレストランに一緒に行きましょうと言い、そのレストランの特徴をいろいろ説明をしていると、言う夢でした。

 ユージーンオニール劇場という劇場があります。その隣に、映画【女優志願】で、実際のロケ地として、使われたと、思うレストランがあります。

 ウクライナ出身の有名な演劇指導家、リー・ストラスバーグの娘、スーザン・ストラスバーグが主演した映画で、有名人である父親に、遠慮をしたのか、面白くない映画でした。劇場で、見たのですが、シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ(悪役)、クリストファー・プラマー(善人役)が、協力しても、面白くなかったです。それは、日本映画、【優駿】を見たときと似ています。JRAの協力を仰いでいるために、騎手同士の嫉妬心や競争心と、それによって起きる事故の部分が、全部落ちていて、全く、生ぬるい映画になっていたのでした。

 ただね。演劇の初日に、 舞台がはねた後で、ニューヨークタイムズの初版の、劇評を待っている関係者が、座っているのが、このレストランだったのです。私は、1999年か、2000年の秋のどちらかで、セールスマンの死を、隣のユージン・オニール劇場で、見て、そのあとで、このレストランに入ったのでした。その日は初日ではないし、真夜中でもないので、セールスマンの死の関係者も、ほかの劇場の関係者も、誰も来ていませんでした。すいていました。しかし、入ったとたんに、43年前に、映画【女優志願】で、使われたレストランだったのに、気が付きました。スキップフロアーが、中央に在るので、それが、同じでした。

 私は、自分は林真理子ではなくて、大勢のお取り巻きを、引き連れているわけでもない無名の日本人だから、遠慮をして、一皿の料理を食べたらすぐ出ました。だけど、多くのニューヨークのレストランの、うち、もう一回入ってみたいのは、あそこなのです。別においしかったわけでもないです。だけど、遠慮をして、そそくさと、早めに出たのが残念なのでした。

 そこの何が素敵なのかを、書くと、その特徴が、上にあげたエピソード群と同じく、失われかねないので、書きません。でも、英語が完ぺきな彼女(大学時代の友人)と、二人で、ブロードウェイの、どこかの劇場で、その季節で、話題になっている舞台を見て、その後、そのレストランで、あれこれ、感想を話し合いたいという希望は、持っています。フロイトが言って居たかなあ? 夢とは、実現をしたいと思っている希望が現れると。そういう種類の夢だったのでした。

後半の推敲ができていませんが、署名をします。

 2022年5月1日、午前三時から、真夜中の、零時まで、21時間かけてこれを書く。雨宮舜(本名、川崎千恵子)

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