黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

ゴッホは、ほんとうにピストル自殺をしたのか? NO.6

2021-06-19 | 日記
 NO.4の終わりに~
    じゃあ、この錆びついたリボルバーは、いったい 何なのだ?

 この言葉の意味は
ファン・ゴッホ美術館のキュレーター・アデルホイダの言葉
 「これは、違う。当館の展覧会に出展されたものじゃないわ

その後、冴たち3人
(オークション会社「キャビネ・ド・キュリオジテ CDC)の
  ギローと、ジャン・フィリップ)は、週末、ギローの車で

 パリ郊外の村、オーヴェール=シュル=オワーズに向かった。
この小さくて素朴な村は、十九世紀の画家たちドービニーを始め、
                     
*ゴッホはドービニーに憧れていましたが、最期まで本人に会うことが
 なかったが、敬愛を込めて居所の家の庭を描いた。

   <ドビーニーの庭> 
     
   
   *この絵は、二つのヴァージョンがあり、そのうちのひとつは
     縁あって、日本の「ひろしま美術館の常設展示室で見られます)

カミューユ・コロー、カミューユ・ピサロ、ポール・セザンヌなどが滞在し、
          

創作した 「アトリエ村」なのだ。

 もちろん無名の画家たちもこの場所を訪ねた。また画家であり
精神科医ポール・ガシェもこの地に暮らしていた。
ゴッホの最期を見届けたのも彼だった。
    

 
  (ゴッホの描いたガシュ医師)

 ゴッホが最後の二か月余りを過ごす受け皿としての村でもあった。

「ところで冴。 そのゴッホ美術館に出展された『別の』リボルバー
 が壁に飾ってあったといういう食堂は、この近くなんだろう?」

        (ラヴー亭)

「ええ、そうです ここから歩いてほんの五、六分です」
   でも、まずは麦畑に、と思って…」

 ゴッホ美術館のキュレーター、アデルホイダ・エイケンは
 「ゴッホと病」展に出展されたリボルバーについて教えてくれた。

 そのリボルバーが発見されたのは、およそ五十年前のことである。
『 オーヴェール=シュル=オワーズの村内にある畑--どこに位置する畑か
  特定できていない~で、ひとりの農夫が土を耕していた。
  勢いよく鍬を振り下ろした瞬間、ガツンと金属同士がぶつかる音がして、
  刃が何か硬いものに当たった。
  不審に思った農夫が手で土を掘り返してみると、錆びついた一丁の拳銃
  が出てきた。とても使えない代物であることは一目瞭然だったが、農夫は
   律儀に警察に届けた』

 このことで、拳銃のうわさは村人全員が知ることとなった。
 農夫は、私は要りません。
 ずっと昔に自分の父親が持っていた拳銃かも知れません、なんぞと言ってる
 人がおるらしいんで、その人に譲ることにしましょう。
 父親がかっての所有者だった可能性がある~と、発見者に申し出ていたのは、
 ラヴー亭のもと主人、アルチュール=グスターヴ・ラヴーの娘、
 アドリーヌ・ラヴーの関係者だった。

 *(アドリーヌはゴッホの絵のモデルを三度にわたって務めもした。)

    ゴッホが描いたアドリーヌ・ラヴー   
  
   *NO.3で ラヴー亭、ゴッホが過ごした部屋は紹介済みでしたね。

彼が麦畑でピストル自殺を図った…というの伝説化してしまったんです。
研究者の間では、自殺未遂の場所の特定は現時点ではできていません。


ややあって、ぱっと視界が開けた。
 一面の麦畑が目の前に広がっていた~

     

                                                     ( 現地の風景写真)
    ゴッホが描いた<カラスが飛ぶ麦畑> 

 

 吹き抜ける風が畦道から土埃を巻き上げた。
鳥の群れが低く垂れた曇天の空を舞い飛んでいった。
畦道が交差する四つ辻には、ゴッホが自殺未遂を図る数日前に描き上げた
とされる
     「カラスの飛ぶ麦畑」のパネルが据え付けられている。

        

  大勢のグループがその前に集まり、記念撮影をしていた。

ラヴー亭とは、ゴッホが人生最後の十週間を過ごした下宿屋を兼ねた
食堂である。
実はゴッホが自殺に用いたのは、主人のアルチュールが護身用に持っていた
拳銃だったかもしれなかった。
アドリーヌが自分の父親から聞いた話として、当時は無名の貧乏画家で   いまはすっかり有名になった「あの」ゴッホに拳銃を貸してやったんだが、 自殺に使ったあとはもう帰ってこなかった~と、知人に伝えたところ、   その人物が農夫に接触して、元の持ち主に返すべきではないかと諭した   ようだった。


 ラヴー亭は地元民が通う定食屋としてゴッホがやって来る前年の
1889年に開業し、何度もオーナーチェンジを経て、およそ百年後の
1988年、非営利団体「インスティチュート・ファン・ゴッホ」によって
購入された。
 ゴッホ終焉の場所として保存すべきだという気運が高まる中で、     ある篤志家から資材を投じて修復したのだ。
以来、ゴッホの聖地として世界中から多くのゴッホ・ファンが集まる場所
となった。

 では、錆びついたリボルバーはその後、どうなったかというと‥‥・
ファン・ゴッホ美術館は所有者の情報収集を怠ってはいなかった。

 彼女(アデルホイダ)は、はっきりとは言わなかったが、
「ファン・ゴッホの自殺に関りがあるかもしれない」
そのリボルバーは、わが美術館に寄贈されるべきと、狙いを定めている
に違いなかった。
 あるいは、館の予算を使って適正な価格で購入してもいいと考えて
いるのかもしれない。

 ・・・・いずれにしても、冴がもたらした
「オークションハウスにリボルバーが持ち込まれた」という
ニュースに彼女は飛びついた

 その価値って?
「ひまわり」「アイリス」 星月夜」
    
でもない。
骨董的価値も美術的価値もない。 赤く爛れた一丁のリボルバーに

 ・・・・そして結局、それはファン・ゴッホ美術館が展覧会に出展する
ことで権威付けしたリボルバーとは違うものだと判明した。

「で、つまりうちがマダム・サラから預かっているあのリボルバーは
 いったいなんなんだ?

「贋作か? スクラップか? それともアートと呼ぶべきなのか?」

 冴は、こう言う。
「確かに混乱を招く行為だったと思います。だけど、そうまでして、
  あの錆の塊をオークションのテーブルに載せようとしているのは、
 何か強い意識というか、意志というか、意地というか~
 とにかく、彼女の心の中にある何か(懐かしさ、哀しさ、寂しさ
 でも、満たされた気持ちにもなる感情・感傷)…が感じられます。
     少なくと、私には。」
 

  風が麦畑をざわつかせて吹き抜けていった。
彼方に赤茶けた塀が見えていた。
フィンセント・ファン・ゴッホが弟のテオと並んで永遠に眠る墓地
そこにあるのを冴は知っていた。

        
 



続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。