毎日少しずつ小林秀雄の「本居宣長」を読んでいる。NHKの大河ドラマで紫式部を主人公にしてやっているので、難しいながらなんとか読んでしまおうと奮闘している。というのも、本居宣長という人は、源氏物語を徹底的に読み、「もののあはれ」が日本人にとって最も大切なものであることを唱えていたからである。
で、今朝読んだところでは、こういう文章に出くわした。
「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、赤染衛門の歌(後拾遺和歌集)にあるのが初見といふ事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。
「源氏」とは紫式部が執筆した「源氏物語」のことだし、赤染衛門も大河ドラマの中で重要な役柄として登場している女流歌人である。
「やまと魂」「やまと心」という言葉が日本人の中から消えてしまったというのは、不思議な気がする。というのも、江戸時代から昭和にかけて、猛々しく勇猛果敢な男らしさに「やまと魂」という言葉が突如使われるようになるからである。どうやらこれは「武士道」と結びついた誤用だったようで、新渡戸稲造などが国策として戦意を高揚させるために言い始めたんじゃないかと思う。
では、そもそも紫式部や赤染衛門はどういう意味合いで使っていたかというと、「源氏物語」の中ではこういうふうに使われている。「なお、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強うは侍らめ(学問という土台があってこそ、大和魂を強く働かすこともできる)」と言い、学んで得た知識を、どう働かすかという知恵のことを指しているのである。
また赤染衛門の場合は、当時の偉い学者が乳母を雇うことになった時に、「知識もないのに博士の家の乳母をやるとは」と乳母になる女性を馬鹿にしたところ、赤染衛門は「知識がなくても大和心さえあれば一向に差し支えないではないか」と反論するのである。
当時の日本で先進国というのは中国であった。インテリは皆中国語を身につけ、漢文や漢詩を勉強した。それが出世への道だったが、これは明治以降欧米の文化やイデオロギーを輸入するために日本のインテリが英語やドイツ語、フランス語を身につけていたのと似ている。理想も真似すべき文化も欧米にあり、とにかく追いつけ追い越せと頑張った。平安時代にも同じことが起こっていて、中国をそのまま日本に持ち込むのに学者や政治家は奮闘していたのである。
それを横目に見て、大事なのはどうすればうまく生きることができるかという知恵であると、女性たちは考えた。それが平安時代の女流文学の流行へと繋がっていくのである。ただただ中国の思想を追いかけていた男たちは、「源氏物語」という世界最初の小説を書くような能力を欠いていた。現代でも、カタカナ語を多用し、何を言っているのかちっともわからないインテリが存在するが、平安時代にも同じようにいたのであった。
で、今朝読んだところでは、こういう文章に出くわした。
「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、赤染衛門の歌(後拾遺和歌集)にあるのが初見といふ事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。
「源氏」とは紫式部が執筆した「源氏物語」のことだし、赤染衛門も大河ドラマの中で重要な役柄として登場している女流歌人である。
「やまと魂」「やまと心」という言葉が日本人の中から消えてしまったというのは、不思議な気がする。というのも、江戸時代から昭和にかけて、猛々しく勇猛果敢な男らしさに「やまと魂」という言葉が突如使われるようになるからである。どうやらこれは「武士道」と結びついた誤用だったようで、新渡戸稲造などが国策として戦意を高揚させるために言い始めたんじゃないかと思う。
では、そもそも紫式部や赤染衛門はどういう意味合いで使っていたかというと、「源氏物語」の中ではこういうふうに使われている。「なお、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強うは侍らめ(学問という土台があってこそ、大和魂を強く働かすこともできる)」と言い、学んで得た知識を、どう働かすかという知恵のことを指しているのである。
また赤染衛門の場合は、当時の偉い学者が乳母を雇うことになった時に、「知識もないのに博士の家の乳母をやるとは」と乳母になる女性を馬鹿にしたところ、赤染衛門は「知識がなくても大和心さえあれば一向に差し支えないではないか」と反論するのである。
当時の日本で先進国というのは中国であった。インテリは皆中国語を身につけ、漢文や漢詩を勉強した。それが出世への道だったが、これは明治以降欧米の文化やイデオロギーを輸入するために日本のインテリが英語やドイツ語、フランス語を身につけていたのと似ている。理想も真似すべき文化も欧米にあり、とにかく追いつけ追い越せと頑張った。平安時代にも同じことが起こっていて、中国をそのまま日本に持ち込むのに学者や政治家は奮闘していたのである。
それを横目に見て、大事なのはどうすればうまく生きることができるかという知恵であると、女性たちは考えた。それが平安時代の女流文学の流行へと繋がっていくのである。ただただ中国の思想を追いかけていた男たちは、「源氏物語」という世界最初の小説を書くような能力を欠いていた。現代でも、カタカナ語を多用し、何を言っているのかちっともわからないインテリが存在するが、平安時代にも同じようにいたのであった。
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