銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

瓜南直子さんの急死から、思い出される事、・・・その2、(この章は、覚園寺を主舞台として)△

2012-10-19 13:31:17 | Weblog
 今回は、瓜南直子さんの死亡という厳粛な事実に接して、いつもの30%主義をかなぐり捨てて、相当に踏み込んだ書き方をしています。今は、日曜日(21日)の午後4時ですが、二度目の推敲に入っています。さらに加筆してあります。19968文字で終わっています。ぎりぎりもぎりぎりですが。

副題ゼロ、『本稿の大意と、書くことの主たる目的・・・・・和解も提案しているのだが』
副題1、『アエラがwikipediaを、攻撃したが、そのわけは』
副題2、『グーグルさんが、邪魔してくれて、かえって助かった』
副題3、『日本画って、紙(または、絹地)ですが、額装すると重いのですよ』
副題4、『芸術家同士の、結婚は、実質的には、別居結婚であるケースが多いだろう』
副題5、『鎌倉・覚園寺さんと、私との間の、この30年間』
副題6、『樋口恵子さんは、高校の先輩であり、ずっと親切だったが』
副題7、『覚園寺の、新旧の、素晴らしい建物』
副題8、『それは、レザンジュのケーキが未配達となった件と同じだった』
副題9、『泉湧寺でのグループ展は覚園寺さんが、設定したのかな?』
副題10、『鎌倉・二階堂という土地柄』

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副題ゼロ、『本稿の大意と、書くことの主たる目的』

 この文章は、相当に重い書き方となっています。しかも、「あら、いやだ。また、偉い人(ここでは覚園寺)の悪口を書いているわ。あの人、やはり、頭がおかしいわね」と思われがちな主題から始まっています。私だって実は書きたくないです。で、書くのをやらないために、今まで、4回も伊藤玄二郎へ和解を提案しています。が、彼は非常に頭が悪いらしくて、乗ってきません。和解とは私を救うだけではなくて、彼の方をも救うのですが、そこが理解できないらしいのです。
 で私は古いことから、書くこととなるわけですが、ここに書いてあることは、インテリたちと、セレブ達が起こしているある暴力の、発露と実行の話です。その経緯と、大綱は、岡山県他で、突然見つかった大量殺人(洗脳と、集団暴力を用いた)と同じことなのです。主役は伊藤玄二郎です。鎌倉を舞台として起きることはすべて、彼発で動いています。または、彼より上のエージェントたちの発意で。

 そして、広範囲の人々(インテリやセレブ)が使われています。本日小沢一郎氏がドイツへ行き、脱原発を宣言しました。「嘘」って、叫びたいほどの、選挙対策です。本心はまるで違います。それに彼には実行力はありません。だが、だまされる、ある層ある種の日本人はいるでしょう。その小沢一郎氏と、伊藤玄二郎は、どっちが階級が上かはわかりませんが、同じ穴のムジナです。
 
 でも、本稿は、主題を瓜南直子さんという、芸大出身の美貌の芸術家が、若くして突然に死去した、その不思議さと、原因を追究して行くところに置きます。
 セレブとか、インテリがやることは、合力であれ、礼儀と、場所を選び、しかも、一見すると瓜南さんを助けているみたいです。

 彼女は自分が『魔弾の射手』として仕上げられてしまっていることを知らなかったでしょう。『よかった。自分には、いい仕事の企画が、このごろ、次から次へと訪れて来た』と思っているだけだったと思います。
 ただ、私からみると、これほど、見事に、『魔物に利用されると、不幸になりますよ』という概念が表れた例はないのです。いのちの、最終場面、特に、2011年に鎌倉セレブたちに利用されて、引っ張りまわされたことが、現実にどれほど、負担だったかが、私の目には見事に見えており、それを、これから語って行きます。しかし、相当に寄り道をする予定です。それをしないと正しくは語れません。なお、前稿

 『瓜南直子の死を10月17日に初めて知った私が、偶然にも、その前日に書いた宗教観△△』    2012-10-15 20:48:20 | Weblog

 は、この文章と双子の関係となります。そちらは同じことの美しい部分を書き、こちらは同じ現象のもっと恐ろしい裏側を書いていきます。登場人物はセレブばかりですが・・・・・
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副題1、『アエラがwikipediaを、攻撃したが、そのわけは』

 ここに初稿では、2686文字の説明を入れております。だが、本筋とは関係がないものが多いので、2000文字取り去り、後で、独立した文章として、公開をさせていただきます。その目的は瓜南さんについての説明をさらに加筆するためです。

 そこで詳細に理由を語り、ここではそれを語りませんが、で、アエラの、「ウィキペディアを使う人を馬鹿にする記事』も、鎌倉エージェント発で生まれた可能性は大きいです。
 そして、読者数がいまだ少なく、・・・・・ただし、177万人のグーブログの書き手のうち、私の地位は、200位前後(時には100位以内)であるという数の読者は居るのですが、
・・・・・大手出版社よりの、出版点数もない私を、小ばかにしていて、自分たちが支配をできるNHKや、朝日新聞社、および日経新聞社を通じて、できるだけ、私の文章が世に広まらないような記事やニュースを作り出し、継続的に流しているのです。
 でも、これに、私が全然、ダメージを受けなかった理由は、『それは、わかりましたよ。だけど、神様が見ていらっしゃいます。私は文章を書く際に、99%を自分の頭の中からひねり出しており、ウィキペディアを調べるのは主に生年月日だけなのですから』と、思っているから、平気なのです。
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副題2、『グーグルさんが、邪魔してくれて、かえって助かった』

 しかし、今回は、グーグルの検索で瓜南直子さんの死を確認したいと思いました。だって、それを、四か月間全く知らなかったのです。ここの、読者から、ご注意という簡単な形で知らされて、あっと思い、これは、確認したいと思うのも当然です。瓜南さんは、二つの住居を持っていて、そのうちの一つは、我が家から、高低差があるので歩けば三分、しかし直線距離にして測れば、100mほどの近さです。だから、お葬式の雰囲気とは、何かの気配は、感じられると思うのに、それも、全く感じられなかったので、急いで確かめたいと思ったのです。

