3 太平洋戦争の二つ目の性格、日米同罪論に対して(その2)
ここでまとめるのはこういうことだ。
『「日米同罪論」あるいは自衛戦争論の第3の問題点は、それが日本が戦った戦争の国際法上の違法性を無視ないし軽視していることである』
この違法性は、まずこのように展開されていく。
戦争に関わる当時の国際法には、第1次世界大戦の痛切な反省が色濃く反映されている。まず第1は、戦争の違法化の論議が起こり、あい次いで植民地における民族運動の高揚、民族自決原理の台頭があった。たいして満州事変以降の日本は、22年に中国関連で日本も加わって結ばれた9カ国条約への違反を重ねており、これを事実上棚上げしていたと言える。この条約は当時の戦争違法化、民族自決権を盛り込んだアジア・中国版とも言える国際法であったのに。先回に見たハル・ノートもこの9カ国条約を基としているが、日本軍は正にこの条約内容においてこそ、ノートに反発していたのだ。
『 参謀本部戦争指導班の11月27日付の業務日誌は、ハル・ノートの対日要求の中に「4原則の無条件承認」が含まれていることにも言及しながら、「米の回答全く高圧的なり。而も意図極めて明確、9カ国条約の再確認是なり」と記しているし(軍事史学会編『機密戦争日誌(上)』) 』
つまり、当時の日本軍部は自らも参加した9カ国条約を守る意思など無かったということだ。
次いで、こう語り進められる。
『同時に、開戦にともなってさまざまな国際法上の違法行為が発生したことも忘れてはならない』
『よく知られているのは、真珠湾への奇襲攻撃である』。開始8日午前3時19分、対米覚書手交4時20分というものだ。この点については従来から、こういう説があった。対米覚書の日本大使館における暗号解読が遅れたとされてきたのだ。これにたいする本書の解明はこうなっている。
『外務省本省は13部に分かれた覚書の最終結論部分の発電をぎりぎりまで遅らせただけでなく、それを「大至急」または「至急」の指定をすることなしに、「普通電」として発電していたことがわかってきた』
もう一つの違法性はイギリス、オランダに対するもので、イギリスに対してはこう展開されている。
『日米間の場合には、事前の外交交渉が存在し、戦争開始後とはいえ交渉打ち切りの通告がともかくもなされた。しかし、日英戦争の場合には、外交交渉も最後通牒もないままに、真珠湾攻撃の1時間ほど前に、いきなりマレー半島への強襲上陸を開始しているのだから、国際法上の違法性はこちらの方がきわだっている』
オランダに対しては、このイギリスよりもさらに酷く、こうまとめられている。
『イギリスに対しては、真珠湾攻撃後に発表された天皇による宣戦の詔勅の中で(宣戦布告がなされているとも言えるが)、オランダに対しては宣戦布告をせず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを「無疵で手に入れたいという意見」が強かったからである』
こうして著者は、まとめる。
『日本政府は宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかったといえよう』
4 太平洋戦争の三つ目の性格 「アジアのため」?
右翼は、大東亜戦争という言葉が好きです。「大東亜共栄圏」とも語るように、白人の横暴からアジアを守る闘いだったと言いたいわけです。著者はこういう主張をいくつかの点から批判していきます。
最初は、この戦争に際してマスコミなどを「白人対アジア人とは、語るな」と統制していたことをあげています。独伊がお仲間だったからです。また、フランスに対独協力派ヴィシー政権が誕生すると、40年8月にはこんな協定を結んでいます。
『フランスが極東における日本の優越的地位を認め仏印への日本軍の進駐を容認する、それと引き換えに、日本は仏印全土に対するフランスの主権を尊重する』
「白人の仏印全土への主権」を、日本はいつまで認める積もりだったのでしょう? 作者はこんな事を語って見せます。
『このことは、インドシナ地域の民族運動の側から見れば、日本とフランスは共犯関係にあることを意味する』
それどころか、そもそも開戦理由などは後付けであったと、その経過を著者は明らかにしていきます。
・『41年11月2日、昭和天皇は東条首相に、戦争の「大義名分を如何に考うるや」と下問しているが、東条の奉答は、「目下研究中でありまして何れ奏上致します」というものだった』
・宣戦の詔勅では、「自存自衛の為」と、述べられています。
・12月8日開戦後、7時30分のラジオでは、情報局次長によって、こういう放送がされたということです。
『アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪い返すのであります』
・このラジオ放送には、こんなおまけが付いています。この概容を掲載した翌日の朝日新聞では、「白人」という言葉はどこにも見当たりません。かわりにあるのが、「アングロサクソンの利己的支配」。すり替わった理由は、上に述べた通りです。
・12月10日に「大東亜戦争」という呼称を、大本営政府連絡会議で決定。次いで12日に「大東亜戦争」の意味を説明して「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」と宣言されました。この「新秩序建設」は、後で述べる11月5日の御前会議決定にも出てきます。
日本利権と軍事優先ですべてが決定され、理由は後からくっつけたということは、明らかでしょう。このことは、41年10月18日に近衛文麿内閣が総辞職して東条英機内閣が成立したその事情にも、示されています。近衛内閣は、41年4月から始まった日米交渉において、アメリカの最大要求であった『日本軍の中国からの撤兵』を『何らかの形で撤兵を実現することによって交渉の決裂を回避しようとし』ていました。これが軍部に拒否されて近衛内閣は総辞職し、以降2ヶ月弱で日英・日米戦争に勇往邁進していったわけです。関連して、開戦決定御前会議は従来言われていたような12月1日ではなく、11月5日だったと著者は述べています。なお、この5日の御前会議の存在は、東京裁判の当初の段階では米軍に知らされていなかったということです。ハルノートとの関係、「日米同罪論」との関係で秘密にしておいた方が都合良かったと、著者は解明していました。
(あと2回ほど続けます)