国家社会に著しい断絶が起こった時にロマン主義という思潮が生起するのは、人類史上よくある自然現象であった。ヨーロッパの一例で言えば、フランス革命後の19世紀西欧を「俗物がのさばる社会」と嫌って、「過去や異境」に憧れる人生を送った人々がロマン主義者と呼ばれた。ロシア革命後のソ連でも、ロマノフ朝復活を夢見た人々がいた。これらの例を思い起こせば、日本の敗戦という断絶にも、ロマン主義が生まれるのはごく自然な現象だと分かる。しかしながら、事実としてのフランス革命後の西欧史は、「俗物がのさばる」どころではなく、「金が全ての世界」のようになっていった。そして21世紀には資本主義どころか、「究極の金融資本主義=株主利益最大化方針」を旨とする新自由主義経済と膨大な失業者の群れが目の前にある現実世界になってしまった。こうは言っても、18世紀に比べて19~21世紀が民主主義、それも奴隷制度の消滅に見えるような人類平等のそれが進んできたというのも史実だと言いたい。フランス革命がブルボン王朝やその親類のような旧政府などから観ればいくら恐怖政治と見えても、「自由、平等、友愛」はやはり進んできたのだと僕は思う。そして僕は、将来もこれが進んでいって欲しいと考えている。
さて、ここで論議してきたシンさんという方は、今でも「天皇=臣民」日本であると考えられている。僕に上の言葉を使って言わせればこれは、「過去の日本」という「異境」に憧れるロマン主義ということになる。だが、日本国憲法には臣民ならぬ国民だけがいて、その国民だけがその基本的人権を最大価値とするこの国の主人公なのだから、天皇は政治的権能を持たないとされているのである。ちなみに、戦前日本は大日本帝国という言葉にも表れているように、天皇だけが最高の政治的権能を持っていた。特に軍事についてはそうであったという意味で、彼の(軍事)権力は神聖なもの、絶対的なものであった。
さて、シンさんがこのような時代に憧れるのは彼の自由であるし、そういう時代を「現出したい」と望んで政治的行動を取るのも、現憲法は無効であると叫ぶのも自由である。また、私の「天皇=臣民」論は途絶えてしまったブルボン王朝とかロマノフ朝とかへの郷愁のような種類のものではないと唱えることも。その自由とは、人が「もっと国民主権を徹底すべく、株主資本主義を打ち破ることによって世界万民を世界の主人公にしたい」と考え、振る舞うのも自由であるのと同じ意味、資格で、日本国憲法によってすべての国民に保証された権利である。
最後に、僕の将来日本像を少々。天皇が現在の象徴以上のものになることはもうないだろう。国民の基本的人権を基礎としてこれを実現していく主人公も国民だという国家体制は、紆余曲折はあろうが充実していくことだろう。