 実は鎌倉市内にも銀座にも、私と瓜南さんの両方に、付き合いがあって、瓜南さんの、生死を電話で問い合わせることにできる先は、いくつもありました。が、これから書く複雑な内容の文章を考えると、知人こそ、巻き込みたくなくて、もっとも、間接的な方法であるネット検索に取り組んだのです。
 この際は、「ウィキペディアを利用しませんよ」といきがったり強がったりしている場合でもないでしょう。

 ところが17日の段階では、グーグルの検索では、瓜南さんご自身が書いた文章類はたくさん出てくるのですが、他人が書いた哀悼を示す文章は、一切出てこなかったのです。この副題2には、グーグルさんが、と主語に会社名を入れておりますが、本当は誰がやっているかは、わかりません。ともかく、私のパソコンには引っ付き虫がいますからね。相当に動きが不自由です。

 で、そこから先の選択ですが、知人に問い合わせる方に戻るか、別のルート特に泉湧寺に電話をかけるか、二者択一となるわけですが、私は、より間接的な方を選びたく、京都まで電話を掛けたわけです。

 その際、最高の情報を得ました。それは、いまだどなたにも公開していない秘密ですが、京都・泉湧寺と、鎌倉・覚園寺には、密接な関係があったのです。つまり、真言宗・泉湧寺派・総本山としての泉湧寺とその末寺としての鎌倉覚園寺という兄弟関係というか、師弟関係というか、親子関係というかがあったのです。

 そのことで、さらに大きく、瓜南さんを死に追いやった企画の裏側にあるものも見えてきたのですが、それを語る前に、なぜ、他人がグループ展を行ったに過ぎない泉湧寺という名前を強烈に覚えていたかを、語らせてくださいませ。それは、画家・瓜南直子へ捧げる、一種の追悼文となるからです。
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副題3、『日本画って、紙(または、絹地)ですが、額装すると重いのですよ』

 私は京都・泉湧寺には行ったことがありません。しかし、京都泉湧寺の名前がしっかりと頭に入り、地図まで調べて、どこにあるかを確認したのは、瓜南直子さんのフェイスブック紙上への投稿の、
 「伴さんが、右側を、タクシーで追い抜いて行った。拾ってくれればよかったのに」という一文に深い感銘と共感を覚えたからです。

 ここの読者の方は、ご自宅に油絵の一枚や二枚は飾っておられるでしょう。それを移動させようとすると、それほど、重くありませんね。だから、この文章の切実さがお分かりになるかどうかは不明ですが、実は日本画を額装するととても重いのです。紙であり、本当は軽いはずなのですが、紙であるがゆえに重いのです。

 というのは紙(または、絹)が弱いものであるがゆえに、前面にガラス、背面にべニアで補強をしてあるからです。実は版画も同じで、同じ補強をされているので、紙なのに額装すると大変重いのです。そして美術系作家というものは、個展の際は、それ専門の運版業者に依頼するのですが、グループ展の場合はたいてい、自分が会場まで作品を、運びます。私も何度も死ぬ思いをしました。ただ、銀座なら新橋からタクシーを使いますが、駅の階段を上下するだけでも死ぬ思いをするのです。それほど重いものを、3~5点持っていると、『どうして、タクシーに乗っているのに、私を拾ってくれなかったの?』と恨みがましくなるのも当然です。

 いつもは、ユーモアのある文章ばかり載せている瓜南さんが、これほど、素朴に愚痴を言っているのだから、どれほど遠いのかと思って、地図で調べました。すると、清水(きよみず)坂より長いみたいです。可哀そうにと思いました。酷暑の八月ですし。

 そう思ったときにはまだ伴さんと瓜南さんが実質上の夫婦であることを知りませんでした。が、『グループ展では一緒なのだから、そのぐらいの親しさはあるのだから、拾ってあげたらよかったのに』と思いましたね。
 しかも、その後、たった、10か月以内で、亡くなるのですから、この時も体調は相当に悪くて、その坂は、やっと登れるという状態だったと考えられます。
 『可哀そうに』と思います。
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副題4、『芸術家同士の、結婚は、実質的には、別居結婚であるケースが多いだろう』

 瓜南さんが、この苦痛を、タクシーの利用で、避けることをしなかったのを、『ああ、タクシーを見つけられなかったのね』というぐらいに軽く考えていた私は、例の絶筆としての、最後のブログの中に、ひそかに、経済的ひっ迫が語られているのを見て、さらに切なくなるのです。

 泉湧寺にタクシーで行くのには、バスの終点ではなくて、その相当前にタクシーを拾わないと、確実には乗れません。となると、タクシー代は高くなるはずです。しかも、鎌倉在住の瓜南さんは、京都の地理には明るくないはずなので、タクシーだまりとしては京都駅前しか、思い当たらないでしょう。そこからタクシーを拾っては、相当に高額になります。だから、バスで行き、降りてからは歩いたのです。

 伴さんがどうして、瓜南さんを拾わなかったのかは不思議でしたが、伴さんは伴さんで、メーターがぼんぼん上がって行くのを気にして、そればかり見つめていたのではないかしら。だから、左側を歩いている瓜南さんに気が付かなかったのです。
 二人は実質上の夫婦であると、ずっと後で、私は(例の柴田悦子画廊の中で)知ることとなるのですが、画家の生活の実態を知っている私は、2人は事実上の別居結婚であったと考えています。
 それは、作品の制作をする時に、真夜中を選ぶ人がいると、お互いに、寝不足になるし、作品制作中に、「おーい、おちゃ」なんて直子さんの方が呼ばれたら、直子さんの方が、怒りの発作に襲われるものだからです。
 
