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釜山への旅④ 続・対馬   らくせき

2010年07月10日 09時34分12秒 | Weblog
対馬は、一時は7万の人口があったが、いまは半分以下の3万という。
厳原の港の近くには、ボラが上って来る小川があり、
両側には昭和を思わせる町並みが続く。
寅さんの映画のロケに使われた醤油屋さん。
こし餡をカステラの皮で巻いた「かすまき」を売るお菓子店。
(これ、意外に美味しい)
ホテル、バーなどが軒をならべている。

漁業の盛んだった頃には、漁師さんたちで朝まで賑わったとか。
現在は、昼間はもちろん、夜もあまり人影がありません。

港を見下ろす高台に西山寺があります。
対馬藩の朝鮮外交の窓口のあったところ。
あじさいの花が咲く閑静な境内に立っていたら、観光客の一団が。

添乗員に「こんにちは」と挨拶したら、返事がありましたが、
ちょっとアクセントが違う。
一行は、添乗員ともども、韓国からやってきたツアーだったようです。

   夏座敷対馬を風が吹き渡る

韓国から対馬に観光客がやってくるようになったのは、
21世紀に入ってから。
韓国の経済成長にともなって、海外旅行を楽しむ人が増えたこと。
釜山から50キロにある外国という手ごろさ。
さらに対馬の自然が韓国の人たちを惹きつけたようです。

そのきっかけとなったのが、
1990年に日本を訪れた韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領の
宮中晩餐会のおける演説でした。
盧泰愚大統領は、対馬藩にあって外交交渉にあたった雨森芳洲の名をあげ、
その哲学である「誠信の交わり」を賞賛したのです。
この時、居合わせた日本のほとんどの国会議員は
芳洲の名を知らなかったとか。

もちろん対馬でも知る人は多くはなかったそうです。
長寿院にある雨森芳洲の墓を案内してくれたガイドさんも
全く知らなかったと話していました。

雨森芳洲は滋賀県の出身で、朝鮮語を学び、対馬藩に仕えた人。
朝鮮出兵後の最初の朝鮮通信使とともに江戸に向かっています。
外交の精神は、お互い欺かず、争わず、
真実を持って交わる誠の心であると説き、実践しました。

新井白石とも同門で、外交について、論争をしたと伝えられています。
1755年に88歳で永眠。
250年を経て、眠っていた芳洲が甦ったのです。

   登りつめ芳洲の墓今年竹

     

厳原では、毎年8月の祭に、朝鮮通信使行列を再現。
韓国からの参加希望者も増えているそうです。

小さな寺の境内を訪れたら、新しい石碑が建立されていました。
殉国の碑でした。
義兵抗争で日本の官憲に捕らわれ、死亡した崔益鉉の顕彰碑。
いま対馬では、朝鮮に関係した記念碑があちこちに建てられいます。
静かに歴史の読み直しが進んでいるようです。

   殉国の風にやさしさ白むくげ

韓国からの観光客の急増は、当初は地元から
歓迎されるばかりではなかったそうです。
観光の目的のひとつが山登り。
しかし、残されたゴミの山。
釣り。韓国では撒餌が盛んで、大量の撒餌で、
海が死んでしまう恐れがあるといいます。

トイレに紙を流さない生活習慣の違いもトラブルの原因に。
対馬の人たちは、マナーや習慣の違いについて説明、
最近では改善されてきているそうです。

対馬への観光客は日本人より韓国からの人が圧倒的に多く、
経済効果は20億円に。
対馬の経済にとって欠かせない収入源になっているとのこと。

対馬の最北端から韓国までは、わずか50キロ。
韓国展望台から釜山市の町並みを
かすかに眺望することができました。

比田勝港から釜山への高速船に。
船には、釣りを楽しんで帰国する人たちの姿が。
今年の通信使祭の打ち合わせに釜山へ向かう
旅行代理店の社長さん一行と乗り合わせて、
入国の手続きの案内をしていただきました。

旅の最後の目的地、釜山までは1時間余りです。
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長友佑都がイタリアに決まったが  文科系

2010年07月10日 06時54分56秒 | スポーツ
 代表で注目度が急騰した感がある長友佑都の移籍が、イタリアに決まったらしい。僕はこれには重大な疑義がある。以下のようなことを周囲の大人がなぜ密かに言ってあげないのだろうかと、大不満、大疑問だ。「問題のミラン」などが本田にも、食指を動かしているらしく、僕はこれにも大反対。その次第を書いてみたい。

 イタリアのサッカー界は近年、えらく腐敗している。審判買収などの八百長が後を絶たず、降格チーム続出などという有様。サッカー戦術新機軸の発展などもこのところ皆無であって、若手は育たず、その結果が今回の「高齢者中心で、1次リーグ敗退」だろう。ドイツ大会の好成績は「衰退への最後の名残」とも見え、中田英寿が渡った98年イタリアの面影などは今やどこにも見られない。短期間のうちにインテルの世界的大躍進をもたらした大監督モウリーニョもハッキリとこう明言して、この国を去った。
「イタリアのサッカー界は大嫌いだ。サッカージャーナリストたちは、売春婦と一緒!」
 彼は、世界的大監督。知性あふれるこのモウリーニョがイタリアはこりごりとばかりにスペインに逃げ出したのも、ある体制に反発したからであるのは、明白。世界サッカー史に残る大功績を去年挙げながら、わずか2年の存イでスペインへ去ったのだった。

 なぜこんな事になったのか、日本のサッカー界も他山の石として考えてみるべきだろう。考えている人もいるとしたら、長友に助言する人がなぜいないのだろうか。僕なら彼にこう語る。
 
 イタリアは止めておけ。
 イタリア・サッカー界は、首相兼マスコミ帝王、ベルルスコーニが影で大きすぎる実権を握っている。「権力は腐敗する」と言われるが、大権力の腐敗は急で、激しいだろう。ベルルスコーニは、少女売春、不純異性交遊とかで妻にも逃げられるほどのやりたい放題。品性上きわめて問題の多い人物であって、影では一部マフィアとさえつながっているのではないか。サッカー協会の役員たち関係者にも、こんな彼の系列の人、太鼓持ちがきわめて多い。つまり、彼を頂点とするイタリアサッカー界は、日本話題の大相撲腐敗に通ずるところを有していると僕は推察している。これではまともなサッカーは育たず、若者をダメにする者やダメになる若者も多いというもの。ギリシャのような国の危機さえ、こういう人物統治下のイタリアには目前に迫っているのではないか。失業率2割のスペインよりも、もっと陰にこもっていて、もっと広汎に、かつもっと危機的に。

 こんな所に修行に行く年数は、前途有為な青年期を傷つけるだけだろう。こんな国には行かないほうがよい。イングランド、ドイツ、スペインなどから声がかかるまで修行して待っていたらよい。そう思うのである。日本サッカー界は、イタリアに行こうとする若者にこういうことも参考意見として教えてあげるべきではないのか。

 
コメント (4)
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