銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

荻野アンナさんのかわいい電話+安西篤子さんの親切なはがき・・・△

2013-09-12 06:40:11 | 政治

 今は、14日(土)の午後二時です。昨日初稿としてアップしたこの文章を推敲(プラス加筆)を終わりました。 で、恒例の△印をタイトル横につけておきます。ただ、明日もう一回、推敲する可能性があります。リンク先や写真を用意して、貼り付けないといけませんので。

 なお、この一文には、芸術家が、多数登場しますが、無論のこと、主題は政治です。文化が重要な手段の一つとして、政治支配の現場で利用されていることの報告でもありますから。と言う添え文を二日目の土曜日に添えて、原文へ入ります。

この文章は前々報 

宮崎明子・・・石塚雅彦・・・小池玲子・・・ゴッホー中篇△△  2013-09-09 23:53:17 | 政治

の続きです。

 その前々報で、何を書いたかを簡単にまとめましょう。その目的のために、副題を羅列しておきます。

副題15、『今の日本では、年齢による上下関係は通用しない』
副題16、『肩で風を切る生き方とは、別の姿勢の、宮崎明子さん』
副題17、『私の友人や知人を、私と仲たがいをさせ、引っ剥がしていくシステムが横行しているが、その最初の例が、宮崎明子さんで、あっただろう』
副題18、『元博報堂重役の小池玲子さんも、敵方にリクルートをされてしまっている?』
副題19、『宮崎明子さんを、私から離れるように説得したのは、石塚雅彦さんですか?』 
副題20、『ゴッホの新作が、発見をされました』

 で、今回は、副題21から始まります。

副題21、『荻野あんなさんと、電話を交わしたのは、1987~9年の間だったはず』

副題22、『安西篤子さんのことは、小町通りで、何百回とお見かけしたものだ』

副題23、『フェイスブックで、時間というマトリックスを使って、私の発表を技術的に妨害をして来た人が、4人いるのだが、ここで、その事実をはじめて語ろう』

副題24、『安西篤子さんは、自宅の電話番号も、教えてくださったが』

副題25、『チャンスは前髪をつかめと、言われているが』

 副題26、『安西篤子さんのはがきは盗まれ、安西さんは、神奈川県立文学館の館長になった。そして、私の父や母の写真も盗まれた』

副題27、『ここで、横浜正金銀行というキーワードに目が留まる・・・・・モボ・モガの象徴として』

副題28、『泥棒って、もしかしたら、警察も含んでいますか?』

副題29、『柳沢昇は、鎌倉春秋窯のホーム頁で、自分の名前をさらしています』

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副題21、『荻野あんなさんと、電話を交わしたのは、1987~9年の間だったはず』

 私は、今頭の中に降りていることを書く事にしています。それを、『神様が私の手を使って書かせてくださる』と、いつも言っているのですが、本日書く事・・・・・すなわち、世に出ると言うことが何なのか?・・・・とか・・・・・そのためにはメディアを利用しないとだめなのだ・・・・と言うポインとについて書いていくのですが、それもその種の神様が書かせてくださる話です。ただ、その種の文章に固有の書き方となるので、どんどん、どんどん、横道には、それるでしょう。そのため、ツィッター方式で書き、タイトルがどんどん移動していく可能性もあります。それは最初にお断りをさせてくださいませ。

 そして、それが、主題ともいえないのですが、最初には荻野アンナさんが登場します。

 私が横浜の山手在住の大物画家・江見絹子さんに電話をかけたのは、1987~1989年の間であった思いますが、出たのはお嬢様でした。それが、後日、東電のコマーシャルで、毎週週刊文春の頁をにぎわわす荻野アンナさんですが、そのころはまだ、芥川賞の受賞前で、彼女はマスコミには登場しておらず、私は顔や、体形を知りませんでした。

 ただ、その声から察して、てっきり阿川佐和子さんのようなイメージを思い浮かべました。小柄でとってもかわいい人。実際にはギリシャ彫刻を思わせる大型の美人でしたけれどね。

 と言うのも、話し方全体が、かわいいこと、かわいいこと、きわまりが無いからでした。

 彼女は小説で、画家である母親との確執をたくさん書いていますが、心理学的な分野はそうであっても、ほかの側面から見れば、横浜山手育ち、フェリス女学院から慶応に進み、パリへ留学した・・・・・極端に恵まれた女性の一人で、お嬢様気質そのものの人でした。

 つまり、無防備そのものなのです。ただし、私がたらしこんで、聞きだしたなどとは思わないでくださいね。

 どうして、彼女があれほど、打ち解けてくれたかと言うと、私もまた、お嬢様気質そのものの人で、直感的にそれが、彼女にはわかるのでしょう。それに、私もまた、信頼する人間の間では、かわいいヒトで通っているのです。そして、声がすこぶるかわいい。そういうところが共感の源泉だったと思いますよ。で、同じような気質なのに、私の方は結婚をすでにしていて、子供を二人も育てていて特権の無い人として、地域社会やPTAでもまれているので、こちらの方がより経験値が高いわけです。それが荻野さんにわかるのか、彼女は甘えてきて、立て板に水というように、ご自分のことを話すのです。