 で、別のアトリエで制作をした作品を、自分で額装をして、2人は別々に、鎌倉を出発して泉湧寺へ出発したのだと思うのです。あのね、芸術家って、「外出の出発時間を夫婦で、合わせましょうね。仲良しなんだから」などと言っていると、かえって面倒になるのです。で、『一時間ぐらい後に鎌倉を出発した伴さんは、集合時間に間に合わないので、京都駅からタクシーを拾った』と考えると、この不思議な文章が『なるほど、起こりうる現象だ』となって来ます。

 芸術家の結婚としては瓜南さんのものは、ある点で理想形です。女子美についてそれを語ったことがあるのですが、割り切りの早い女性は、お見合いで、さっさと高収入の旦那さんを見つけて結婚をしてしまいます。お医者様と科弁護士とか、生来出世しそうな東大出のエリートとかを選んで。
 夫が収入の高い男性であると、女流画家は安心して、制作やら発表をすることができます。が、精神の上でも、なまぬるくなってしまったり、夫および夫側の親族が、子供を産み育てることを当然のこととして、要求するでしょうから、そういう妻とか、母としての生活をやっているうちに、とげとげしい集中ぶりが失われて、甘い作家になってしまうのは当然ありうる、末路(または、未来)です。
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一日数時間をパートナーと共にして、夜10時前にはわかれて、別々の家へ帰る。多分そういう形だったと思われます。その方が孤独な制作時間が取れるからです。

 「夕食と会話と、時には、セックスを一緒にする。だが、後は自由だ」というのは本当に理想形です。ただし、そういう生活だと、相手のすべてを見るわけではないので、瓜南さんの体調がひどく悪かったということは伴さんには、わかっていなかったかもしれません。そのうえしょっちゅう外から呼び出しがかかって、例の鎌倉五山の管長さんたちとの会合をはじめ、飲み屋での、伊藤玄二郎との会合などがある瓜南さんに対しては、その独立性を尊重はするが、と、同時に保護者意識もないというところがあったかもしれないのです。

 それに最後の一年間、伊藤玄二郎が特別に利用をして、光が当たっていたことも、実は芸術家同士の嫉妬心というのを、刺激してしまったかもしれませんね。そうなると、ますます、伴さんは瓜南さんへ、愛情のこもった目を向けなくなります。だって、普通の家庭なら、一ミリも絵を描く気力がないという状態にパートんーが陥ったら、たちまちに相手が『事態が変だ。危ない』と察します。4月のその日の一か月か二か月前に察するでしょう。

 最上級の善意に解釈をすれば、瓜南さんと伴さんは、二、三時間だけ、しかも週に二、三回しか夕食を共にすることはなく、それゆえに、瓜南さんは張り切って、おいしいものを作ったし、・・・・それをフェイスブックに公開したので、人気を博したのだし、・・・・・その間、気丈にも大丈夫そうにふるまったので、伴さんは何も気が付かなかったとなります。

 最悪の想像をすれば、実は伴さんの心はすでに瓜南さんを離れていたともなります。別の女性ができたとかそういうことではなくて、『やはり、平凡な女性を妻にするべきだったかなあ』というような迷いにとらわれていたと。それを瓜南さんは察して、引っ越した?

 最後の段階で、「引っ越した新しいうちが何とか」、という記述があるので、引っかかるのです。その引っ越しの目的はなんだったのかと。
 夫婦っていうのは長い間かけて関係を構築するというか深めていくものなのですが、その目的は何かというと、安上がりなセックスの享受でも、世間へ向けて、『一人前なんですよ』と宣言をすることでもなくて、

 『子供を産み育てること』と、『晩年を支え合う』という二点があると思われるのです。お子さんがなくても、晩年を支え合うは、目標となり得ます。例えばお風呂場の電球が切れたとしましょう。一人だとすでに、バランスを取るのが難しくなっているかもしれない。だけど、2人いれば、そこで足を支え合って、電球を取り替えるという一つの仕事を完成できます。

 これ以上の詮索はやめましょう。ただ、2011年の夏、体調の悪い瓜南さんが重い額を抱えて、泉湧寺への坂を上るのがどれほど、つらかったかが、同じように重い重い版画額をグループ展まで何度も持ち込んだ私には、手に取るようにわかり、そんな瓜南さんに、深い共感と愛情を寄せていたのでした。

 それなのに、どうして秋に金田佑子さんと組んで、2人で、豊島屋の源平巻きを種にいじめてきたのか、映画のプログラムを種にいじめてきたのか、それからアスはが連のことでいじめてきたのか?

 「そういうことは天意に逆らうよ。自分に対して、本当に優しい人をいじめていくのは、天意に逆らうよ」とは言いたいです。だけど、裏があったのですね。だからそうなった。
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副題5、『鎌倉・覚園寺さんと、私との間の、この30年間』

 上に述べたように、京都・泉湧寺と、鎌倉・覚園寺さんが、直通の上下関係にあり、しかも、真言宗・泉湧寺派には、所属・末寺の数が少ないので、さらに密な関係があるということがグーグルが邪魔してくれたおかげで、突然に、知覚させられました。

 覚園寺は大衆的ではなくて、知る人ぞ知るお寺ですが、とてもいいお寺です。32年前に初めて訪れて『こんなお寺が日本にもあったのだ』と、夢のようなその美しさに酔いました。

 で、何度も訪れております。お友達が鎌倉へ遊びに行きたいと言えば、必ず覚園寺へ一緒に行きました。だけど、ごく最初期から、出口近くで、お札をお売りになるのは、いやだなあと思っておりました。それも、最近ではひどくしつこく勧められるのがです。鎌倉のほかのお寺では、こういうムードに接したことがありません。最近、レストランを地域内に、設定して、それを、一種のビジネスとしているお寺は、三つぐらい気がついてはいます。長谷寺が最も大衆的で、誰でも入れます。
 浄妙寺は奥様が、パンとか、ピッツァが、好きで、『石釜』を開かれた模様ですね。報国寺は、抹茶を提供していますが、これは、儲けというよりもお客様を慰労するという向きが強いです。

