おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

ドラマの延長で

2024-07-21 11:10:43 | 日記
 井沢元彦さんの「逆説の日本史」第四巻を読み返している。というのも、扱っているのが平安時代で、NHKの大河ドラマ「光る君へ」の舞台となった頃のことが書いてあるからだ。なんたって「逆説の日本史」はすでに20巻を超え、時代はすでに現代になっている。平安時代の頃のことなんかすっかり忘れてしまっているのだ。

 で、久しぶりに読み返してみると、平安時代というのは日本人に最も人気がないとある。「日本人に歴史を教える『教科書』の役割を果たしているNHKの大河ドラマも、平安政治史を正面から取り上げたことは、ほとんど無いはずだ」と書いているくらいだから、僕が全然覚えていなくても不思議はない。

 で、読んでいると、大河ドラマに登場する人物たちが、当たり前だけど登場する。歴史上実在する人物たちだから当然のことながら、ドラマで見た後に読むと、少しは頭に入ってくるのである。

 すっかり忘れていたが、蒙古が襲来した元寇以前、平安時代中頃に、日本は16日間だけ異民族の侵略を受けている。「刀伊の入寇」という。中国女真族が金という国を作ったが、その後日本にもやって来たのだ。で、そのとき戦って追い返したのが太宰府管下の勇士の健闘によるものだったのだが、その最高責任者にいたのが藤原隆家である。「光る君へ」を観ている人なら、花山院に矢を放ったあの人物かとなるはずだ。

 さて、異民族から日本を守ったというので、当然のことながら恩賞を与えられたかと思いきや、都で開かれた陣の定め(ドラマではちょくちょく開かれる)では、大納言藤原公任、中納言藤原行成のふたりは賞を授ける必要はないとした。なぜこんなことになるのかというと、その頃の政治とは上手に歌が詠めることだったからであり、隆家のやったことは余計なことだったからである。

 日本は古くから言霊の国であり、言葉にしたことは実現してしまうと信じられている。だからむやみに口に出してはいけないことがある、口にすると本当に起こってしまうからだ。だから結婚式ではいまだに「分かれる」「切れる」は禁句だし、受験生の前で「落ちる」とも言えない。社長が飛行機に乗るときに、冗談でも「飛行機が落ちなければいいね」などと言おうものなら、不謹慎だと上司に怒られる。

 そういう国だったから、政(まつりごと)とは言挙げすることだったのである。だから、都で異民族を追い返そうとお偉いさんたちは必死に言挙げした。だから、藤原隆家のやったことは必要なかったこととされたのである。

 そこで「逆説の日本史」の作者伊沢さんは、今の日本の状況を解説する。それは、日本という国は、平和憲法という言挙げをすることによって異民族からの侵略を防げているのだから、自衛権を持つことは必要ないと考えるのは、平安時代の陣の定めと同じ判断をしていることになる、と。
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便利という不都合

2024-07-20 10:48:57 | 日記
 長い間人類は、生きるために過酷な生活を強いられてきた。そこで持ち前の知恵をフルに稼働させて、便利で安心な世の中を作り上げることに成功した。都市とはまさに自然界にある危機から遠ざかり、快適な暮らしが保証された縄張りとなった。

 とは言うものの、人間の知恵が万全であるわけではなく、理想だと思われたものには常にその裏側があった。例えば、プラスチックという素材は、発明された当時は腐らない、加工が簡単でなおかつ大量生産ができるということから、究極の素材と言われた。が、そのおかげで使い捨てによるゴミ問題、マイクロプラスチックによる人体への影響と、近頃は負の遺産としての顔を見せるようになってきた。夢のエネルギー原子力にしてもそうだし、石油石炭使用による産業革命も、地球自体を滅ぼしかねない状況を作り出している。

 そこで振り返って、そもそも便利や快適というものが、本来の人間に備わった性質に反しているのではないかという反省も生まれている。「不便益」という言葉がある。人間を生き物として考えるとき、便利さは生き物としての能力を削いでいるのではないかという。

 そもそも「便利」とは何か、ということから考え直さなければならなくなっているようだ。ただ企業や政府の掛け声に踊らされ、「便利」こそがこの世で最高の値打ちがあることに思わされているが、本当にそうなのかは誰も問わない。