 そして、特に共感をしたのが、画家の家のものの多さと、それが、ほかの人から見れば、極端に散らかっていると見え、一種のごみ屋敷風にまで見えるので、母である画家絹子さんが、入院したりして、その間、忙しいアンナさんが、お手伝いさんを雇いたくても、まず、片づけをお手伝いさんではなくて、アンナさんが、やらないと、雇うことすらできないと言う話なのです。

 上の文章の中で、一種のごみ屋敷と言うのは、私が入れた言葉であって、アンナさんと、私の間では、画家そのものとは、他人ではないので、その散らかりようも愛の対象ではありますが、それでも、それが、どんなに大変なことかは、ほかの分野の人にはわからないでしょう。それを表現したくて使った言葉です。、私だって、アトリエ用の、全体で、24畳もあるマンションを返却した2005年ごろから、10年間も、ずっと、この鎌倉の自宅で、片づけを続けている始末ですから。

 こちらは、「江見先生いらっしゃいますか?」と、聞いただけなのに、お母さんと、お父さんの両方が病気で、それで、ご自分がどんなに大変なのかと言うことを、お話になるのです。それが、小鳥がさえずるように息せき切って、です。

 お嬢様育ちの人は電話代など、顧慮しません。私もすぐ、1時間とか、2時間に達してしまいますが、このときは珍しく、アンナさんが、ほとんどの時間帯をしゃべりました。それは、現在では、各種の出版物、特に岩波書店から出ているハードカバーの小説集として、結実している内容です。

 でもね。どうして、突然に、ここで、アンナさんを思い出したかというと、私に関係する人、特に親しくしている雰囲気が両者の間に見られるときは、その相手は、敵さんが、必ず、出世させるのです。荻野アンナさんが芥川賞を取ったのも、この電話の三年後か、四年後でしたね。

 彼女より、もっと、身近な例で、すでに、大量に見つけてありますが、そちらを書くと身近なだけに大きな語弊が起きるので、遠い、遠い人である、荻野アンナさんをここで取り上げて置きましょう。

 で、この長電話の後で、荻野アンナさんは、どんどんマスコミ的に、重用されるようになり、とうとう、東電のコマーシャルに、起用される様にまで、なりました。それは、かえって彼女にとっては、マイナスでしたが、・・・・・私にしてみれば、そういうことだったのかと、敵さんたちの行動パターンを読んでいくことに役立ったのです。と言うのも3.11直後に見事にそれが、わかったのですが、東電ほど、国際的軍産共同体の息のかかっている会社は無いですから。直列的に支配をされている会社だからです。

 もし、今、荻野さんに、電話をかけたとしても、・・・・・荻野さんは山手のご両親の家は出ているはずですが・・・・・もし、彼女自身の自宅の電話番号が手に入ったとしても、・・・・・絶対にあの日の、楽しい弾むような話し方は、再現されないと思います。

 私からの電話は、知らない間に、番号非通知(ヒツウチ)になっているみたいで、相手に警戒されますし、たとえ、非通知になっていなくても、そちらには、呼び出し音がならないように設定をされると思います。また、もし、電話が通じて、彼女が出たとしても、間に、割り込みの電話が入って、通話が無理になるか、または、ここで、こういうことを書けば、すぐ彼女に個人的な電話が入って、『注意しなさい。この電話番号には、絶対に取り合わないように』と誰かから、進言が入るはずだからです。

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副題22、『安西篤子さんのことは、小町通りで、何百回とお見かけしたものだ』

 私が、鎌倉へ引っ越してきてから、すぐ気がついたのは、安西篤子さんが近所に住んでいるということでした。安西さんは、作家として、自分を支えてくれる、一種の執事兼秘書みたいな伴侶が、死亡される前は、毎晩、夕食は街へ出て、おとりになっていると推察され、それゆえにお二人で、小町通りを通られる姿を、何十回、何百回と見たからです。

 我が家よりは、一本か二本北に位置する谷戸(やと)を西へ向かって入るところにお住まいだったと思われます。そのころはそれだけの話でした。今では、有名人でも無名の人にでも、元気いっぱいに話しかける私ですが、それは、1999年と、2000年のニューヨーク体験を経た後の話なので、昔は、静かで、控えめな人だったのです。

 ところが、本を作り始めました。そして、それは、売らないのですが、周辺を驚かすに足るできばえで、もらった人で、育ちがよくて、上流階級のマナーを保持している人は、必ず、礼状をはがきか一筆箋で下さるものだったのです。時には一万円のお祝い金や、5000円~一万円程度の茶菓を送ってくださる人もありました。で、安西篤子さんに上げる日がやってきました。特に元気いっぱいのころだったので、それが、できました。今は相当に違ってきていますが。

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副題23、『フェイスブックで、時間というマトリックスを使って、私の発表を技術的に妨害をして来た人が、4人いるのだが、ここで、その事実をはじめて語ろう』

 この章は15日に新たに加筆する部分で、重要な部分です。注目をして読んでいただきたいのでわざとアンダーラインをつけません。

 私が今、自分を取り囲んでいる闇に気がついたのは、2007年の4月17日が最初です。そのころは、まだ、ブログもやっていないのに、インターネット上に自分の文章がばら撒かれているのでした。画廊について書いている文章を紙の本に直そうとしていたのですが、その前に、すべての画廊のグーグル検索で、それが、読めるように設定をされていたのです。で、せっかく紙の本を出し手も、誰も喜ばないだろうと、みなされていました。

