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 スポーツ・ジャーナリズムが、軽すぎる  文科系

2010年06月22日 12時43分35秒 | スポーツ
 20日拙稿がスポーツ・マスコミ批判だったこともあって、書いた直後にこういうコメントをこれに追加することになった。同じ、20日付けのコメントである。

【 追加です。「スポーツは遊び?」という題名の。
 マスコミの不勉強を見るにつけても「スポーツは遊びか」を、少々。
 何よりも明白なのは、スポーツ記者にとってはスポーツは「職業」のはず。それがこんなに不勉強では、全く困る。
 次いで、マスコミ記者を育てるのは、読者の水準という問題もある。日本人は文化を、その評論水準も含めて「遊び」のように扱ってこなかったか? それが日本の文化記事を貧困なものにするということはなかったか。
 スポーツはさらに、他の文化芸術に比べてもっと(見る)遊びのように扱われてこなかったか? その結末が相撲界の現実であり、ここでも触れられた「張本のあの態度!」だと、僕は思う。
 以上に対して、たった一言の反論を。「遊び」の少ない、もしくはその程度の低い人生って、何? お金儲けて、高価な物を誇示するだけが、人生? 】

 さて、金子達仁という著名なサッカージャーナリスト、スポーツジャーナリストが現在、ある大変な物議を醸している。以前と現在と二つのワールドカップで、サッカーについて述べた根本的議論に大きな矛盾が存在すると告発されて。過去には「ワールドカップは、勝利こそ全て」の一色で語っていた彼が、今回は「勝利などどうでもよい。あの岡田に勝ってもらっては困るのだ」と語ったのである。そしてまた今回の言葉を、以前との食い違いに釈明でも付して語ったならばともかく、ただ前言に無自覚にだけ語ったからいけない。しかもこの問題は、スポーツの根本問題の一つ、物議が無くては済まないのである。
 また彼は、人々が「弁解にすぎない」と見うるような伏線もこの間いっぱい作っていた。この間の彼は、岡田監督を文字通り襤褸糞に批判してきたから、カメルーン戦勝利、オランダ戦善戦を前にして、自己弁護の強弁、歪んだプライドと見られもしたのである。

 さて、随筆も含めた日本の文学世界に、スポーツものは最近まできわめて少なかった。文学のにおいのする書き手は、今でもまだ希少と語って良いだろう。これは同人誌活動などの世界でも、有名な話である。
 先進国の例えばフランスでも似たような事情があり続けてきたらしく、特にサッカーなどは、知識人、上流階級はたまの鑑賞者・経営者などとしてはともかく、「愛好者と言うのは何か恥ずかしい」という感じ方がかなり根強く存在していると聞く。「労働者階級の文化」とでもいう伝統なのだろうか。「肉体を精神から分離して、これを精神よりも一段低い物と扱ってきた」長い伝統も関わってのことなのだろう。ちなみに、僕の結婚式スピーチで仲人をしてくれた人・親友の父が、こんなことを語ったのを、スポーツ好きだった僕は今でも良く覚えている。
『私はけっして頭が良くはないスポーツ選手たちを多く預かるのが仕事でして、彼らに接する機会が多いのですが』

 文学的随筆という趣の世界に、スポーツが入ってこなかったのには、以上のような歴史的背景、事情が関与しているはずだと考えている。
 「物だけではなく、心も」とか、「働くだけではなく、文化、自然、環境、イクメンも」などと語られる時代になった。そういう文化の世界で、もっともっとスポーツ・ジャーナリズムがその権威を高めて欲しいと願っている。でないと、若者たちの中で文化がねじ曲がっていくような恐怖さえ感じている。「実物サッカーよりも、サッカーゲーム」。「実物恋愛よりも、恋愛ゲーム、婚活ゲーム」。「その延長のような、その場限りで何も残らない、実物結婚式」。総じて、「実物の文化よりも、ネット世界の文化」みたいな。
 しょせん人間は、「この世」で生きるしかないのだけどなー! そもそも、家事や自然、実物対人関係などこの世の機微に疎くなり、さらに「それを魅力的に表現する」のがもっと下手になるならば、ネット社会にもろくな情報、ソフトを発信できなくなるはずなのだ。今のネット社会は情報量が多いだけに、どんどんそうなっているようにやはり恐怖感を持って感じている。

 急いで書いたので、舌足らずな読みにくい文章で済みません。でも、大きな問題提起のつもりです。ここまで読み進んでいただけた皆様には、熱意の所在をどうかお酌み取りください。
コメント (7)
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