 「便利」を辞書で調べると、「都合が良いもの、役立つもの」とある。が、今のご時世、「便利」とは何と考えてみると、結局は自分でやることを、人か物かシステムにやってもらうことを指しているというのが実情に近いようだ。かまどで炊いていたご飯を炊飯器で炊く。洗濯も洗濯機を使う。掃除もロボット掃除機にやらせる。自分で車を運転する代わりに運転手を雇う。家事が面倒なら家事代行にたのむ。簡単に言うなら、自分でやらなければならないことを、自分でやらないで済むようになることが「便利」なのである。

 しかしながら、それを行うにはどうしてもお金が必要になってくる。経済的に豊かなほど、「便利」を享受できる。そうして人は経済こそ幸福の指針になってしまったのである。

 最近は年寄りだけでなく、身の回りの世話をしてくれる家事代行を、若者も頼むようになっているという。掃除、洗濯、料理をやってもらっている間、自分はゲームをしたりドラマを見たりできるのだから、自由な時間が多く取れるからだ。そのくらい自分でやれと言いたいが、世間的にはそこに家事代行という産業が生まれるため、経済が回るという。

 そんなことをしているうちにお金を得るために他人の家の家事代行をし、自分の家のことは家事代行で稼いだ金で、他人に家事代行を頼むようになるんじゃないかと思う。冗談のようだが、実はこれが経済を回すということの本質だ。

 ある研究者が「速くできる、手が抜ける、思い通りにできるといったことは、いずれも生きものには合いません。生きるということは時間を紡ぐことであり、時間を飛ばすことはまったく無意味、むしろ生きることの否定になる」と言っている。「便利」「不便」で物事を考えることと、自分にとって利益になるか不利益になるかという立場で考えることは、全然次元の異なることなのである。
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心拍数を気にする

2024-07-19 12:42:02 | ランニング
 朝飯前の涼しいうちにと、1時間ほど芝刈りをしたら、自分でも信じられないくらい汗びっしょりになった。頑張って暑熱順化したつもりだったが、しばらく走らないうちにすっかり暑さに対応できなくなっているのである。

 これじゃあいかん、ナマクラな生活に喝を入れようと、朝食後はランニングに出かけることにした。30度を超えたら運動は控えるようになんてテレビで言っているが、そんなの無視無視。途中でぶっ倒れようと汗をかいてこなければ気が済まないのである。



 とは言うものの、ささすがに行倒れになってはカッコ悪い。心拍計を胸に巻き、腕時計で数値を確認しながら走る。僕の場合、普段の心拍数は1分間に60回程度。激しい運動で心拍数が上がった場合は上限が160あたりだ。それ以上上がると心臓に負担がかかるが、実際走ってみると、160では収まらず、170くらいまで上がることもある。が、そのときはかなり急坂を上るようなしんどいときである。



 ところが、今日に限って言うなら、猛暑のせいだろうか、走り始めた途端すでに160を超えてきた。歩いてみてもなかなか140以下に下がらない。暑いというだけで、心拍数は上がってしまうということなのだろう。そういえば、暑いとゼエゼエ言うもんな。

 それでも頑張って海まで走ってみた。心拍数は経験したことがない180超えである。大丈夫か、僕の心臓。



 海に出ると日陰がないので、水分補給とともにウオーキングに切り替えてのんびり海辺を散策する。今日のところは目的が暑熱順化なので、シビアなランニングをするつもりはない。痛めたふくらはぎの状態も見てみたいし、ここからは歩いたり走ったりで体の様子を見る。



 2時間走り回って帰ってくると、距離は15キロしかなかった。後半はほとんど歩いていたから仕方がない。これから徐々に負荷をかけて、体をいじめていくことにしよう。
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二か月違う

2024-07-18 12:21:06 | 旅行
 朝からシャワシャワシャワシャワと、クマゼミの大合唱で起こされる。明け方は涼しい東北と違って、九州は朝からというより夜通し暑いのだ。気をつけないと寝ている間に熱中症になりそうなのである。