 後に、重要な人物、たとえば、黒田悠子さん(画廊21+葉・銀座のオーナーだった)が、バシッとその本、15冊分を返送してきたので、そういう闇の手配がなされていることの傍証となって来たのです。が、それをエピソードとして書くのも、本日が初めてです。

 出版会界に強い、井上ひさしとか、伊藤玄二郎と、私がICU同窓会展ほかで、具体的な交流が、2002年まであった、石塚雅彦さんが、2007年には、すでに、結びついているのを強く感じます。と、同時進行的に、山本夏彦(東大卒で、ずっとサラリーマンだったが、現在は、放送大学の教授のはず)さんに、筑摩書房から、同種の内容の本を出すように手配がなされていたのでした。筑摩書房ということが、またミソなのですが、それこそ、身近中の身近な人へ話題が入ってしまうので、それには触れません。

 山本夏彦さんは、礼儀正しい紳士ですが、2011年から、2012年かけて、私がフェイスブックに投稿する時間帯に、大量に、ご自分の文章をニュースフィードにアップすると言う作業で、激しい弾圧をなさった人です。この仕組みですが、山本さんが知らない間に、そういうことになっていたのかもしれません。

 もしそうだとしたら、それも、古村浩三君あたりがやっていたことであり、それを命令したというか、示唆したのは石塚雅彦さんでしょう。二人は四谷のバーでよく会うという設定をしていました。

 が、同じ趣旨で私への言論弾圧に、動いたのが、小沼純一さんとか、おりひめマキさんとか、もう一人猫が好きで、反原発の若いアーチストとか、4人います。その人たちは、主に、シェアという形で、他人が投稿した面白いものを見つけて、それを紹介するという形なので、大量に文章を投稿することができます。

 フェイスブックと言うのは、時間の推移とともに流れていくホーム頁という性格を持つシステムだから、この四人の大量投稿が同時刻に行われると、私の文章は誰にも、意味が通りません。長い文章なので、400字ずつ切って、投稿していたからです。

 で、こういう大量の妨害を潜り抜け、潜り抜け、必死で書いていたのですが、再開の手配をしないでいるのは、あまりにも疲労困憊するので、それを再開しない方が、ベターであろうと、自分自身の体力やら、時間の配分を考えた結果の判断です。

 ただ、偶然にでも、フェイスブックをやって、古村君がどういう作業をしているのかが、明瞭になったのはありがたかったですね。もともと現実の世界でも、ここ10年に限れば、『変だなあ。極端に、彼は、不親切で』とは思っていました。

 だって、昔のことですが、1962年には、一年に、400回以上、たった、20人が存在する教室で、英会話の、実習をしていたのですよ。顔も見て、声も聞きながら、一緒にすごした存在です。そういう存在が、ばれないだろうと、高をくくっていたとしても、やっていいことだろうかと天に問えば、「いいえ、絶対にやってはいけません」と、神様が答えるだろう事をやってきたのが、フェイスブックの世界でのことでした。

 同席といえば、ほかにも、50人が出席する、ラボという、場所では、400回かける、1時間とか、200人が出席する講義でも、200回X2時間とか、一緒の時間をすごしています。国際基督教大学って、少数精鋭主義で、マスプロ大学ではないのです。同級生は、30人以下であり、そこでの接触時間は、多いのですよ。

 以上の一節は、すべて、土曜日の加筆部分です。

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副題24、『安西篤子さんは、自宅の電話番号も、教えてくださったが』 

 しかし、そういう闇の世界の設定に気がつく前は、私はそれなりのレベルで恵まれている人だったのです。

 そんなある日、若宮大路の警察署・・・・・(今は閉鎖中だが、建て直しの予定がある? または、移転をする?)・・・・を歩いていると、反対方向から来る安西篤子さんを見かけました。

 私はすぐ、『鎌倉春秋社の帰りだろう』と思いました。すでに、石川和子さんが、安野夫人へ「大学付属高校ご入学おめでとうございます」と言いながら、菓子折りを持参する場面をわざと、見せ付けて来手いたあとですから、石川和子さんの元愛人だと言われている伊藤玄二郎の周辺は、怪しいと気がついていて、安西さんに自著を渡すときにも、元気だから渡すのですが、その後については、何も期待をしませんでした。

 そのときに、渡したのは二冊目の自著『れすとらん・ろしなんて』で、副題に、『鎌倉で美と品格を考える』とつけてあるもので、鎌倉在住の方なら、面白いと思っていただけるものでしょう。

 返事は来ないと思っていたのに、きちんと返事が来て、そこには安西篤子さんの仕事場と、今は、それが失われているので、記憶が定かではないが、自宅、もしくは仕事場の方の住所か、電話番号が書いてあり増した。そして、親切なことには、感想も書いてあり、特に第10章がほめてありました。

 恐れ入りますが、ここで、挿入として、それを、入れさせてくださいませ。文体が素敵だとか、何とか言うよりも、気づきの問題なのです。繊細に、いろいろなこと・・・・・特に人の心模様・・・・に気づくところが、安西さんにも、評価をされたのだと思います。