 これらは、入るも入らないのも自由だから、それでいいのです。だけど、覚園寺さんのお札(黒地蔵)の買い物への強要に近いおすすめは、ほかのお寺にはないものです。日光にはあります。だけど、鎌倉にはないです。しかも、最終段階出口に近いところでそれが行われているために、一気に興ざめという感覚を得ます。
 で、私は覚園寺を褒めるメールを閉鎖されたメルマガで、何度も書きました。だが、2010年の1月6日には、その前に、日光詣でをした直後だったので、とうとう疑問になっていたそのお札の売りつけをこのブログ内で、批判をしました。日光でも、うんざりするぐらい、あっちこっちでお札を売りつけられます。これは、よくないなあと思っております。お金、お金で汚染をされきっている日光の神域です。市長、または、輪王寺様のトップ、東照宮様のトップ、二荒山神社のトップは、しもじもの実情を探索して、よくないことは是正なさらないといけません。

 私は一人で神様に対峙している人間ですから、宗教に対しては真面目な考え方をしているので、日光の現状には唖然とするほど、いやな感じを受けるし、鎌倉に帰えれば、長谷寺の水子地蔵の林立(これは、15年前に見たのですが、今も残っていますか?)もうなずけないし、覚園寺の最終場面での黒地蔵の前での、お札のお買い上げのおすすめも、興ざめ以外の何物でもないと、思っているのです。

 それも、私が参拝したこの20年間、同じ人が行っているのですが、だんだんしつこさが増していると感じています。
 その同じ人とは、昔の言葉でいえば寺男、現代の言葉でいえば執事とか、スタッフという人でしょう。覚園寺様をしたい、そこに奉仕している人材だと思います。別に、覚園寺の御坊様や、その一族ではないのですよ。だから、かえって熱心にそのお金集めができるのですが、全体の美しい雰囲気を、そこで、あっというほど汚してしまい、壊してしまうのです。
 だから、こういう方法よりも、お高い拝観料、(例えば、千円)を取ってくださる方が、ずっといいと考えています。それから、案内人を二人にして、30分ごとに観客を入れる。そうすれば観光客の数が増えますね。それが、入場料の増収につながります。新しい案内人は、鎌倉市内のボランティアを使えばいいのです。覚園寺の説明ができるとなれば、大勢の退職したインテリが応募してくるでしょう。

 ただね。私は覚園寺様への味方のつもりであり、こういう意見も尊重していただきたいと思っているし、明治政府が覚園寺様をいじめた経緯もよく理解しているつもりです。だから、お気の毒だと同情しているぐらいです。
 そして、こういう悪いところを直言してくれる部下とか、秘書を持っている上司は、非常に心強いのですよ。経営姿勢を正していかれるからです。

 だが、伊藤玄二郎と、井上ひさしが、ここにからむと、事は単純ではなくなります。二人は、私の文章の隅々にまで目を凝らし、どこかに突っ込みどころがないかとにらんでいます。この<黒地蔵のお札を買いなさいのおすすめがしつこい>という部分をとらえて、覚園寺さんに讒言をした疑いがあります。

 それがわかる出来事が、後程、起こりました。
 覚園寺さんが、名誉挽回を狙って、すごく大きな催し(樋口恵子さんの講演会・・・・・主催は鎌倉ロータリークラブ)を企画され、それに私が招かれたのです。ただし、覚園寺様直接にではなくて、講演会の話者・樋口恵子様からです。
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副題6、『樋口恵子さんは、高校の先輩であり、ずっと親切だったが』

 私は中学時代までは、輝かしい成績を誇っていました。で、当時の統一テストでは、「神奈川県一、成績がいい。それは、全教科満点だから」と、先生からいっていただいたほどです。で、当時はエリート校であった、お茶大の付属高校へ、神奈川県からは、ただ一人の生徒として編入試験に受かりました。

 ただ、高1の時に、AFS試験を受験したかったのですが、その時に、担任の先生から受験用の書類をもらえないということがあり、そのうちに試験が終わってしまうという不思議ないじめを受け、その日以来、虚無的になってしまいます。よくぞ登校拒否を起こさなかったものだというほど、激しいいじめだったと思います。
多分、発音が先生より良かったし、子供心にも、この先生は努力をしていないなあと思っていたので、それが顔に出ていて、先生から憎まれていたのでしょう。

 が、その日以来、成績をよくするという意味では、もう、どっちでもよくなって、好きなことしか勉強しない子となってしまうのです。で、受験用の暗記、つめこみ勉強などはつまらないと馬鹿にしていて、やらないので、東大などの受験は無理になります。だが、国際基督教大学は、一種の・地頭・テスト(ただし英語はよくできないとダメだし、大量の質問に猛スピードで、答える柔軟性も必要)なので、合格をしました。

 しかし、面白いもので、なんとなくですが、それが、今幸いしていると感じています。その、つめこみ的・暗記・勉強をしていないので、脳が疲労をしていないのです。で、70歳の今でも、みずみずしい脳みそを活発に動かすことができるわけですが。だから、これほど大量の文章を、ほとんど毎日10時間程度、書いたり推敲したりできるわけですが・・・・・(笑)

 で、輝かしい先輩の一人である、樋口恵子さん(=東大出身で、都知事選挙にも出て、お子さんもお医者さんにした)とは、お付き合いも不可能なほど目立たない卒業生でもあったのです。が、本を作り始めてから、突然に、自信を持ち始めました。6冊ほど、あるのですが、少部数、(400,600,800部)しか作っていないし、本屋で、売ってもいないのに、公的な書評をもらったりしました。

