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随筆 ある交流  文科系 

2021年08月11日 07時46分12秒 | 文芸作品
 
 夜の病室にもの音は希だが、川音が間断なく聞こえてくる。二県にまたがる大川が窓の向こうにあるのだ。そして、僕の右手はベッドに横たわった母の右手を握っているのだけれど、そこでは母の指がとんとんと動いている。
 死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかわず天に聞こゆる
 誰の作だったか、高校の授業で覚えたこの歌を、このごろよく思い出す。

 左脳内出血が招いた三途の川から戻ってきて、五年近い。「感覚性全失語症」の他はなんとか自立できたと皆で喜んだのも、今振り返ると束の間のこと。一年ちょっと前、思いもしなかった後遺症、喉の神経障害から食物が摂れず、人工栄養に切り替えるしかなくなった。食べさせようとして何度も嚥下性肺炎を起こした末のことである。人工栄養になってからも、唾液が入り込んで肺炎を招くことも度々で、すでに「寝た切り」が四か月。お得意の「晴れ晴れとした微笑」も、ほとんど見られなくなった。九十二歳、もう起き上がるのは難しそうだ。言葉も文字もなくなったので記憶力はひどいが、いわゆる痴呆ではない。痴呆でないのは訪問する僕らには幸いだが、本人にはどうなのだろうか。
 一日置き以上でせっせと通って、ベッドサイドに座り、このごろはいつも右手を握り続ける。これは、東京から来る妹の仕草を取り入れたものだが、「頑張って欲しいよ」というボディランゲージのつもりだ。本を読んでいる今現在、母の指の応答は、こんな意味だろう。「いつもありがとね。今日ももうちょっと居てね」。柔らかい顔をしている。

 僕は中編に近い小説九つを年一つずつ同人誌に書いてきた。うち四つは母が主人公だ。発病前から、母を、老いというものを、見つめ、描いてきた。寝室もベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこう描くのは母の本望であると信じてきた。現に脳内出血までの母は、僕らの同人誌の最も熱心な読者でもあったし。僕の作品だけでなく、同人全ての作品を舐めるように読んでいた。日常の会話の端々に同人の名前などがふっと出て来たりしたから、気付いたことだ。

 看護婦さんが入ってきて、こんなことを告げる。
「不思議なんですが、手や指だけをいつも動かしておられるんですよ。ベッドの柵を右手で握っておられる時もなんです。右側に麻痺がある方でしょう?」
 僕や妹の指の感触でも思い出し、温めているのかも知れない。〈母にもまだできることがあった。僕らが通い続ける限り、生きようとしてくれるのだろうか〉
 こんな時いつも、発病前の母がNHKなどによく投書していた俳句二作などをよく思い出したものだ。
 思い出の 子連れ教師や 秋深し
 子等は皆 我が命なり 冬ぬくし
 

 (同人誌に2003年1月初出)
 
コメント
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