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第十章、まるでフランス映画のように

 ある日、若い四人の女子大生が素晴らしい会話を交わしていました。今ごろ、お互いに信頼の限りを尽くした会話を傍耳を立てて聞くのも心地よく、心に残りましたが、その内容を採録すると長くなるので、それは飛ばして、ある、中年の人々の会話能力について、今日は話をさせてください。それが日本の中年にしては、ことさらに活発で、驚いたからです。

 土曜日の午後三時ごろ、逗子駅に入ると、自然探索を終えたらしい、50人ぐらいの中年男女のグループが目に付きました。背中に、ナップザックをしょっていますが、足は、登山靴では有りません。前回で書いた外人の青年と同じく、彼らは間違ったホームで電車を待っていました。逗子駅には、ホームが三本しかないのですが、終点でもあるので、なかなか複雑な使い方もされていて、初めて来た人は大いに戸惑うのです。私はおせっかいですから、「跨線橋を渡って、別のホームに行かないと駄目ですよ」と教えてあげたので、皆さん、私と一緒に移動をして、空いている電車に乗り込みました。

 日差しも明るい午後で自然探索で心を洗われたのか、どの人も、言っちゃあ悪いが年甲斐も無く、はしゃいでいます。

 「黒磯(栃木県)行きなんて言うと、全く訳わからないね。僕、おうちへ帰れるかなあ」と幼稚園児みたいに通路を挟んで、大声で、お互いに仲間内で対話をしています。 「僕、電車に乗った事は無いから、余計解らないよ」と同じ人が、自動車ばかり使っている事を、ふ・い・て(誇示して)いながら、再び「おうちへ帰れるかなあ」と言ったら、対岸のベンチ座席から「おうちなんて無いじゃあないか」と大声が飛びました。

 私は一瞬ひやっとして、顔色が変わってしまいました。確かに、パリやニューヨークですと、金持ちは車で移動をしているのでしょう。車の無い人間は、地下鉄で移動をしています。それでこの人が車を持っている事を誇示したのは、本当に稚さないプライドでは有ります。癇に障った人も有るでしょう。それに、まぜっかえした方は、結構車を持たない主義にプライドを持っている人かもしれません。しかし、私のような部外者にまで聞こえるような大声で、「お前は、持ち家ではなく、借家に住んでいるではないか」と言うような事を言われて、気分を悪くしない人はいないでしょう。

 しかし、言われた当人は、顔色も変えず口調も変えず、更に、冗談を発し続けるのでした。私は、『このグループは、官舎か社宅の同僚なのかしら。それとも団地の町内会でごいっしょなのかしら。いずれにしても相当レベルが高いな。良かった良かった。揉めないで』と内心で思いました。そして、ちょうど安心したときに電車が鎌倉駅に入ったので、立ち上がって彼らに背を向け、ドアの傍に立ちました。すると後ろから、例の格別おしゃべりな男性が「うわ、さすが、鎌倉だ。降・り・る・人も・品・が・良・い・な・あ」と言ったのです。私はそのとき、彼が、私に感謝をしてくれた事がわかりました。私が彼の心の傷付き・・・・・つまり、ただ、無邪気にはしゃいでいたのを「家なんか無いではないか」と、まるで夢の無い現実に落として、彼を貶めてからかった人物の言葉に、普通なら傷つく筈ですから・・・・・を、心配して上げたのを、彼は、わかったのです。私の密かな同情心を、彼は理解して、それをこう言う冗談で、お礼を返してくれたのでした。

 だって、私は顔はおかめ系ですし、別に品がよくも有りません。特に鎌倉近辺に出没する時は、洋服にも気を配りません。銀座に行く時は、色使い程度は気を使いますが、このごろは画材を買うので洋服は買っておらず、おしゃれとは縁遠いのです。それは、本当です。だから、人に褒めて貰う根拠も理由も無いのでした。この本の第2章、麗人目前を横切るに書いた、オードリーヘップバーンまがいの女性とは、まるで違いますので。

 でも、私は「日本人も、ひ・ど・く・高・級・に・成・っ・た・な・あ」、とは思いました。ここら辺の心の機微は、まるで、フランス映画、「かくも長き不在」に出てくるような心の使い方でしたから。秘めてはいるが、潤沢な、やさしさに満ちていて。その事はとても嬉しかったのですよ。では、                                        2002年4月14日 

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 挿入から元へ戻ります。

 私は、はがきの末尾に書いてある仕事場(鎌倉ではない)の電話番号を、本当にありがたいものとして見つめました。

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副題25、『チャンスは前髪をつかめと、言われているが』

 私が、静かに逼塞をし始めて、『普通の人として、この人生を終わるのでもいいかなあ』と思い始めたのは、ごく最近であって、65歳までは、大アーチストになる夢を捨てていませんでしたよ。だが、才能がそちらの方によりあるはずの、アート(美的な分野)よりも文章を書いていたのは、夫(主人と普段呼んでいる)と、仲良く暮らすためには、文章をパソコンで書くのが、生活形態として向いているので、それを、やっているだけなのです。

