九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

生の天鎮さんを聞こう!         九条の会・事務局

2008年10月15日 16時33分48秒 | Weblog
 11月3日に愛知県九条の会が行ってきた「県民のつどい」の形を今年は大きく変えられました。
 11月3日午後3時から栄交差点(三越前)で俳優の天野鎮雄さん・山田昌さん及び韓国の九条の会代表が9条をめぐる情勢を話していただけます。
 今回は、お話以外にも若宮大通からの平和パレードや栄周辺の辻々で各地の九条の会が様々なパフォーマンス(仮装、シール投票、風船配付など)を行い、平和! 9条をまもれ!の宣伝を行います。

 昭和区九条の会でも積極的に取り組んで行こうと考えていますが、ぜひ、皆さんも栄周辺におあつまりください。
 また、どなたか、パフォーマンス・・・の案を提案いただけると助かります。
シール投票、召集令状配りなどを考えていますが、よりアピールできる提案をいただければ採用したいと思います。よろしくお願いします。

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ウズベキスタン戦、大勝か?  文科系

2008年10月15日 13時21分50秒 | スポーツ
今夜のウズベキスタン戦は大勝するのではないかと、思い始めた。理由はなによりも、代表のシューターたちが「自分らはシュートの基礎を忘れていた」と認識して、その練習に連日励み始めてから初めての公式戦だからである。この点については、当ブログの12日拙稿をご参照下さい。

僕が得点を予感するのは、清水の岡崎。アシストを期待できると思うのが、グランパスの玉田。世上評判の高い大久保にはあまり期待しない。彼は、神経の図太さに裏付けられた、ちょっとしたスピードと「個人」技術とで持ってきた選手と思う。精妙なシュート技術なら岡崎のがはるかに上だし、スペースを作って相手ゴール前を崩しつつ、周囲を見て攻撃を組織するというならば、玉田の方が上だと思う。走力も岡崎、玉田よりも劣るだろう。

ウズベギスタンに勝って、他の基本的力と比べたら世界32位という力よりもはるかに劣っていた日本攻撃陣が、初めて、新たに、逞しくスタートする。今これが形成されたら、その体力の前にジーコ日本が苦杯をなめさせられたオーストラリア戦にも勝算が生まれる。そんなゲームを是非見たいものだ。


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「虚子・・今、思うこと」 川崎展宏氏の講演から まもる

2008年10月15日 08時47分10秒 | Weblog


★最近川崎展宏氏の俳句に関心があってネットで検索していたら
氏の「虚子」についての講演記録に出会いました。http://www5d.biglobe.ne.jp/~NANPU/kouen.html
 わからない点も多いのですが興味深かったので虚子について
勉強したくなりました。                      

*****************************
・・・近代の詩人達の多くが狂うのはそういうことではないかと思うのです。
文学に致しましても、常に個人とその個人の独創が尊ばれます。
そして新しさをお互いに競うのが近代文学の在り方でございます。
そういうものに私はついて行けない、又、人々について行けない
という共感が得られる時期が来ているのではないかと思います。
 そういう私にとりまして、今、虚子が新しいのです。
新しいというのは近代の方向で新しいのではなくて、違った意味で新しい、
そういう思いを今いたしております。
「今、思うこと」の中心はそういうことでございます。

そこに虚子の芭蕉の葉がございます。これをどう詠むか、

  横に破れ縦に破れし芭蕉かな (昭和9・11 新歳時記)

 どうしてこの句を真っ先に挙げるかと申しますと、
ぼろぼろになるまで使っております虚子の新歳時記の中で、
この一句が最近ぐーんと胸に来たんですね。
そしてそのぐーんと来た気持ちを何とか今日この席でお話できたら
と思いまして始めに挙げる次第です。・・・・・
この句は単純そのものですね。しかし、何か背筋をただされる、
詩歌の鞭で背中を強く打たれたといったある種の痛さと快感がある、
そんな気持ちでこの句を受け取ったのでございます。
その時に思い出した虚子の言葉があります。

 『渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、
無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、
まぬけた句』

これは明治36年10月に「ホトトギス」に発表されました「現今の俳句界」
という碧梧桐の作品に対する批評の文章なんです。
実は、「渇望に堪へない句は、単純なること棒の如き句」の前に
「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて」と付いております。
「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて、渇望に堪えない句は・・・」
と続いていくわけです。

では、碧梧桐とはなにか、これはやはり個性と独創を競う近代俳句の新
を求め続けるという姿勢の原点となった、
そういう意味で近代俳句の非常に大きな存在だということは
申し上げるまでもございません。

