酒と畑に戯れるオヤジな私

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”宝石箱”の移転

2006年02月24日 | オヤジのつぶやき
終戦直後の少年時代 まるで宝石箱のように 大切にしていたものがありました

秋葉原 万世橋の中央線高架下の「交通博物館」です(旧鉄道博物館・テッパク)

鉄道模型なんぞは はるかな高嶺の花

鉄道好きな貧しい少年たちの夢は まるで宝石箱のような「テッパク」でした

そこに行けば 空き腹も忘れることができました 

日頃の喧嘩仲間も 呉越同舟

争って鉄道知識を競い合ったものでした


その大切な思い出の場所が ここから消え去ろうとしています



1921年(大正10年)東京駅北側高架下で開館しました

ここ 万世橋に移転したのが1936年(昭和11年)でした

以来84年 少年少女の夢を育んだ博物館です

消えると言ってもなくなるわけではありません

今年 さいたま市に移転するというのです

しかし この場所にはさまざまな想い出が 詰まっているのです

仕事の打ち合わせがあった 暖かい日差しの昨日  久し振りに見学にいきました


しばし 写真でお楽しみください

博物館の玄関を飾る SLと新幹線



これが「目玉」の屋内展示の実物SLです



                      

右側の蒸気機関車 C57135号車です シゴシチ 別名「貴婦人」

昭和12年(1939年)から201輌製作されました

最後の舞台は昭和50年(1975年)北海道のサヨナラSLの主役を勤めました



いまも昔も 子どもたちの人気は 模型列車の運転実演です

広いスペースを縦横に走りまわる列車群に 親子の大歓声が上がっていました



                       夜になりました



明治5年(1872年) 新橋~横浜間を走った 1号機関車

イギリス製の実物です



30人乗りの客車です 上・中・下等の区別がありました



D51型蒸気機関車を「運転」する坊や 孫ではありません



D51型は 戦後の復興の花形機関車です

昭和11年から なんと1115輌製造されました

実物の車輌は 主に東北地方を走り 昭和47年(1972年)引退しました


つぎは お乗りになられた方々も多いと思います

修学旅行専用 167系「なかよし号」です

舟木一夫の歌が聞こえてきそうですね



機械系統の展示も楽しめます

電車のシンボル パンタグラフです

信号機の数々



陳列棚の中の模型 精巧さを誇っていました






屋内の展示場から 外にでてみましょう

そこには 北海道の方々にご縁のある機関車が・・・



そうです

明治13年(1880年)幌内鉄道の 手宮~札幌間で活躍した「弁慶号」です



コンビの「義経号」とともに 幌内炭山の石炭を輸送しました

開拓使号客車を牽引したのも この「弁慶号」でした


2時間あまりの見学を終えて 外で一服

完全に 鉄道少年にタイムスリップしましたね

これは 私だけではなかったようです 

子どもたちの団体に混じって カメラ・オジサンの姿が多かったです

なつかしそうな 目をしてました



昭和26年当時の 資料写真 私もこんな少年時代でした


埼玉移転を前に もう一度 孫たちと来てみたくなったオヤジな私です 



                 <今日のグリコのオマケ>

ここでは 展示できませんでしたが ここは「交通博物館」です

鉄道以外に 航空 船舶 自動車も展示してあります

みなさま 懐かしの「自動車」をご観賞ください 





長い記事 読んでいただき感謝します

「宝石箱」 移転先にも追っかけます!
                                                   

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34 コメント

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スゴイ!!の一言。 (pochiko)
2006-02-25 00:31:40
オヤジさん こんばんは^^

早めにコメントをと思うのですが、昼間の間はなかなかPCに向かう時間がなくて遅い時間になってしまいます^^;

それにしても交通博物館、こんな素晴らしい博物館があるんですね。

とても一日では見る事が出来ないのではないかと思われるくらい数多くの種類の電車等々…。

埼玉の方へ移転してしまうのですね?

思い入れにある地から、なくなってしまうと言う事は寂しいですよね。

でも オヤジさん自身も書き込まれていますように、宝石箱の追っかけは続きそうです。

新しい宝石箱を見るのも楽しみにしています。
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懐かしいもの (ba-ba)
2006-02-25 01:40:07
子供の頃の懐かしいもの見せて頂いて嬉しいです。

私が就職した頃は、電気機関車が試走しているほどの広い工場敷地内で、三輪トラックや荷馬車も走っていました。

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想い出の場所 (ダイアナ・シールズ)
2006-02-25 02:16:46
幼稚園のサヨナラ遠足がここでした。親が同行しない最初の遠足だったのですが、当時持っていたリュックサック、今のようなファスナー式でなく、ポケットも上部の蓋もすべて紐で結ぶ方式でした。