 絵や版画をやり始めると、その生活は、普通の主婦とは遠いものとなってしまいます。周りから見ると、あまりにも集中が強くて、それが硬いバリアーを張っていることとなるから、氷の女王の様に見えると思いますよ。すでに、老境に入っているので、穏やかに優しい日常を過ごしたいので、時間を区切ることが可能なパソコンで文章を書く事に専念をしているのです。

 でも、文章を書いていて、その集積を使って本を作り始めると、デザインまですべてを自分一人で、やる私にとって、それが、総合芸術であって、レオナルドダビンチになったみたいな喜びを与えられ、それで、満足している向きはあるのです。特に五冊目の『黄色いさくらんぼ』の評判がよくて、一応一里塚になったと思うので、安心した向きもあります。

 しかし、この二冊目を送った友達(安西さんではない)から意外な言葉が投げつけられます。「あなた、だめよ。メディアに乗らないとだめなのよ。いくら努力しても無駄よ」と。

 私の本には、すさまじいまでの、エネルギーがこめられています。ほぼ、三ヶ月かかります。文章を書く時間を別にして、編集や、校正、頁デザインや、表紙のデザイン等、にそれだけの時間がかかります。また、外部からパソコンに侵入を受けていて、仕事がパーになることも多いので、大量に繰り替えしの仕事をしないといけません。

 すさまじい苦しみを経て、一冊を仕上げます。あとの、6ヶ月はそれを、配ることにエネルギーを注ぐのです。残りの三ヶ月は、印刷所・がよいとか、そのほか、種々さまざまな雑用に消費されます。

 しかし、それほど、誇りたかく、ものをいっても、客観的に見れば、未熟なところはいっぱいあります。本って、最初の段階に、費用がかかるものなので、数十万部を売れる見込みのある有名人の場合は、最初のデザインの段階で、お金をかけます。

 すばらしい技術を持って居るデザイナーに頼んで、頁設計もしてあるし、装丁は、装丁専門の別のデザイナーが居るのですが、そちらも有名人に頼んで、びっくりするような奇抜なデザインとなったりしています。

 その種の本に比較をすると劣ります。だが、そこにこめられた大量の情熱(=愛情)と、手間ひま、そして、お金は、手に取った人を、やはり、打つのです。

 実際には、大体、一種類の本に、100万円はかかります。しかもそれには、労働時間に対する報酬が一切含まれていないのだから、500部配り終えたと言っても、一冊に、ほかの本の場合に相当すれば、5000円以上は、かかっている本なのです。だから、ほとんどすべての人は、ほめてくれます。でも、けなす人もいる。しかし、それが、嫉妬か、どうかといえば、わかりません。裏に何かが隠されている場合も多いから。本章も、そういう隠された部分を解明するために書いている文章となります。ところで、そんなに手塩にかけた本を、

 「メディアに乗らないとだめなのよ。何をやっても無駄に近いわ」と、言って来たのは、高校時代の同級生で、元・外資系の出版社勤務です。だから、この現実世界の内情を知っているともいえますし無視できない忠告です。

 テレビ東京のプロデューサーだった宮崎明子さんは、「あなたはすでに世に出ていらっしゃる」と言ってくださったけれど、それは、外部の人から見ればの話であって、美術界の内部にいると、自分はまだまだだと思われるから、ぜんぜん、安心も安定もしていないし、・・・・・

 本を作ることは、美術界内部の人にとっては、『あの人、一翻(マージャンの役のこと)つけて、自己宣伝に役立てようとしているわ。いやらしい』と、思われているみたいですが、自分にとっては、純粋な創作活動であって、出来上がるだけで、喜びであって、また、それを人に差し上げるのも喜びであって、それだけで、報われているんじゃないかと言う思いもありました。が、それでは、だめだといわれているわけですね。

 ただね。私の知人には、テレビの世界で名が通るような有名人も多いのですよ。それと、無名ですごしている中間のキャリアーウーマンとの違いは、さじ加減ひとつとも思われるので、知人や友人が、私が、メディアに、ブレイクできるようになるために、いろいろな忠告をしてくれるのを、無視することも無いのでした。

 その手の忠告の一つに、「チャンスは前髪をつかめ」と言うのがありました。

 私は安西篤子さんのはがきをしげしげと眺めながら、『この電話番号にすぐ電話をかければ、それが、チャンスは前髪をつかんだ』と言うことになるのかなとは、思いました。

 しかし、私はそれを、実行には移しませんでした。

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 副題26、『安西篤子さんのはがきは盗まれ、安西さんは、神奈川県立文学館の館長になった。そして、私の父や母の写真も盗まれた』

 安西篤子さんから親切なはがきが来たころ、すでに安西さんは、神奈川県立文学館の館長だったらしいのです。2004年から2006年とwikipediaには、書いてありますから。

 となると、行動に移しても、伊藤玄二郎(鎌倉ペンクラブ会長)とか、井上ひさし(当時は日本ペンクラブ会長だった)に、どこかの時点で、妨害や阻害が起こされ、私は悲しい思いを味わったと思いますので、直感として抱いた、電話をかけないほうがいいと、言う思いはあたっていたとなります。