 体感温度も違うが、日の出日の入り時間もずいぶん違う。大分に到着したのが夕方だったが、その日午後七時半になっても外はまだ明るい。その代わり朝は五時半くらいからしか明るくならない。福島だと日の入りが六時半、夜明けが四時半くらいの感じだから、1時間くらいはずれているだろうか。もっとも時刻に関しては、日本の場合明石を標準時にしているから、明石の時間を日本中で共有しているというのが実情だろう。アメリカ、中国なんかの広い国では標準時がいくつもある。アメリカ東海岸が昼でも西海岸は朝を迎えたところだったりする。日本人には共通の時刻はひとつというのが当たり前だから、想像するのは難しい。全米を相手にする仕事はどうしてんだろうと思う。

 日本の場合は縦に長いということもあって時差に関してはあまり気にしなくていいが、その分高い山のふもとと山頂くらいの違いはある。



 昨日、自転車で買い物に行くのに農道を走ったら、まだ田植えが終わったばかりでビックリした。福島ではゴールデンウイークあたりで田植えをするのが普通だからだ。





 目に見える景色の感じでいうと、これだと二か月ばかり逆戻りしたようだ。この辺は梅雨前まで麦畑が広がり、梅雨入り後に田植えになる。で、今が田植えが終わったばかりの風景になる。

 天気予報では、大分県は今日は雨だが、明日あたりには梅雨明けするようである。ここ2週間、右ふくらはぎの靭帯を痛めていたので運動は控えていたが、痛みもなくなったので、明日は晴れたら海までランニングをしようかと思っている。暑熱順化を済ませていたつもりだったが、少しサボっただけですっかりもとのナマクラな体になっているのである。
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熱帯夜の洗礼

2024-07-17 11:08:23 | 日記
 昨日一日かけて、福島県から大分県まで新幹線で移動した。三連休を外したので、新幹線の指定席は余裕で取れたが、最近の傾向として車両内の大半が外国人が占めていた。海外からのお客さんは日本経済にとってはありがたいのかもしれないが、宿泊施設やチケットが取りづらい状況というのは、直接観光客と関わりを持たない身には面倒なところもある。僕のようになるべくお金をかけたくないと思っている旅人は、リッチな外国人には太刀打ちできないのである。

 毎回、移動の際には東京駅で駅弁を買うのを楽しみにしている。缶ビールを一緒に買い、弁当をつまみに車窓の景色を眺めながらゆっくり食事をするのは旅気分を引き立ててくれる。が、東京駅での混雑がハンパない。お昼時の駅弁売り場には、長い長い行列ができている。僕の乗り換え時間はいつも20分ほどしかないので、長い行列に並ぶと乗り遅れそうでかなり心配だ。

 以前は商品棚を物色して駅弁を選んでいたが、今はホームにある駅弁のお店でとにかく手に取ったものをレジに持っていく。選んでいる暇なんてない。今回は外国人のカップルの間から手を伸ばしゲットしたのは、牛肉のしぐれ煮と明太の弁当だった。ああ、魚介が良かったなあ。

 そんなこんなで約10時間近くの移動を経て、大分に到着した。ただ座っているだけなのに、けっこう疲れる。さっさと寝るに限ると横になったが、あまりの暑さに窓を開け、扇風機を回してなんとか寝ることができた。まだ体が熱帯夜に対応していないのである。

 朝は白々し始めたと思った途端、クマゼミの大合唱が始まった。シャワシャワシャワシャワと暑苦しいことこの上ない。う〜、寝不足だなあ。でも、起きたところでテオの散歩があるわけじゃなし、ただただ暑さを我慢して二度寝するアベさんなのであった。
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梅雨明け間近

2024-07-16 04:52:34 | 福島
 今日は一日、もしかしたらブログを書く時間が取れないかもしれないので、朝の早い時間にアップしておく。日記のつもりで書いているので、1日でも抜けると、その日は何にもしていない気がして、なんとなく気持ちが悪いのだ。

 で、昨日の午後は降り続いていた雨がようやく上がったので、テオを連れて久しぶりの長い散歩に出かけた。最近の午後の散歩は、天気のいい日は暑すぎてアスファルトが焼けてテオを長くは歩かせられないし、雨だとのんびり歩くのが難しくなる。昨日は幸いにして雨上がりで晴れ間はのぞいているものの、太陽は顔を見せず涼しい風が吹いている。早速カメラを持って出かけることにした。