 それに、普通の人(でも、インテリだったり真面目な生活をしている人)が「びっくりするほど面白い」という感想を送ってくださるのです。「こんな本を、待っていた」とも言ってくださるのです。その中には有名人も含まれていて、だんだん私は自信を深めていくのです。
 で、それ以前に1度、講演会を聞いている先輩の樋口恵子さんにも、堂々と送っています。きちんと礼状ももらっていました。これは、お茶大の付属高校では普通の礼儀ですが・・・・・
 その樋口さんが、覚園寺で講演会をなさることとなり、私はそれに入場できるおはがきを、樋口さんからいただきました。全文字手書きで、一般的な入場券ではなくて、「私の個人的なお友達としていらっしゃい。会はロータリークラブの主催ですが、これを入り口で示せば入れます」と書いてありました。

 とても親切なはがきです。しかし、なんとなく億劫で、行きたくありませんでした。それは、これが、樋口さんを使った罠であるような気がしたのです。それは、樋口さんが悪い人だというよりも、それ以前から種々の罠やひっかけに出会っていて、非常に不快であり、警戒心いっぱいだったからです。

 結果として言えばやはり罠だったのですが、私は当時は、そんな裏側は書かず、丁寧に、樋口恵子さんの講演をまとめております。このブログでも、それを発表しております。
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 そのタイトルは、以下です。

 樋口恵子さんの講演、「体重が軽い方が、老後は歓迎をされる」
2010-05-01 20:57:07 | Weblog

 この文章は、本日(=2012-10-19)にはタイトルをグーグルで検索しますと出てきます。よかったらご覧ください。テイストが最近の文章とどれほど違うかをお確かめ頂けるでしょう。
 
 つまり、事の、裏側については、触れていない文章です。今は、特にこの一文は、事の裏側に、70%ぐらい迫っている文章です。二つはニュアンスが、まるで違うでしょう。
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 で、元に戻ります。罠とはそれほど、嫌味なものでもないのです。それは、覚園寺様の、一般の人には入れない新しい信徒会館(いや、正式名をなんというかは知りませんが)をごらんなさいませネ』ということだったのです。

 樋口さんのはがきには、講演会の開催場所が書いていなかったので、私の方は、覚園寺の中にある、移築された田舎家で行われるものとばかり思っておりました。
 それは、廊下で囲まれた10畳が二つあるような古い農家で、川喜多邸にも似たような家が移築をされており、故・川喜多かしこさんは海外のセレブを招いて、そこで接待していたのです。覚園寺の田舎家の押入れに、もし大量のお座布団が用意されていれば、そこで集会を開くことは可能です。廊下や土間にも立ち見客が入れば、100人以上の聴衆の収容は可能でしょう。

 しかし、樋口恵子さんの講演会は、予測に反して、今まで、一切外周も、内部も見たことがない大きな建物の中で行われました。
 その建物の用途は、一種の信徒会館で今回の鎌倉ロータリークラブのように、鎌倉のセレブを招いて、講演会を開いたり、懇親会を開いたりする新しい講堂を含むものです。

 その講堂は、グランドピアノも置いてある、27mX18mぐらいのとても大きいお部屋なのですが、見たことのない作風の建築で、非常に重厚なものです。
 
 『なんだ、そうだったのか。覚園寺様は、これを私に見せるために、(私を確実に来させるために、)樋口さんに手書きのはがきを書くようにお頼みになったのだ』とわかりました。

 覚園寺さんの、黒地蔵のお札を買いなさいというお勧めは、いささかきついと思っていましたが、この新しい信徒会館を建てるためだったら、無理もないと思われました。
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副題6、『覚園寺の、新旧の、素晴らしい建物』

 覚園寺様は、明治政府に異常にいじめられました。それは、足利尊氏の尊敬やら、支援があったからです。足利尊氏は第二次大戦の終戦時まで、長らく逆賊としてとらえられてきたのです。
 
 私の想像では、今、鎌倉宮のあるあたりは、覚園寺の旧領地だったのではないかと思っております。で、その時に、覚園寺様は、いわゆる本堂というのを失われたのではないかしら? 無論、正当な対価も支払われずに。

 比較すると、比企がやつの妙本時は、寺領が広くて、借地が多いらしくて、とても豊かです。駅にちかい大町一帯は、妙本寺様の所有地であると聞いています。 

 ところで、ここでいうお寺の本堂とは、本願寺などで、立派で大きなものに接することができますが、一般的に、
 正面に祭壇があって、その前に、信徒が集まって、御坊様のお経を聞く広間です。真言宗なら、護摩をたく護摩壇も真ん中にありますね。そういうお寺本来の大切な建物を失われた。
 それをはっきりということは、明治政府、明治天皇、大正天皇、昭和天皇を批判することとなります。特に戦前には昭和天皇は、現人神(あらひとがみ)でした。絶対に批判ができない対象でした。

 で、ものを言えない長い年月を、我慢に我慢を重ねてこられた。と、すると、この信徒会館は、長年の、夢、本堂再建への第一歩かもしれません。
 これをまず東側の山すその、端っこに建設して、その後、今、田舎家があるあたり近辺の広い平地に、本堂をお建てになる・・・・・そういう計画が秘められているのかもしれません。となると、まだ、まだ、集金の必要はあります。

 そうなったら、ここらあたりで、『本堂再建のための入場料です』と、はっきりおっしゃって、入場料を、千円にお上げになればいいのです。そして、30分に一回の入場に制限を緩和なさればいいです。その方がずっと美しいマナーとなります。そして、本願寺風に、『寺院再建の、講を募っております。ご寄附ください』と、明言をなさって、お寺の社務所で、何千円とかを、寄付してもらう制度もお作りになったら、いい。

 その方が相手をだまさない手法となります。覚園寺まで歩いて訪れる観光客は研究熱心な人が多いので、今のやり方は、内心の失望を生んでいると思います。

 明治政府にいじめられて、迷い、迷い、ねじれた、臆病な、経営をなさってこられたと思われるが、「ここらあたりで、明治体制や、戦前を忘れましょう」と覚園寺様には提言をしたいです。