 しかし、この種の暗闇も、いつかは晴れる日も来て、安西さんと、安心してお茶を飲む日も来るだろうと、それは、信じていました。でも、はがきに書いてあった、仕事場という、横浜北部の住所を、住所録に記載をするのは止めておきました。何らかの直感が働いて、よりひそやかなものとして、心の中にしまっておきたいと思っていたのです。

 ところが、例によって、そのはがきが盗まれてしまいました。

 どういう機会に盗まれるかと言うと、たとえば、印刷所さんが、4冊目から、急に、必ず、事前にアポをとって、くださいというようになりました。

 印刷所は板橋区にあって、鎌倉からは遠いのです。で、いって交渉をして帰宅をすると、正味7時間は家を空けます。そういう際に盗まれるのです。最近は、天城旅行をしました。それも長時間家を空けるので、盗まれている可能性はありますが、家の中にある何万点もの物を、常時点検するのは無理ですから、いつの時点で、何を盗まれたかの特定は無理です。

 私はすでに、自分以外に、『自宅から物が盗まれます。チェーン錠をかけて、中にいても、真夜中に物を盗まれます』と言う奥様、二人と出会っています。二人は、鎌倉からは、遠い場所に住んでいて、しかも、一人は、鎌倉より南に住み、一人は北に住んでいます。その北に住んでいる人には、別のお友達がいて、その人も、泥棒に入られるのだそうです。

 それから、真夜中かどうか時間帯のことは聞いていないし、盗まれるものも下着だけだと聞いている奥様も一人別に知っています。だから、私を入れて、五人の奥さん連中が常日頃入ってくる泥棒に苦しめられていることとなります。

 普通の人は、『そういうことなら、警察に届けなさい』、というのですが、何十回も入ってくる泥棒は、それほど、高額なものは盗まないのです。よしずばりのじゅうたんが、橋からだんだん、よし図が、抜かれているとか、冷蔵庫に入れてあった、菓子パンが盗まれているとか、私の場合ですと、寝室に、『美尻アンド、美脚』と、名づけられたパンツ用の、ラベルに見えるものが入れこめられていたりします。そのパンツが決まった引き出しから、別の引き出しに、移動をしていたりします。

 「これを言うと、ほかの人に、ノイローゼだと疑われるのですが、幽霊みたいな泥棒なのです」と、私に話しかけてくる奥様は、言います。私は相手に、「ブログをやっていますか?」と質問をすると「やっていない」と言います。で、私の場合は政治が絡んでいますが、そういう特殊な、ターゲット種族を狙う、傍ら、別の人種、つまり、政治的な発言をしてはいない普通の人も、大勢、嫌がらせを旨とする泥棒に、狙われているのがわかります。

 この泥棒のことは次の章で、詳述をするとして、ともかく安西篤子さんの親切なはがきに戻れば、それが、盗まれていることはずっと後で、知ったのでした。

 芦屋に住む友人から、1時間半に及ぶ私の三冊目の本に対する感想の電話がかかってきて、最後に、「ここに、お父様の写真が載っていることだけでも、すばらしいことよ」と言われたので、「ありがとう」と答えながら、電話が終わった後で、父に感謝をしようとして、写真がかかっているところに行って見たら無いのです。

 そのお友達は、東大を、学部を変えて、学士入学もして、2つか、3つの学部で卒業している才媛です。しかもお医者さんのお嬢様で、しかも、外人と結婚をしています。私は彼女に対しては、1959年ごろの大昔、高校の洗面所で、ダンスを、しながら、鏡に自分を映していた姿の印象が濃くて、それを添え書きとして書きながら、自著を送ったのでした。

 それが、三ヵ月後の、なんとも意味のあるタイミングで、電話が来たのです。そのころ、酒井忠康氏が、盛んに動いていて、『ああ、これは、酒井氏が、裏で糸を引いている』と、わかる電話が、別にあって、それがいじめようの策略であることを、ブログでは書かないのですが、折り返し電話で、確かめてあるのです。つまり、彼らの汚いやり口を見破ったことがあるのですね。

 つまり、酒井氏とか、伊藤玄次郎が、鎌倉在住のある男性画家を使って、すぐそばで、川崎千恵子に、こういう文言で電話をかけなさい」と命令しているのだと思います。いじめ特有の話題であって、いやな感じなので、県下みたいになって電話を切りました。

 ただ、裏があるのがわかっているので、すぐ、自宅に折り返しの電話を入れたら、自宅には、いないのです。なるほどね。と思いましたよ。すると、また、もう一回、彼の方から軟化して、謝罪をしている趣のある電話が、かかってきたのです。私が裏側を見破ったことを、察知して、あわてて、訂正をしておこうというわけでしょう。

 その直後(=数日後)に、今度は鎌倉市内ではなくて、遠い、芦屋に住んでいる高校時代の、同級生が同じ趣旨で、使われたのでした。間に立ったのが誰かはわかりませんが、先の電話が見破られたので、それを訂正しておこうという趣旨もあったし、一種の脅かしをかけておこうという趣旨もあったでしょう。

 彼女のご主人は外人です。ドイツ人です。外人で、日本の上流階級のお嬢様と結婚をする場合、隠れCIAが多いのです。芦屋の友達は、夫がCIAであるなどということを、一般的な概念として、私が言ってみると、「あら、いやだ。それって、偏見よ」と、否定して来ていますが、それでも、その可能性は強く、彼女の電話は、泥棒に気がつかせるためにかかってきたのではないかと、電話中から、思いました。

