シンという人とずっと討論してきて、1人の熱烈な右論者の日本政治論議の出発点、その公理のようなものを、大変苦労しつつやっと掴めたように思う。それを以下にご披露してみたい。普通の政治論議とは全く違うものであって、彼はこれでもって日本国憲法とその国民主権を一種「否定」しているし、そういう公理を証明するような形の日本史観をも持っているところは、世界史の普通の民主主義論議も通用しないことに繋がっていく。西欧の例を上げたりすると簡単にこう語るのである。
「日本は特別な国。西欧諸国とは違う」
ごく短く、彼の政治論議の公理を彼の言葉でもって表現してみる。
①日本史の「天皇=国民」をこうまとめる。
「日本では、西欧と違い、天皇と国民が敵対関係になったことはありません。国民あっての天皇、天皇あっての国民という考え方なので、日本においては、天皇に対する、革命権や抵抗権はあり得ない」
この信念の強烈さは、これほどのものだ。これをなんらか否定すると即座に「反日」と規定して、仇敵のように観るのである。彼によるその仇敵表現はここまでの激烈さである。『反日というのは、そもそも侵略者か売国奴か、敵国かのどれかに分類されますし、反日のものは皆、反天皇になります。どこの国にも裏切り者はいます。しかし、裏切り者が多数を占めることはありえません』
右の方々がすぐに「反日」とレッテルを貼る相手はこうして、「僕は天皇制には反対だ」という「売国奴」「裏切り者」なのである。「民が主人公だ」という日本の民の中には、天皇に反対する人は含まれないという勢いである。こういう説の否定に繋がるものをすぐに嗅ぎ分ける臭覚も含めて。堂々たるこんな主張が、全体主義でなくてなんであろうか。
②だからこそ、①が揺らいだようにも見える終戦時や、その時出来た憲法を、こう観ることになる。それどころか、あの時代が憎くて仕方ないのかも知れない。こんな「恐怖政治」という表現まで持ってくるのだから。
「日本国憲法が、日本国民の意思を無視して、アメリカに銃を突きつけられて生まれた憲法である事は、歴史的事実である。立憲主義というなら、国民の手でつくられるべきあり、日本国憲法を立憲主義というのはおかしい。日本国憲法は、恐怖政治そのものであることは、明白であると思う。」
こんな書き方は「象徴天皇にも僕は反対だ」という人間をそのまま、フランス革命のギロチン組と観ているように感じられてならなかった。
③こういう日本史観、日本政治論議の最大特徴は、「天皇=国民」において他の立憲主義国とは全く違う国だと自覚していることだろう。他国の例は日本に通用しないと確信しているほどに強烈なものである。一例だが彼にとっては「天皇=臣民」が今も続いているのだそうだ。臣民の定義をこのようにすることによって。
『民とは被支配層の事。民とは奪われる人の事です。あなたや私の意思とは無関係に、我々は皇室に奪われ、皇室は我々の税金で優雅にくらしているのです。戦前も戦後も皇室の民であることは、明白です。』
広辞苑によれば、全体主義とは、『個人に対する全体(国家、民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想及び体制』とある。「天皇=臣民」を否定する個人を「反国家」、「裏切り者」と観るこの主張は、全体主義でなくてなんであろうか。この思想によれば、個人の基本的人権だけを基礎とする国家論が憎まれるわけである。人権に制限を与えて良いとされる「公の秩序」の中に天皇が入ってこざるを得ないからだ。名古屋市河村市長が「日本人の心」から「天皇冒涜表現が許せん」と動いたのも、こういう全体主義思想からなのである。