 家を出ると、すぐにセミの大合唱に包まれた。ずっと雨音ばかり聞かされていたので、思わず「夏だなあ」と聴覚で実感する。



 我が家の庭先のヒマワリはまだ蕾だが、あちこちで大輪の花が咲いている。草刈りをしてそんなに時間は経っていないのに、クズやアレチウリが空き地という空き地を覆っている。ものすごい繁殖力なのだ。



 住宅地を離れ、里山へ続く道を歩いていると、足元に丸っこい昆虫がいた。こんなところにいては車に轢かれちゃうぞ。





 カブトムシのメスだろうか、それともクワガタのメスだろうか。子供の頃は昆虫に詳しかったが、この歳になると「虫」と一括りにした知識しかなくなる。

 雑木林の中で、ヒッソリとヤマユリが咲いている。独特の匂いを発しているので、匂いで気がつくこともある。



 雑木林を抜けると、牛のための牧草を育てている畑に出る。視界が開けると気分も明るくなるから不思議。



 それにしても考えていることはみんな同じなのか、雨上がりの貴重な時間を利用してせっせとウオーキングしている人に出会う。普段顔を合わせる人ばかりだから、あちこちで挨拶し、「今日は気持ちいいですね〜」などと会話する。

 と、むこうから久しぶりにテオの友だちのゴローちゃんが飼い主さんと歩いてきた。ウオーキングするのは人間ばかりではない。



 「よっ、元気だったかい」とお互いの近況を話しているのだろうか。ちなみにテオのほうがゴローチャンより一年ほど先輩だ。
 
 「ゴローちゃん、相変わらず可愛いね」と声をかけると顔を上げ、クリクリした目でカメラレンズをのぞき込んだ。

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物価高に逆らう

2024-07-15 12:08:19 | 日記
 世間では、給料が上がる以上に物価が上がり、実質賃金は下がっているとニュースになっている。ということなら、物価高だからと諦めていても仕方がない。どこまでも物価高に逆らうことを楽しむようにするのが、ストレスを溜めずに楽しく暮らすコツだとも言えるだろう。

 電気代が高いから、エアコンを我慢するという人もいるが、我が家では自宅をリフォームするときに、間仕切りも鴨居も撤去して、3部屋をひと部屋にしてしまった。8畳、6畳、10畳がひと間になったので、24畳の巨大な部屋が出現した。こんなに広くては落ち着かないよとタミちゃんは言っていたが、慣れてしまえばこの広さがなければ狭苦しくて息が詰まる。

 部屋が広いとエアコン代が大変だと考えるかもしれないが、これだけ広いと両側の窓を開けていると、裏の雑木林で冷やされた気持ちのいい風が通り抜け、酷暑日でもないかぎりエアコンは必要ない。我が家を訪れる人は、我が家に入ってくるなり、「涼しい〜」とビックリする。「うちは風が通らないから暑くって」と言う。

 冬は間仕切りのアコーデオンカーテンをつけたので、ファンヒーターがあれば十分暖かい。エアコンは極端に暑がり寒がりのお客さん用なのである。

 食べ物に関しても、畑や庭でいろいろ収穫できるので、食費は調味料や肉魚のほかはほとんどかからなくなった。昨夜は我が家の畑で採れたキュウリ、庭に生えている青ジソを使って手巻き寿司にし、収穫したジャガイモ、タマネギ、キュウリでポテトサラダを添えた。お昼にはナスや万願寺とうがらし、タマネギ、豆などを使い、坦々麺風トムヤンクン味噌ラーメンを作った。

 ラーメンも今はカップラーメンも袋麺も買ってくることがなくなった。乾麺のラーメンを買っておけば、冷やし中華やラーメンを気分次第でいろいろ作ることができるからだ。タミちゃんがラーメンの乾麺を買い占めていると、お店の人から「それ、スープが入っていませんよ」と注意された。「スープは作るんですよ。冷やし中華も簡単にできるし」と応えると「そうなんですか」と驚かれたという。

 物価が高いからと渋々受け入れるのではなく、高いなら別の手段を考える。ないなら自分の手で作る。あとは創意工夫でいろいろと得るものが増えて行く。この世で何が楽しいって、それまでできなかったことができるようになることではないだろうかと、最近はそう思うようになっているアベさんなのである。
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年老いる球技大会