 私はね。この信徒会館(?)の設計コンセプトには、大きな好意を抱きました。覚園寺様の当代が、頭がとてもよいかたで、よく考えた設計だと思われたからです。

 覚園寺様は、本堂は失わされたわけでしょうが、薬師堂だけが残っています。そこには数種類の重要文化財(仏像)が安置されています。ろうそくだけの照明に照らされたお堂の中は、一間ほどの入り口の開口部だけで、照らされて、最初は目が暗さに、慣れず、よく見えません。だがやがて慣れてきて、きちんと見ることができるようになると、その荘厳さに打たれます。

 その建物で私が最も好きなところは実は仏像ではなくて、入り口の敷居です。年月を経たむくの木が、木目もあらわにボンと置かれている。それをまたいで入るのですが、それが、とても美しい。そのニュアンスが信徒会館にも繰り返されています。

 信徒会館のホールは、松本城の天守閣を広くしたようなムードです。27x18mぐらいの広い部屋は、主に黒の無垢の木と白壁で、できています。柱も床も黒。松本城よりもずっと太い柱と太い床材を使って。しかも、ピカピカに磨き上げられ、樋口さんのそばには、素晴らしい大壺のいけばなも飾られています。小屋裏機構を利用した天井は低く、窓も床から、立ち上がり、人間の腰あたりまでに設定されており、覚園寺の新緑を見下ろす形式になっています。つまり、一般の住宅でいえば、一種のロフトの利用となっています。が、新建材を一切使っていないので、不思議な美しさに満ちています。

 講演の後で、下の階で、立食パーティがあり、私は素朴なアメリカカントリー風ケーキ(どこのお店のものだろうか?)をいただきました。ロータリークラブの婦人部の方が親切に接待してくださったし。そのケーキは後程、銀座のホテルモントレーのパーティで、供されたものと似ていました。
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副題7、『それは、レザンジュのケーキが未配達となった件と同じだった』

 その樋口さんの講演会は2010年の4月29日の昭和の日の開催だったでしょうか。素晴らしい快晴の日で、寺苑ないの新緑も美しく、車の往来が少ない二階堂の道筋も歩きやすく、かつ鎌倉セレブの接待を受け、普通なら入れない、特別な建物に入れたのです。大威張りで、楽しそうにしてもいいのに、私は自分が暗雲に覆われているのを感じ、暗い気持ちにならざるを得ませんでした。

 それは、「伊藤玄二郎が、ここにも手を入れたのだ」とわかったからです。その経過はレザンジュのソフトクッキーが届かなかった経緯とそっくりでした。

 最高裁判所判事夫人という、インテリでもあり、セレブ夫人でもある方から、私が献呈した本に対して返礼として送られたものですが、我が家に到着をしなかったのです。お年賀状の返礼として、彼女から「どうして、年賀状をくださるのに、クッキーの礼状をくださらないのですか?」とご返事をいただいて、初めて、せっかくの好意が、到着していないことで、暗転をして、反対の効果を生んだことを知ったのです。

 本当に、つらい思い出でした。だから、今度は樋口恵子さんにあれこれ説明をするのを止めました。また問い合わせをするのも、やめました。ただ、講演が終わった後で、ご挨拶に行ったときに、以前ほど明るい声で対応してくださらず、顔もこわばっていたんで、私の推察が当たっていることやら、そのほかの、委細を飲み込みましたし。ただし、これで、縁が切れたとは感じました。『ひどいなあ。伊藤玄二郎は』と、思いましたよ。

 だって、彼の元愛人であって、彼が、自分の会社名さえ与えて保護し続けて、私より上の存在として、25年近く威張りかえってきた石川和子と、柳沢昇は、自分の猫を飼うなどの、普通の人が当り前にやっている工夫をしたら、我が家との間の猫を巡るトラブルは発展をしなかったのです。新しい猫を飼うことを、私がすすめても、『だって、旅行に行けなくなるんだもの』とふくれっ面で、言うことを聞かず、トラブルをどんどん拡大して行って、挙句の果ては自分の方が追い詰められて、警官を呼んで、「あそこの奥さんを、あそこの旦那に叱ってもらうように、あそこの旦那に頼んでください」と、命令して、

 また、また、その警官たちがお馬鹿さんで、言うなりに言うことを聞いて、罵詈雑言を含む対応をして、しかも、私をさらに、威嚇し脅かすために交通事故の調書を取ったのですよ。我が家は山の上にあり、絶対に交通事故は起こらないところなのです。そこまで、石川和子と、柳沢昇が、増長慢なのは、伊藤玄二郎の元愛人だということで、日ごろから、鎌倉市を利用した過剰な優遇を受けているからです。

 そしてその時の二人の失敗のあとで伊藤玄二郎は、石川和子との過去の関係を隠すために大勢の人を巻き込んで、私が憂鬱になるように責め込んでいるのです。

 私がよく五億円の損害があるというのは、・・・・・・ここで、もし、伊藤玄二郎が動かなかったら、樋口恵子さんと私の間柄が壊れなかったであろう・・・・・この覚園寺のエピソードをも含んでいます。私は彼発のアイデアで、いやな苦しい思いをかずかずしています。

 覚園寺さんだって、それを、伊藤玄二郎から讒言としてお聞きにならなければ、「黒地蔵のお札を買うようにというお勧めが、しつこすぎる』という私のブログも、「世の中大勢の人がいるから、いろいろ悪口を言うやつもいるね。だけど、こっちは明治政府に奪われた本堂を再建するという大義名分があるのだから、あれは無視しておいていい」でおしまいだったと思います。