 泥棒に気がつかないと脅かしの役目が果たせないからです。これに関してJR東日本のガードマンの話をしないといけないのですが、・・・・・それは、話題が飛び離れすぎるので、別章に書く事にして、話題を、戻して安西さんのはがきへ戻りましょう。

 その電話の後でした。私は彼女が否定したのにもかかわらず、彼女のご主人はCIAか、または、友人の中に、隠れCIAがいて、そちらからの連絡で、彼女にこういう電話をかけさせたのだと、直感をしながら、父の写真が、かけてあった二階の部屋から、あわてて、一階へ降りて、客間のチェストの引き出しを開けました。そこに、父の別の写真があるかどうかを、確認して見たのでした。

 すると無いのです。そして、安西篤子さんからのはがきも、無くなっていることに気がつきました。はがきをもらってからは、5年は過ぎていたと、覚えています。

 で、その日、私はあわてて、いろんなものを探しまくりましたが、父の写真、と、母の写真、そして、父が、1943年に、満州官展の大賞を取ったことに関する新聞の切り抜きも盗まれているのを発見をしたのです。

 私はずっと、安西さんのはがきについては、このブログでは、触れてきては、いませんでした。大切な思い出として、しまっておきたかったからです。そして、泥棒に気がついた日のこと、また、それを気がつかせようとした芦屋住まいのお嬢様(=高校時代の友人)のことにも、こういう裏側を含んだ書き方では、触れて来ていません。

 すべて、上流階級びとで、昔は、『将来は、お茶のみ話ができる、はずの、大切な友達だ』と思っていました。頭がよくて、そこが、話相手として、すばらしい相手となるはずです。だから、母からの、遺産をもらった後では、旅行としてたずねて行って、話しあいたいと思っていたので、今日書いたような内実を、書いて来ては、いませんでした。

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副題27、『ここで、横浜正金銀行というキーワードに目が留まる・・・・・モボ・モガの象徴として』

 しかし、私も安西さんも年なので、いずれ消えていく話なのですから、今それを書いたほうが良いと思い直し、書いたのです。それを書くついでに、安西さんって、いつからいつまで、文学館の館長だったのだろうと、それを知りたくて、初めて、安西さんのwikipedia に入りました。すると安西さんの父君は横浜正金銀行の行員だったそうです。

 今は三菱銀行に吸収合併をされていますが、戦前は日本で唯一の為替専門銀行として一世を風靡した銀行です。安西さんの父君は、新卒で、入行した正社員だったと思いますが、母は、今で言う派遣みたいなもので、女学校を卒業後、数年を経ていて、しかも結婚をしていましたが、父が、母に就職を勧めたので、その同じ銀行に勤めました。モダンガールになるために。

 母の父は、山口県では、有名な商業中学(後に商業高校と呼ばれる)の校長を戦前戦中、戦後にわたって、40年間も勤めた人なので、そういうことを口頭で、言うだけで、採用になったのでしょう。でも、私は奇遇と言うか、奇縁を感じました。安西さんの父君が、横浜正金銀行の人だったと言うのは、今日、初めて知ったわけですが、その家風のモダンさと言う意味で、安西さんが、上の文章を選んでくださった理由も、本日わかったのです。

 私は元アメリカ大使館、館員の斉藤敏江さんから、「あなたは、やはり、大陸育ちの人ね。普通の日本人とは違うわ」といわれたことがあります。で、「三歳までしかいなかったのですけれど」と答えると、「ご両親の方が、違うのでしょうね」と言っていただいたのですが、確かに、結婚後主人と作った現在の私の家庭に比べると、50年はよりモダンなところに位置していました。母が父と同等であって、同額の資産を形成していたのも、父の勧めだったと思いますし。

 私の実家での、父と母との会話の内容は、本当にモダンなものだったのですよ。そういうところが、安西さんから、ご返事をもらう、根本のところだったとも思われるのです。それは安西さんのwikipedia内で、横浜正金銀行というアイテムに、初めて接して、わかったことでした。

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副題28、『泥棒って、もしかしたら、警察も含んでいますか?』

 私が泥棒に気がついたのは、2007年からです。パソコンへのハッキングもひどいものでしたが、家の中に泥棒が入って、いろいろ盗んでいく、そのレベルもすさまじかったのです。

 最初はパソコン関連のものが盗まれました。電源アダプターとか、バッテリーとか。パソコンそのものも壊されていきましたが、部品が盗まれることも多かったのです。

 そして、2007年の7月ごろ、当時とっていた日経新聞に「警察の昨今」と言うコラムが、連載されました。

 その中に、下っ端の警官が、「ある家に、入ってみたら、パソコンがたくさんあるのに驚いた」と上司に言うと、上司が、「そういう際は、必ず、電源アダプターの数を確認しないといけない。電源アダプターもパソコンの数だけあるはずだ」と、答えたと言う記事があったのです。そのときに、我が家の電源アダプターを盗んで行ったり、バッテリーを盗んで行ったりするのは警察だと、直感をしました。証拠はありませんよ。だけど、傍証はあります。