<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>が今の私には強靱な句に思えます。
「重々しき事石の如き」というのは比喩でありますから、
私が受け取ったのはまず強靱だなということ、
それから単純なる事棒の如き句だと思います。
<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>それだけなのですから。
無味なる事水の如き句、ちっとも味付けがしてございません。         

これは正に平成の現今の俳句界で渇望に堪えない句ではないかと思った訳です。
この齢になって、又一つ虚子の句を発見したという思いがします。
見方を変えて言えば、これは、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、
まぬけた句じゃないでしょうか、
だってただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>なのですから。
何じゃこれは、冗談じゃない、何にも新しくない、ただの葉っぱじゃないか
ということですけれど、立場を変えれば渇望してやまない句の条件を
いくつも満たしている句じゃないですか。                  

虚子の発言は一言でいえば、・気の利いた新しさ・を狙った
碧梧桐の俳句の在り方を痛烈に批判した文章であります。
私にとっては、近代俳句の問題として、現代俳句の問題として、
今の自分自身の問題として、渇望に堪えないのが、単純なる事棒の如き句、
重々しき事石の如き句ということですね。
無味なる事水の如き句、立場をかえていえば、ボーツとした句、
ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句、そういう句が出来たらなあ
と思います。
句は授かるもので作れるものではありませんが、
今こそこういう句が欲しいと思います。



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なんと了見の狭い、プロ野球!  文科系

2008年10月15日 08時18分37秒 | スポーツ
本日毎日新聞の社説は、アマチュアの最強投手・田沢純一氏の扱いをめぐって、プロ野球実行委員会が泥縄式に行った「取り決め」に対して痛烈な批判を行っている。僕もここで書いてきた年来の主張と同じものであって、痛快な気分だった。まずは、紹介してみる。

【 なんと了見の狭い人たちの集まりだろうか。
 プロ野球実行委員会は国内の新人選択会議(ドラフト会議)での指名を拒否して海外のプロ球団と契約したアマチュア選手に対し、海外球団を退団後も一定期間、日本のプロ野球入りを認めないことにした。(中略)
 日本のアマチュア野球はプロの下部組織でもなければプロの養成機関でもない。そこで実績を残した選手がその先、どこで野球を続けようが本人の自由である。日本のプロ球団に束縛されるいわれはない。(中略)
 田沢投手の引き留めに失敗し、考え出したのが今回のペナルティーだ。球団エゴむき出しで「あとで泣きを入れても知らないぞ」と脅しているようなものではないか。しかも田沢投手の意思表明後、後付けでルールを作り、田沢投手にも適用するというのはフェアではない。】

 野茂英雄投手のドジャース入りのときにも同じ事があった。野茂は、日本プロ球界から石つぶてを投げつけられるようにして、出て行ったのではなかったか。あの時にプロ球界が取った行動が全て誤りであったとは、今となっては明白である。プロ野球界は同じ誤りを何度繰り返すのか。この問題の性格を改めて整理してみよう。意外に理解が難しいが、とても大事なことが含まれている問題だと思うので。

・ 学校の野球、都市対抗の野球、プロの野球などは、共存共栄を計らなければ、それぞれの将来は先細りであろう。選手たちがプロを目指しているのを良いことに、プロ球界がこの共存共栄を乱し、勝手なことをやるという事件が多すぎた。
・ 50年前の子どもの日常生活には相撲があった。それが消えていったから、アマ相撲も衰退し、大相撲もじり貧になってきたのではなかったか。サッカー界には、プロとしてのJリーグ機構の他に、「その上に」日本サッカー協会があって、プロとアマが対等に「国民のサッカー生活」を作って急発展してきた。プロ野球が今のようにアマを引き回していては、やがて衰退していくしかないのではないか。高校野球の歴史、人気がプロ野球を支えているという側面があるなどということを、プロ側はもっと自覚すべきである。
・ プロアマ共存共栄の基盤、最大要件はこうして、野球を行い、観戦する国民である。プロ野球にとっては国民は単なる商売相手かも知れないが、プロ・アマ合同組織から見るならば、国民がその主人公であるはずだ。そうでないスポーツ組織は、相撲のように衰退していく他はないだろう。
・ また、サッカーのワールドカップを見れば分かるように、この国際化した世界では、野球の世界的普及を考えなければその将来はやはり先細りであろう。アメリカや日本が、自国の野球だけを考えていたのでは、世界戦の相手が全く増えていかないはずだ。ラグビーの普及が、旧イギリス圏だけに限られてきたように。

野球を愛する人々は、野球界が50年後に、今の相撲のようになって欲しいとは誰も思わないだろう。そのためには、もっともっとプロが率先して子どもサービスに努めることだと思う。それがスポーツというものの大義名分であり、発展の要であると思う。
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