ロシアがおこした「青天の霹靂」ウクライナ戦争への国連非難決議にさえ、賛成141カ国に対して、反対、棄権、無投票が52カ国もあった。賛成141カ国の中には、英日仏など嘘の理由で開戦されたイラク戦争「正義の勇往邁進」「戦争史上最大の大軍事連合」(当時のラムズフェルト国防長官の声明)に突入した参戦有志国も多い。これらの国のウクライナ戦争非難も正しいものだが、どの口でウクライナ非難を叫んでいるのかとは言えるだろう。こんな今こそ改めて戦争というものを考えてみるべき時だろう。去年の10月30日エントリー『右流「戦争論」「国防論」はこう誤っている』に、こんなまとめを書いた。
『戦争論、国防論を巡る、右翼論調の誤り、盲点について述べてきたことを改めてもう一度まとめておきたい。
① 人間に、戦争を起こす生来の気質、闘争本能のようなものはない。ましてや、この類の議論で国家の戦争を説明するどんなやり方も学問的誤りとして退けられている。ちなみに、右流戦争論は、無意識のこれも含めてこんな「闘争本能戦争論」を前提としていることが多いものだ。そういう「戦争思考における無意識の前提」をなくすことが、戦争論の第1の関門だと思う。
② この①によって、戦争を考えるべき対象のすべては「 戦争をめぐる人類史だけ」となる。戦争論とはこうして、人類の戦争史からはみ出す論議になってはならないということだ。そこでは、一例「サピエンス全史」(ユバル・ノア・ハラリ著)が明らかにしたように、民族国家や大統一国家の警察権や監獄が現れて来るにつれて、内乱や戦争は少なくなくなってきた。そして20世紀には、二度の国家総力戦の惨劇を反省して、人類史上初めて反戦国際組織も生まれている。これは、18世紀以来の「人の命は平等に大切である」という感じ方考え方の発展とともに生まれてきたものだ。近代統一諸国家の国家警察権が国家内乱防止に繋がったように、国連警察軍に戦争廃止が期待できる人類史時代がやっと始まったと言える。
③ なお、「戦争はしないけど、戦争抑止力として軍隊は必要だ」との議論にも触れてみよう。この手の論者にはある共通性がある。②をほとんど語らず、無意識のこれも含めて①の「闘争本能戦争論」を抱いている人が結構多いものだ。これは人類のありうる未来に向かった議論としては、国家警察を語らず、各県警察だけを語っているようなもの。徳川幕府の国家統一、警察権の統一が、日本300年の平和とその平和による世界先進とも言える繁栄をもたらしたことを日本人はよく知っているはずなのだが。
④ ちなみに、冷戦終結以降の歴史的現在において国連を無視することが急に多くなったアメリカが、世界平和に関わっては国連警察軍一本で行くと決めたら、世界はすぐにそうなるだろう。そうならないのは、この世界で今のアメリカこそがもっとも戦争放棄を避けたいからではないのか。これは、アフガン、イラクへの開戦、ベネズエラやイランへの戦争脅迫などが示してきた通りである。平和憲法を持つ日本は、そんなアメリカとともに国防を図るのではなく、国連(警察軍強化)とともに図る道を求めていくべきではないか。』
さて、この上の諸点について中国はどうなのか。明らかに、こう語っている。「戦争はなくせる」「そのためには、常駐の国連警察部隊を、特に今は、アフリカに常備部隊を創るべきではないかと提案したい」などと。これについて2015年9月30日の当ブログ、拙エントリーで習近平が国連演説・提案をしたというニュースをこう報告した。
【 習近平・中国国家主席が国連で世界政治に関わって以下の提案をした。「中国は永遠に覇権を求めない」という説明を付けての提案だった。
①10年間で10億ドル(約1200億円)規模の「(国連)平和発展基金」を創設
②『中国が国連の新しい平和維持活動(PKO)即応体制に加わり、常駐の警察部隊と8000人規模の待機部隊の立ち上げを主導する』
③今後5年間でアフリカ連合に総額1億ドルの無償軍事支援を行い、アフリカの常備軍と危機対処部隊の設立を支持する
(後略) 】
さて、この状況なら上記拙稿④のとおりに、アメリカさえ国連警察軍に合流すると決めれば、日独も賛成しようからすぐに国連警察が各国を結集した大部隊にできる。こうして、人類悲願の「戦争絶滅」、「各国軍隊放棄」は意外とすぐ目の前にあると僕は思うのだが、なんで今、「日本軍をGDPの2%まで大きくする」などとというニュースが、流れ出てくるのか。しかも、この相手、つまり「GDP2%」目指した日本軍の仮想敵として、こういう提案をしている中国がどんどんクローズアップされている。中国のこの提案は日本ではほとんど報道されていない。対して、聞こえてくるのは、明らかに中国を念頭に置いた「敵基地・先制・攻撃論」だけ。僕には、アメリカサイドのニュースだけに日本マスコミが工作され続けてきたとしか思えない。