 そして、日経新聞に、こういう記事が連載される裏側には、石塚雅彦さんがいて、彼は、酒井忠康氏等と、つるんでいるから、こういうことになるのだとも直感をしたのです。

 酒井忠康氏と、渡辺幸子さん、そして、ガレリアグラフィカ等については、散々書いて来ていますが、それを書きながら、この種の裏側まで、頭にはすでにあったのでした。

 警察が我が家に泥棒に入るのは、石川和子さんと言う伊藤玄二郎の愛人が、猫のことで、自分の方が悪いのに、警察を呼んで、警官たちに、『あそこの奥さんをだんなに叱ってもらえるように、だんなに頼んでください』と言う馬鹿なお願いをして、また、それに乗って、のこのこと我が家にやってきた警官たちが、この山の中で、絶対に起こり得ないはずの交通事故の調書を取ったことから、始まっています。

 理不尽この上ない、現象からおきています。でも、私が原因ではなくて、おっちょこちょいで、お馬鹿さん名、石川和子さん夫婦と、昔、イしかw和子さんと愛人だったと、鎌倉中の文化人のほとんどが知っているだろう、伊藤玄二郎が、その下半身の秘密がばれることを恐れて、警察を動かし、私兵としてこき使っているから、おきていることです。

 だから、私が酒井忠康氏を中心というか、震源地とする美術界の不可解な現象を語るのには意味があるのです。この理不尽さを、追求しないで置くべきかと、怒りに震えます。

 そして、2007年の12月にはそれを、実名をさらさないで、示唆していますが、伊藤玄二郎、酒井忠康、井上ひさし、石塚雅彦氏などは、雨夜の品定めよろしく、私のことを小ばかに仕切って、いじめる案を次から次へと考案して行ったのでした。たぶん、上に上げた四谷のバーとか、そのほかの場所で、飲みながらです。ひどい人間達ですね。ばれないだろうと思って、あくどいことを平気でやっている。

 でも、私の方は、ずっと前からいきさつをすべて、見破っていましたよ。ただ、書くか書かないかは別問題ですけれど・・・・見破ることだけは、とっくに済んでいて、すべては、最初からわかっていましたよ。

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副題29、『柳沢昇は、鎌倉春秋窯のホーム頁で、自分の名前をさらしています』

 石川和子と言う背の高い女性を、私は常に内心では、『独活の大木』と、呼んでいました。平凡で、鈍くて、背が高く体重も重そうだからです。しかし、伊藤玄二郎のひとたらし能力に乗っかって、鎌倉市内の公民館に先生として送り込まれ、生徒数が多いそうで、つきに200万円以上の収入があると、生前は、自分から、豪語していたのです。

 柳沢昇と言うのは現在の石川和子の夫ですが、たかが、他人の猫一匹のことで、自分達がめんづを失ったのに腹を立てて、・・・・・(つまり、私の猫は彼らよりは、実際には私の方が好きなのです。当たり前のことですが)・・・・警官を私物化するという大失敗を犯し、その結果、自分の金の卵である石川和子さんの命を失ってしまいました。収入は激減したと思われますよ。だって、柳沢昇が、公民館まで、出稽古に行くことはできないでしょう。

 200万円の月収があって、ゴルフの会員権を持っていると、はがきの誤配達を装って、私に対して、威張っていましたが、金の卵を産む、妻が死んでどうなるのです。お金があっても、幸福は来ないでしょう。なんというあほ人間だろうと、驚き入ってしまいます。彼が警官を呼んだのでしょうから。また、彼が奥さんをたしなめることができれば、私の猫を自分の家に、隠すことも無かったでしょうから。

 だけど、警察は、自分達の大失敗を糊塗するために、私の家に泥棒に入って、電源アダプターとかバッテリーを盗んでいくし、一方では、バグを入れ込めて、パソコンそのものの負荷が大きくなるように設定して、パソコンを壊していくのでした。私はね、すでに、20台以上、買っています。が、生存中なのは、8台しかありません。

 ところで、電源アダプターと、バッテリーを盗みながら、一方で、電気会社に命令して、電源アダプターと補充させないように、それらを、補充部品として、買おうとすると莫大に高い値段に設定をしています。また、画面も、横長にするように国家的に指導をしているのだそうです。と言うのも、画面が、横長だと、テキストの行数が、制限されて前後の連絡が取りにくくなるので、文章を書くのに不利だからです。そういう風に妨害をしていくわけですね。

 デモね、そういうことをしているうちに、日本のパソコンは売れなくなりました。で、日本経済の衰退とか、電気販売店の衰退を招いています。それは、この雪ノ下の、わがまま主婦達の軍団が原因なのです。

 石川和子さんのあの制限も無いわがままぶりは、活動している主婦が総勢、10人に満たない、この山の閉鎖的な環境が、傲慢でわがままな番長型・行動を取る主婦達の権益を強めきっていて、それゆえに生まれるものだからです。

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 この文章は先へどんどんつながっていくのですが、それを入れると、完璧に2万字を超え増すので、別に、章を立てて、語ります。

 なお、このブログの2010年から数えはじめた伸べ訪問回数は、1795440です。

 2013年9月13日に書き始め、14日に推敲を終わる。 雨宮舜(本名、川崎 千恵子)

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