 そして、この時に、レザンジュのケーキが届かなかったのも事故ではないと確信をしました。伊藤玄二郎がレザンジュに、讒言をしたのです。「彼女はお宅の悪口を書いているよ」と。当時はレザンジュの方は、仮名で書きました。が、私をいじめて抹殺さえしたいと思っている伊藤玄二郎と、当時はまだ生きていた(?)瀬島龍三は、「雨宮舜(本名川崎千恵子)がお宅の悪口を書いていますよ」と告げ口をして、そのあとで、「最高裁判所判事夫人からのプレゼントを届けないのはどうでしょう。彼女がそんなセレブとさらに仲良くなったら、増長しますからね。それを避けましょう」と、提案したのだと思います。または、悪口の方を先に言っておいたので、レザンジュ側が、そういう措置を取ったのだと考えても、いいですね。

 特に小町通りのお店で、私がアラフォーの女店員に向かって質問をしています。「1500円買ったら、1500円あげますというのぼりが外にたっていますが、どうして、サービス品をいただけないのですか? 私は二回もトライしていますが、いただけませんよ」と。その時に、店員がマニュアル通りではなくて、すぐ「わかりました。先ほどは、ちょっと気がそれていて」とでも対応して宣伝通りの、プレゼントをくれれば、私も文章を書かなかったでしょう。

 でも、素直な、謝罪ではなくて、裏側が見え見えの、言い逃れをするから私はよけいに、怒ったのです。

 「3000円以上、買った人にはさしあげているのです」などと変なことを言うからこちらは怒ったのです。最初に試した時に、こちらはそのパイを、三千円以上買っています。だから、最初からのぼりは、だましの一種で、全部の人にプレゼントは、上げないで、済ませるつもりだったのでしょう。 だって、誰もが、ずいぶん、過剰なブレゼントだなあと、事前に思っています。だから、もらえなくても、それを請求すること自体が、自分が低位の人間になったみたいに思え、恥ずかしくて、誰も言い出さないのです。それを利用してのぼりだけは、たっている。が、お店は、閑散としていましたよ。早速に口コミで、伝わっていたのでしょう。

 しかも中身的には、豊島屋の鳩サブレーより、ずっと原材料が少なくて済む、何とかパイを大衆的な人気商品にして、鳩サブレーに対抗しようとはあさはかです。

 だけど、私の想像通りに、伊藤玄二郎が悪口を言ったと仮定をしましょう。その讒言を聞いた後で、この商法の発案者が、女店員たちに検問をして、実際に私に対応した女店員が見つけ出された、呼ばれて、叱られたとしましょう。その女性は、責任者として、小町通りと若宮大路の支店を任されていたのだが、この、へんてこりんな商売が、とん挫して、その二つの支店を、閉鎖して、引き上げることとなった時に、本店に戻ってレジ打ちを担当していたとも仮定します。

 頭にしっかりと、雨宮舜(=本名川崎千恵子)が入っていれば、上司にこのプレゼントのことを、報告して、

 上司が「おくるな」と命令したのかもしれません。だって、とんでもないだまし商法を考え出す、誰か(私は当初は、それは、二代目のボンボンであろうと、推察しています)が、あのレザンジュには存在しているのですから、その人はまっとうな批判に対しても恨んだりする可能性もありますからね。

 でも、それは、それで、ほかが忙しいのですっかり忘れていました。
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副題9、『泉湧寺でのグループ展は覚園寺さんが、設定したのかな?』

 クッキーが届かなかった件は、2003年か2004年に起こりました。それから、五年後に、覚園寺での、樋口恵子さんの講演会が起こりました。そして、さらに、その一年半後、瓜南直子さんが、『北鎌倉の浄智寺で、鎌倉五山の管長さんたちと会いました。そこには、覚園寺さんも見えました』とフェイスブックで書いたのです。それを見た時に、本当にぞっとしました。

 何にぞっとしたかというと、瓜南直子さんの、私へのいじめの影に、やはり伊藤玄二郎がいるのだと確信をしたからです。なんと嫌な男だろう。そして、しつっこく、そして、どんなチャンスも見逃さずいじめてくるのだと思ったことでした。

 その催しは、瓜南さんのエリート化をさらに進め、そして、それをいつかは、私に誇示することが目的でした。たまたま、どうしてかその日にその投稿を、見てしまったので、いつか将来ではなくて、その日に、直子さんの鎌倉でのエリートぶりを知ってしまったのですが・・・・・
 特に嫌な部分が『覚園寺さんも、おいでになりました』という部分です。

 鎌倉五山と覚園寺さんでは、まず仏教の宗派がまるで違います。そのうえ、場所も確定的に離れています。だから同席すること自体があり得ないのです。

 ただ、覚園寺さんにとっては、鎌倉市内で、唯一、自分だけが円覚寺や建長寺の管長さんと同席する場に招かれたということは楽しいことだったでしょう。確かに覚園寺とは、独特のムードと美しさのあるお寺です。初めて拝観した人は驚くと思います。だから、あのお札のおすすめさえなければ鎌倉市内(特に山の内側では)、随一の人気を誇るお寺と言ってもいいでしょう。だから、招かれた?

 だけど、違うでしょう。そうではなくて、覚園寺さんは、瓜南さんに恩義を売っていらしたから招かれたのです。ただ、瓜南さんにというよりも、この会を設定した主役の伊藤玄二郎にです。

 瓜南直子さんにとっても、この会は、無論のこと楽しかったでしょうね。だけど、好事魔多しで、伴さんが、瓜南さんから心を放していく結果につながったのかもしれないのです。

 そのたった半年後、あれほど苦しい絶筆をパソコンでブログ紙上に書いた瓜南直子さんのそばに、パートナーの伴さんはいなかったと推察できます。一緒にいたら、「お前、どこか、苦しそうだなあ。パソコンなんか打つのはやめて、横になりなさい」というはずです。それが何回も言うように、夫婦というものでしょう。年取って来て若い人とは違う健康状態になった時に助け合う。それが夫婦というものなのですから。