2024-07-14 12:05:19 | 福島
 今年は地区の世話役のひとりになっているので、今まで関係なかった行事のことにも関係しなければならない。で、引き受けた時から気になっていた地区の球技大会が始まるので、その準備にも関わっていかなければならないのだが、まず参加する人がまったくいないというところから始まる。

 というのも、競技種目はゲートボール、グラウンドゴルフは年寄りでもできるが、そのほかにもソフトボール、バレーボールがある。前者二種目については、地区の住民が高齢化するのに合わせ新たに追加した競技だろうが、ソフトボール、バレーボールは昭和の頃の競技種目だろうと想像できる。誰もが草野球をやっていた時代、東京オリンピックで火がついたバレーボールブームは遥か昔のことなのだ。その頃に盛んに行われたのがソフトボール、バレーボールで、子供だった僕にもその記憶はある。男はソフトボール、女はバレーボールと球技大会といえば、それがメインだったのである。

 が、時代は流れ、地区の競技大会に参加するのもみんな年寄りになってしまった。となると、ソフトボール、バレーボールはハードルが高い。走れないし、滑り込めないし、ボールが当たったら骨折しそうだしで、年々参加者は減る一方である。実際今年のわが地区からの参加は、ソフトボール3名、バレーボールはいないのが現実だ。

 こうなっても、競技種目を変更しようとしないのはどういうことなのかというと、そもそも地区の球技大会自体が年寄りをメインに企画しているわけではなく、地区対抗の球技大会であるため、若い人から年配の人までの参加がモットーだからである。

 そんなわけで、結局毎年ソフトボールに参加する人は同じ顔ぶれ、ゲートボールも同じ顔ぶれ、グラウンドゴルフも同じ顔ぶれ、新顔はいないし、年を追ってできるメンバーが減っているのである。

 こんなことならいっそのこと球技大会という名称を変え、ゲーム大会とでもしたらいいんじゃないかと思う。年配の人間でも簡単にできるモロックだとかボッチャだとか、障がい者にも門戸を広げると良い。年齢も性別も障がいも関係ない大会こそ、これからの時代求められているように思うが、そういう提案はなかなか通らない。毎年大会後には反省会という名の飲み会が催され、来年はどうするかというような話はまるっきり出てこないのである。まったく今の日本の政治の縮図そのものなのである。
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新しい民主主義

2024-07-13 12:42:17 | 日記
 とんだ茶番劇だった都知事選が終わった。福島に住む僕には選挙権がないから、ただその推移を見ていただけだが、今までの選挙制度がいかに古臭くなっているかを痛感させられる選挙だったのではないだろうか。

 もし投票するとしたら誰にするかなと、投票権もないのに考えていたら、立候補者の中に安野貴博という面白い人がいるのを知った。テレビでは小池さん、蓮舫さん、石丸さん、田母神さんの4人しか画面に映らない。選挙は公平でないといけないと言いながら、56人もいる立候補者の中で4人だけが特別扱いのように見える。これではテレビや新聞でしか情報を得ることが少ない高齢者には選択肢が少なすぎるのである。

 で、安野貴博さんがどういう人かまったく知らなかったのだが、台湾の天才IT大臣と言われたオードリー・タン氏が安野さんを支持しているということを知ったのが、興味を持つきっかけだった。オードリー・タン氏と言えば、新型コロナで大騒ぎしていた世界の中で、いち早くコロナ対策のアプリを開発し、台湾の感染を抑えた天才である。日本でも遅ればせながらとコロナ対策のアプリ、ココアを開発したが、まったく役に立たず、巨額の開発費が無駄になったのと対照的だった。

 安野さんもエンジニアであり、政治経験はないものの、学生の時から次々に新しいアプリを作っていた。今回の都知事選では、「参加型マニュフェスト」を作成し、一般の人たちでマニュフェストを作り上げるということをしている。他の候補者がほとんどマニュフェストを作らなかった中、安野さんの参加型マニュフェストは、130ページにもなった。そういうこともあり、テレビで取り上げられることはほとんどなかったにも関わらず、都知事選では5番目の票を得たのである。