「きちんと蝶結びができないと遠足にいけないからね」と言われて、その時一生懸命紐を結ぶのを練習したのでした。



その後も何回か行きましたが、時が止まったようにいつも同じ空気が漂っていた気がします。



閉館に伴い、旧万世橋駅遺構の見学ツアーもあるそうです。こちらも興味津々なのですが行けますかどうか…。
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宝石箱 (老春)
2006-02-25 06:14:54
鉄道マニアにとっては貴重な宝石箱、痛いほど心情が偲ばれます。

数々の鉄道写真みて、驚きばかりです。

子供が小さい時、汽車見せによく連れて行った記憶がよみがえってきました。
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宝石箱2 (チロリアンランプ)
2006-02-25 10:00:37
オヤジな私さん、こんにちは。

とっても楽しませてもらいました。

こんなにいっぱい展示されているんですね。

そして今回は数字が沢山出てきました。



>D51型は 戦後の復興の花形機関車です

>昭和11年から なんと1115輌製造されました

>実物の車輌は 主に東北地方を走り 昭和47年(1972年)引退しました



1115輌・・・いい数字です。和が「8」の無限大。

1972年引退・・・「いくな いくな」です。



私も昔、保育園から帰ってきた子供をつれ、

土曜日、お昼を済ませ、名古屋の科学館に

模型電車の動く時間に間に合うよう、

急いで出かけたことを思い出しました。

親子でのいい思い出です。

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懐かしい (nan)
2006-02-25 10:21:38
 私は事情があって旧中学は上京して池袋の学校にはいりました。友達と当時の鉄道博物館には何度か足を運びました。

 パノラマの中をトンネルを抜け、鉄橋を通り、対向列車とすれ違う。模型列車の運行に飽かず見とれたことを覚えています。

 「弁慶号」は懐かしい。先生の一人が坊主頭でこの機関車に似たような雰囲気があるところから、みんなで示し合わせ「弁慶」と渾名し、学内に広めた思い出があります。
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交通博物館 (いっこんま)
2006-02-25 10:33:55
テッパクのご案内ありがとうございました。

小さい子達の歓声が館内に響き、こちらまで聞こえてきましたよ。

オヤジな私様、宝石箱が移転されないうちに行かれて良かったですね。

今度は是非お孫さんと共に行ってください。H君も運転席からしばらくは離れないでしょうね。



D51といえば仙台には「D51合唱団」という男声合唱団がありましたし、夫の友人の呑み屋さんにも「D51」がありました。



新しい移転先、私の方からは近くなりますし、姪がいますので、連絡したいと思います。



見事な写真集からオヤジな私様の宝石箱への熱い想いがひしひしと伝わってきました。ありがとうございました。



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交通博物館 (totto200511)
2006-02-25 13:47:20
よく 仕事のおりに

万世橋の近くに 万世肉屋がありました。今でも。

そこで ハンバーグや 野菜炒めなどいただきました。

二階のお店から 交通博物館が 見えたようにも・・・

でも 一度も寄ったことがありませんでした。

ニュースでも 移動のことは 知ってはありましたが・・。

男の子は 汽車が大好きですよね。

そんな 少年で いらして 今もですね。



内部をたくさん 見せて頂きました。

お好きな方には たまらないでしょうね。



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久しぶりです。 (さっちゃん)
2006-02-25 15:14:10
PCを昼間開くの久しぶりです。

交通博物館、中に入ったこと有りませんでした。こんなに沢山展示してあるんですか。今孫の家族が横たわっています。埼玉に移転する前にぜひ連れて行くべきだと話しました。ちかじか上京するつもりです。行ってくるつもりです。我が家の菊ちゃん秋葉原駅にも勤務したことあるのですが1度も話したことありませんでした。
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交通博物館 (たぬき猫)
2006-02-25 21:23:54
 素晴らしい写真での交通博物館の紹介有難うございました。



 当時、黒い列車だけを見て育った田舎者には夢のような博物館ですね。



 1時間に1本通るかどうかの蒸気機関車は、機関士の姿は、子供の憧れでした。



 列車の通り過ぎた後のレールに耳を当てて、去って行く列車の音を追いつづけていました。



 また、友達と鉄橋の下に立って、通り過ぎる列車の音を聞こうとしていた時に、大人の人に、大声で直ぐに立ち退くように注意されたことがあった。

 後でそこが非常に不潔な場所であることがわかった。



 その頃、都会では色の付いた列車が走っていたのですね。



 懐かしい昔を思い出しています。
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