松美の言絵(いえ)

私は誤解されるのが好きだ。言い訳する手間が省けるから。

御嶽山、不自然さの極み。

2014-10-07 17:45:17 | 日記・エッセイ・コラム

               「既成事実」という、不自然さの極み

  地質年代というものは、ぴったりあの日、あの時刻にタイミングを合わせるようなことはしない。なのに、なぜ、一年の中の、紅葉が盛りの、休日、しかも最も人の多いお昼時。この時間をねらったように噴火したのはなぜなのだろう。起こってしまったことは人間、既成事実として簡単に受け入れてしまう。でもあとで考えると、このタイミングの悪さは異常としか思えない。

 念力でスプーンを曲げることができる人間がいて、同じことをマジシャンがやって見せる。しろうとに、この違いは分からない。同じように、マグマの場所と地下水脈を衛星かなんかで把握しつつ、そこに火の球を打ち込めば、噴火させることが可能だろう。これができる国は限られている。あの国しかないだろう。その国は、今、非常に苛立っている。なかなか貿易に関する協議で日本が妥協してくれないからだ。このタイミングも、全くあの時と同じようだ。あの時は、辺野古に決まりかけていた基地移転計画が、ハトポッポによって台無しになり、にっちもさっちもいかない状況になっていた。この頃、私はまだ現役で掲示板の書き込みに、いそしんでおり、「こめぐに」は、そろそろ頭にきて、阪神淡路のような大地震を起こすかも知れない、と予言した。私自身もイライラしていたからだ。その直後、あの規模の震災が起こった。いくらなんでも、規模がでか過ぎて、とても冗談言ってる場合でないので、すぐに書き込みを削除した。そんなことがあった。だから今書いたことは、あり得ないことでは、ない、と思っている。だからと言って、誰かの陰謀であると言うつもりはない。しかしそれにしても、あまりにも間が悪過ぎる。こんなことがほんとに、「自然に」起こり得るのだろうか。その道の研究者さえ、関心を示さなかった場所に、突然、自然災害は起こるものなのだろうか。私の中では、どうしても不自然さが、頭をよぎって、離れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大いなる秋田」第3楽章で、際立った少女。

2014-10-07 15:15:34 | 日記・エッセイ・コラム

  国文祭のオープニングフェスティバル。皇太子殿下のご臨席を賜って

行われた「準天覧試合」とでもいうべき場で、ひときわ輝く一人の女の子がいた。

それは緑の主役の子でもなく、ただの合唱隊のひとりなんだが、「大いなる秋田」の

第3楽章、~秀麗無比なる鳥海山よ~で始まる県民歌の場面で、

からだ全体を揺するようにして、まるで会場に風を送るように、声を届ける、

あれはまだ小学生かも知れない。そのくらい若かった。右側に成年男子隊がいて、

左に女子隊だったが、その左端に近い場所にいたので、画面からすぐ外れて

しまったが、数秒間だけ光り輝いていた。会場で見ていた人なら、その子に

くぎ付けになったに違いない。もう一度、11日に全国放送があるそうだから、

チャンスは残っている。エライ人たちの祝辞は飛ばしても構わないから、

第3楽章のオーケストラと管弦楽と大合唱の、人間の声が集まった時のパワーを

感じて欲しい。こんな財産が秋田にはあったんだなあと、思わせてくれた。

成田為三はじめ、なぜか県北に巨星は現れるような気がする。それは縄文の遺跡群と

エリアが合致する。司馬遼太郎の「秋田県散歩」の受け売りになるが、

狩野亨吉、内藤湖南、そして安藤昌益。はるか昔、あったという

「十和田湖文明」の名残りなのでは、なかろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする