黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「筑紫君磐井」反乱伝承とその時代

2016-10-22 | 日記・エッセイ・コラム

 今日の午後は勉強会。

郷土歴史研究会の10月の例会講座で9月に見学に行った

「岩戸山古墳」 そう今日の主役でる筑紫君磐井

(つくしのきみいわい)が築いたものといわれています。

 *この日の見学内容に関してはすでに9月25日にアップ

 つまり 磐井は反乱者? 郷土の英雄か

 

 そんなロマンを探る話を期待して…会場へ。

  

 約2時間 淡々と お話が続く・・・・結構きつかった。

  これを簡略まとめるのは 至難の業・・・・

 

  「磐井の乱」と 言われている 話は ここから始まる  

 『古事記』継体天皇の条  に

  「此の御世に、筑紫君石井、天皇の命に従わずして、多く禮旡かりき。

   故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 

『日本書紀』

  ・・・・是に、筑紫國造磐井、陰に叛逆くことを謀りて、・・・

 

  時は、5世紀 東アジア全体が激動の時代

  昔々、 学校の歴史で 勉強した

  朝鮮半島 高句麗、百済、新羅の覇権争い・・・・

 

   その時代、磐井をはじめとする北部九州の豪族たちは、弥生時代から

  海を渡って、大陸と交流を持っていました。

   特に、高度な文化を誇る中国との交流は意義深く、ヤマト王権に比べ

   有利な地の利を活かしていたのです。

  

 

 と、このころの日本はまだ統一国家ではなく、

 有力豪族が各地を治めていました。

 ヤマト朝廷と地方の豪族は対等でありながらゆるやかな上下関係にあり、

 朝鮮半島への進出を目指すヤマト朝廷から、人や船や食料を提供させられ

 不満がたまっていました。

  この地 磐井は、軍事、外交、内政すべてに自立し、財力を持っていた。

 ついに火の国と力を合わせ立ち上がった・・・・

  しかし磐井は破れ、この後に大和朝廷の国家統一が進んでいった。

 「磐井の乱」は古代史上の大事件だったのです。

 

  古事記や日本書紀に磐井(石井)は

   「天皇の命令に従わない悪者」として記されています。

  さぁ、ヤマト政権の勝手な出兵、無理難題に我慢の限界を

  それは 九州の各地の豪族といえども一緒、政権に対し反旗を…

       権力者の立場で言えば、「反乱」

       地元愛で言えば、郷土の英雄・・・・

  

   歴史って、いつの時代でも 「勝者」が 勝手に自分に「いいほう」に

   残していくと  これ常識!   言えないでしょうか…。

   風土記の最後に 「古老の伝へて言へらく…」

    (和銅6年713年 時の天皇の詔によって、編纂させた地誌)

   この「磐井の乱」の 約200年も経っており、古老の言い伝えも

   ・・・・・風土記であれば 「いいほう」を伝承、英雄伝説として

   残っていてもおかしくはないのでは。

                私的な受け止め方ではありますが。

 

   さて、戦いに敗れた磐井の一族は、この地をヤマト王朝へ差し出した とある。

   罪を許された息子の「葛子」や他の息子たちは、父親の磐井の遺志を引き継ぎ

   筑紫君一族として筑後国一帯を治めていきます。

   息子たちが築いた古墳(数多くある中のひとつ)が、先日見学に行った「岩戸山古墳」

   これは 磐井が、生前に巨大な自分の墓を築いた。その後、造られた

   鶴見山古墳などの大型前方後円墳の存在は、これを証明しています。

    主を守る「石人・石馬」 

   これは磐井一族の古墳には、埴輪の代わりに石の彫像が並びました。

 

    筑紫風土記ににある   こんな文章が

      後半、 4行目…ここに、官軍、追い尋ぎて跡を失ひき。士、怒り泄まず、石人の手を

    撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。 古老の伝へて云へらく、・・・

    ( ヤマトから来た兵は、怒りゆえか、恐れゆえか、石人たちを叩き壊しました。)

   

    その「石人」 とは

     これは凝灰岩、埴輪は粘土ですが、筑紫君一族は石製品を採用したのは?

    ヤマト王権との差を明確にしたいという思いから…埴輪と違い圧倒的質感と長期間風雨に耐える

   頑丈さを併せもつ特別な石製品を古墳に並べ、堂々とたつ石人を目の当たりにした人々に対し、

   一族の権威を知らしめる「装置」を必要とした、と考えられます。 (岩戸山歴史文化交流館 資料より)

    現在、岩戸山古墳の庭に レプリカで並べられている

    「石人」「石馬」  古墳の周囲に、 いろいろな動作の「石人」も。

 

    また古墳を彩る装飾壁画は日本全国にある半数以上が九州にあるのです。

    その色遣いや文様は古代人の思いが込められたもの。

     古代人の「あの世」に対する考え方が 今に 伝わってくるようです。

      「丸山塚古墳」「乗場古墳」「石人山古墳」「臼塚古墳」「童男山古墳」 などで石室石棺が見学できる。

    (童男古墳) すべてに赤色顔料(ベbbガラ)が塗られています。

    これは悪霊から被葬者を守るためのもの。

    「赤」という古代人の人は強い力があると信じていたようです。

 

    このように この地域の古墳は まだまだ謎も多いのでしょうが そこがまた愉しみ?

 

    「古事記」「日本書紀」「風土記」等、各年代の資料から、また 現存する古墳から

    「謎解きは」まだまだ続くようです。

     奔逸の勉強会でも、文献史学の研究をされている 先生方の 「自分の研究説」が

     紹介されており、「矛盾あり」「納得」「可能性あり」「事実と認めてよい」

      などなど  いやいや どこまで 何を 信じていいのか?

      もう これって 好きな人の ロマン だね。

  

     さらには、もっと謎は今でも 研究者の一番の未解決は「卑弥呼」伝説ではないでしょうか?

     「近畿説」「九州説」 はっけよい 残った 残った…まだ 勝負はついていない?

      ほんとに 残った。

     それほど 「九州」の地は 面白いんだぞ!

 

      またの機会に また 古墳のお話を…だって、私の近くの「御所山古墳」

     現在 文化庁の調査が入って 進行中!  謎解きも もうすぐです。

 

 

      

     

 

 


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。