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副題10、『鎌倉・二階堂という土地柄』

 ところで、覚園寺さんが、泉湧寺さんに、瓜南さんとそのパートナー伴さんを中心とするグループ展を提案したと、これから、仮定をしていくわけですが、その前に鎌倉二階堂という土地柄について説明をさせてください。

 川端康成に、『山の音』という小説があるのです。子供の頃に読んで、別にという感想でした。が、自然の描写には、関心があり、頭にイメージを浮かべる私にとって、山の音の舞台はまさに、ここらあたりであろうと思うほど、美しい一帯です。

 特に、北に山を抱え、南側に結構な広さの平野(または盆地があって、そこから海の間に、一回山脈で、さえぎられるので、海風(潮風)が、とどめられるので、風もそよそよと、柔らかに樹木の枝先を震わせるのです。ここには名所としては、駅に近い順にいえば、鎌倉宮(薪能で、有名です)、覚園寺、瑞泉寺があります。戦後すぐには、水仙の瑞泉寺はとても有名な観光名所でした。が、最近のはやりは、アジサイですね。
 そして、どうも三つのはやっているレストランがあるらしい。
瑞泉寺の奥にあるのが、創作中華の、凛林で、鎌倉宮の前にあるのが、和そばを中心にしたお店、覚園寺の近所にはイタリアンの有名なお店があるらしいのです。 
 で、凛林ほど有名になると駅からタクシーでぼんぼんお客さんが来るのですが、一般の住人は、ここから駅までは遠いです。

 で、駅へ15分以内に行くことのできる地域とは、住人が、異なっていて、文化人が多いのです。ここの住人には私の方は、何人もの知人がいて、それがそれぞれ、最近では私にとっては、大問題になって来ています。それは、ここに酒井忠康氏のお宅があるからです。で、氏が動いている可能性を強く感じます。

 酒井氏は、一時期から、外部へ発表する住所を逗子になさっています。それは、奥様の画廊が開かれている住所であり、実際には引き続き二階堂に住んでおられると推定しています。

 で、上に書いた住所変更こそ、酒井先生が、対・私用にいろいろなことをなさっていることの証明だと思っております。「そう言うことに怒った、私が、酒井先生に会いに行くために、自宅まで訪問をしてくる可能性も考えておられて、それは、困るので、住所変更をした」と推定しています。もちろん行きませんよ。安心してください。(笑)

 で、本日は覚園寺さんと泉湧寺の関係がわかったので、あのグループ展も、伊藤玄二郎発のアイデアだったと確信をしていますが、使者として動いたのは、酒井忠康氏だったかもしれないと思っていてそれをかきましょう。
 酒井先生は、鎌倉市内では、上位10位以内のセレブ(有名人)です。覚園寺さんのランキングはわからないし、その決め方の基準はは複雑ですが、江戸時代より前の寺としての格の高さを考えれば、大きな存在となります。それに、鎌倉宮の方は、宮内庁の管轄下にあり、宮司様はサラリーマン化していると推察しますが、覚園寺さんは、だいだいの管長が歴代で、変わらないお寺でしょう。だから、存在感は強いです。

 で、これから先は見てきたような嘘を言いの一つですが、

 酒井先生が歩いて、(電話アポの上で)覚園寺を訪ね、「覚園寺自体か、泉湧寺で、展覧会ができませんでしょうかね」とお話になる。

 または、伊藤玄二郎が、直接訪問をして、より詳細な目的を示し、覚園寺さんものって来て、「私のところより、泉湧寺さんの方が観光客が多いし、立派な展示場もすでに持っておられますので、より適切でしょう」と、提言をして、泉湧寺に対して、折衝を買って出てこられたという案もあります。後者は、一度、ロータリークラブの会合、樋口恵子さんの講演会で、折衝済みの間柄だし、自分自身も、鎌倉ロータリークラブの会員である可能性の強い伊藤玄二郎のことです。ひとたらしの天才として、たちまちに、京都の泉湧寺さんをも巻き込んだと思われます。
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 それが、酷暑の時期だったので、しかも、地元でもなく慣れている東京でもなかったことが、瓜南さんに、大いなる消耗をさせたと、私は見るわけです。

 この章は、まだまだ、書きこまないといけないことがいっぱいありますが、なんと字数制限、ぎりぎりに達してしまいましたので、ここで、急にという形ですが、止めたいと思います。
 今日の主役は覚園寺様ということになりますかな?
 いいお寺なのですよ。だけどあの説明人はそろそろやめさせた方がいいです。最初は朴訥で、誠実な感じでしたが、最近ではお金儲けに熱心ないやみな男性という印象を受けます。同じ人を同じ部署に、何十年も置くのは経営者として間違っています。
 淀みますから。
 脇道へそれますが、我が家の所属する町内会なんて、安野氏という人が、副会長を、28年以上連続してやっています。それで、すさまじくも悪いことがいろいろ起こっていますが、私もあっちこっちに火の粉をばらまくつもりもないので、『ああ、そうですか』という感じで放っておいてあります。
 ともかく、創業者社長とか、創業者会長が、20年以上同じ地位に存在するのは、仕方がないでしょう。それに、きちんと前向きにやって行かないと企業はつぶれますから努力や勉強もするでしょうしね。

 でも、それほど、重要ではない地位、ただし、お金や、小さくても権力が絡む地位に同じ人間を20年以上、つけさせておくと弊害が必ず起こります。覚園寺様は説明人を鎌倉市内の退職して、何かをやりたがっている老人ボランティアにお変えになった方がいいです。一時間、千円程度の謝礼で、喜んでやってくれる人物はいっぱいいると思います。そして、今までの説明者は、寺男としてか、なにか、ほかの仕事を与えて、一生の生活費を保証してあげらればいいでしょう。
 2012年10月19日の午前中から書き始め、21日に推敲を終わる。
      雨宮 舜 (本名、川崎 千恵子)
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