 「参加型マニュフェスト」。これはどういうものかというと、僕の理解ではネットの百科事典ウィキペディアみたいなものだろうと想像している。ウィキペディアが、一部の学者が作る百科事典ではなく、誰でもがアクセスできる百科事典上で、それぞれが訂正と追加を繰り返し作り上げていくというものだ。これだと、可能な限りたくさんの人の目が入るので、それだけ間違いや勘違いが少なくなる。専門外の人でも書き込めるので、別の方面からも解説できるのである。

 パソコンのOSも、以前はWindowsかMacしかなかった時代に、LinuxというオープンソースのOSが登場した。これはネット上で公開されたプログラムに誰でも手を入れてより良いものに改良していけるというOSだ。従ってマイクロソフトやアップルのように使うのにお金がかからない無料のOSで、愛好家も多かった。

 民主主義というのは、本来誰でもが平等に参加できる政治制度のはずである。が、最近民主主義の劣化が言われるようになったのは、力のあるもの、富のあるもの、既得権を持っているものなど、一部の人たちにより動いているからである。今のようなまず政治家を選挙で選び、その政治家が政治を行うという制度では、政治家が応援してくれる人たちに恩恵を与えてしまうからである。

 将来はAIの進歩により、デジタル民主主義が今の政治にとって変わらなければならないと言われている。それは一部の人たちの占有物となった政治を、すべての人に平等に参加させるための技術だからである。

 が、今のところはネットを駆使できる人と、ネットはわかりませんという人の間に格差が生じてしまうため、将来的には誰でも簡単にアクセスして利用できる仕組みが必要になる。「デジタル民主主義」が進めば、AIが僕らに対して、さまざまな意見を汲み上げた上で、「こんな政策はいかがでしょうか」と提案してくるようになるだろう。
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名前が違う

2024-07-12 12:10:41 | 日記
 アメリカにウクライナのゼレンスキー大統領が訪れている。バイデンさんが国際会議の席上で、ゼレンスキー大統領のことをよりによって「プーチン大統領」と呼んだ。それだけならただの言い間違いと言えなくもないが、今度は副大統領のハリスさんのことを、トランプ副大統領と呼んだ。こうなってくるとただの言い間違いというには無理があるように見える。

 バイデンさんは自分のことを認知症ではないと言い切る。そういうことを言われること自体、怒り心頭である。が、これって高齢者に運転免許の返納を勧めると、「まだまだ大丈夫」とかえって返納に対して頑なになるのに似ているとしか思えない。頑固になっていること自体が、ずいぶん脳みそが硬くなっているなあと思ってしまうのである。

 アメリカという国は、スティーブ・ジョブズ(アップル)だとかビル・ゲイツ(マイクロソフト)だとかマーク・ザッカーバーグ(フェイスブック)だとかジェフ・ベゾス(アマゾン)だとかイーロン・マスク(スペースX、テスラ)といった世界を大きく変えた人たちが数多く輩出している。それも若くして、だ。

 それなのに、大統領となるとすでに1度大統領になり、散々批判されたトランプ氏と、高齢で体調も怪しいバイデン氏の一騎打ちだというのだから、不思議で仕方がない。こうなると、政治という世界がすでに現代にふさわしくない制度で、若い人たちにとって政治家を目指すというのは、魅力がないものになっているのだろうか。かつては世界を動かしたアメリカ大統領より、新しい産業を生み出すグローバル企業を作ることが、直接的に世界を動かすことになるということなのだろう。

 名前の言い間違いということで言えば、我が家のテオくんは、なかなか正確に名前を呼んでもらえない。テオというのは一般的な名前だと思うが、日本人には馴染みがないのだろうか。犬の名前としては珍しいのだろう。一番多いのは「レオ」くんだ。いくらこちらが「テオです」と訂正しても、一度レオくんになってしまうと、レオくんと呼ばれ続けてしまうのだ。

 「テオ」を「レオ」と間違うのは理解できる。犬につける名前としてはいつだってベストテンに入っているからだ。珍しいのは、「テオ」ではなく「テロ」と呼ぶ人がいる。そんなやばい名前をつけるわけがないじゃないか。また「テト」くんと呼んでくれる人もいる。相当呼びにくいと思うが、いくらこちらが「テオ、テオ」と目の前で呼んでも、訂正してくれない。一度脳みそに入った名前を訂正するのは、ほとんど不可能だと最近はあきらめているのであった。
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