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新自由主義経済への反省はどこまで?  文科系

2008年10月18日 14時55分23秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
この投稿は昨17日のコメントを格上げしたものです。この情勢の下では、非常に重要なことと思いますので。


アクセス1千万をとっくに超えた人気ブログ「世に倦む日日」は、当ブログの14日拙稿のように、「新自由主義は没落した」と語った。普通の銀行はともかく投資銀行は終焉したと語る人々は多い。
がしかし、本日の毎日新聞で、日本の「投資銀行」の雄・野村ホールディングス社長・渡部賢一はこう語る。

【 質問 投資銀行のビジネスモデルや米国型資本主義は終焉したと言われています?
 渡部 マスコミが言っているだけだ。この4、5年、世界中の過剰流動性(金余り状態)が進行したことで、行き過ぎが生じた。
 異常なレバレッジはなくなると思うが投資銀行業務そのものはなくならない。
 ヘッジファンドも一定部分以上はあだ花だったが、適正なヘッジファンドは残る。正常に戻る過程が始まるのであって、マルクス、レーニンの計画経済になることはない 】

これでは、今回の金融崩壊の反省があまりにも不十分だと思うのは、僕だけだろうか? 
そもそも「過剰流動性の行き過ぎ」を誰が判定し、誰が押さえるのか?
僕などは、格差社会や国家間格差を外っておけば、過剰流動性や、その行き過ぎやは必然と思うし、やがては、この行き過ぎの主人公たちがレバレッジ、デリバティブ、サブプライム組み込み証券のような「破綻が運命づけられた一時的な投資先、好景気」を創出するに決まっていると思うのだが。
マネーゲームだけがどんどん儲けて、傍らで貧乏国、貧乏人がどんどん増えるのでは、一体誰がものを買ってくれるの。マネーゲームで貯まった巨大なお金は、どこに投資できるの? 巨大なお金の投資場所がなくなったからこそ、「未来の商品」への投資(先物買い、デリバティブ)や、住宅バブルで貧乏人にまで借金消費をさせたりということやが、無理矢理創出されたのではなかったのか?!!

現に、「この一時的好景気はおかしい。アメリカなどの住宅バブルがいつまでも続くことを前提にして、家計も国家財政も借金消費生活を謳歌しているのだから。これは、あだ花だ。いつか日本の住宅バブルのように弾けるときが来る」と皆が言い始めていても、だれもレバレッジやサブプライム組み込み証券をもはや止められなかったではないか。

これだけの犠牲を世界に作った人々の一角、ノムラが、こんな反省しかないというのは、次の破綻が運命づけられているようなものではないか。今回の金融崩壊が20年後になんとか持ち直しても、それからまたぞろ次の大破綻が準備されていくとか。そしてまたぞろ、「国家は余分なことをするな。我々の自由にさせろ」と昨日まで言っていた連中が、国家に助けてもらわざるをえない事態を招くのだ。
国連やその機関は、こういう金融の主人公たちに牛耳られているかのように、何もできなかったのだし。一国政府でこれに棹さすようなことは、基本的にできないだろうし。


コメント (8)
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幻の「石門小唄」    中野寂音

2008年10月18日 09時07分13秒 | Weblog

私は昭和十九年十二月から一年間軍隊にいた。
そのあいだに思い出す曲は「勘太郎月夜唄」の一曲であった。
戦後三十年後経った頃、戦友会で誰かが、石門劇場の演芸大会で
「石門小唄」があった。
たしか最後の舞台で、日本の着物姿で華やかな総踊りであった。
私達全員この時初めて聞く「石門小唄」である。
戦後三十年、思い出そうとしても歌詞はもちろん、
曲も思いだすことはできなかった。
石門とは当時の中華民国河北省の石家荘である。
現代の地図の表記は石家荘である。

昭和二十年八月この教育隊に到着したとき、この町は石門と呼ばれていた。
いつ石家荘から石門に地名が変更になったかは知らない。
確か日本軍が占領後、石家荘は赤化を連想するとして、
日本軍が地名を勝手に変更したと聞いている。
当時の日本は占領するとすぐ現地の地名入りの小唄を必ず作った。

南京小唄、北京小唄、南方の島のラバウル小唄はレコードになり流行歌となった。
八月から石家荘に三カ月暮らしたが、
この後一回もこの「石門小唄」を聞いてはいない。戦友たちも同じであった。頭の中に残っている幻の「石門小唄」であった。

戦後この部隊は戦友会事務局が出来て、戦友会名簿が送られてきた。
部隊到着の時終戦となり、この部隊の戦友会には一度も出席はしていない。
昭和二十年末中国から九州佐世保港に帰還。
復員列車に乗り三日がかりで東京に着いた。
その時同行した八名の戦友たちと戦友会を始めた。今年で五十八年目になる。

戦後五十年ぐらい経った頃、戦友会名簿の最初のページに
「部隊歌」と「石門小唄」の歌詞があるのに初めて気がついた。
一度も歌ったことはない部隊歌があることを知った。
部隊歌の二番に

 西に昆倫ヒマラヤを 北に長城をへいげいし
 歴史もゆかし石家荘 開きて培ふ翼もて
 集まる健児の意気高く 厳然立てり我が部隊

石門小唄

 かすむ鉄路に 春風吹いてよ 
 におうアカシヤ 柳も新芽
  一寸行きます 朝陽大路
  可愛いクーニャン 紅の靴
  石門よいとこ ほんに ほんに
  よ~いとな  よ~いとな  

私達は。この歌詞にはいくらか覚えがあったが、
メロデイはひとりも思い出すことはできなかった。
当時日本のどこにもある小唄と同じメロデイであったと思う。
石門の地名と共に永遠に消えてしまった「石門小唄」である。

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