オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

雨の田舎で・・・

2019-03-19 | Weblog

3/19(火) 昨日15時前に高知空港に降り立った。晴れて暖かった東京だったが、空港を出るとひんやりとした空気が漂い、薄曇りの空と黄砂か?霞が掛かったような風景が広がっていた。何時ものように妹夫妻に迎えてもらい、実家へと戻った。

               

天気予報どおり、夜更けから雨となり一時は強い雨脚が聞こえた。そして夜が明けたが、雨は降り続いている。まるで、今日はゆっくりと休めと私に語りかけるような雨が。午後から上がりそうだとのことだが、昼を過ぎた今も緩やかに雨は落ちつづけているのだ・・・。

こんな一日に思うのは過ぎ去りし日々のことか、捨てることができなかったちっぽけな情念や、埃りならぬ誇りのような我欲のことが甦る。先行きのことだけは何も浮かばぬが・・・。

帰る場所が、ところがある故にこうして戻ってくる。何もない暮らし、思い至ることがない人生、そんな生き方が理想だっが、いまだにそれができない。過去に、至らなかった人生に未だ縛られていきているのが我が現状である。ならば、それを抱きて今しばらく生きるしか術がない。

しっとりとながら、何かもの悲しげに降る雨を見ながら、過ぎ去りし日の、恥ずかしいばかりの日々の一ページを振り返ることにしてみたい。暇にあかせて。

 — 思い出酒場(1)—

アルコールには弱いが、なぜかそれはタバコと同じように大人への入り口、憧憬のようなものが幼いころから有ったようだ。小さいころから酒やビールを口にしては真っ赤な顔をしていた。

我が家の前に未だ商店があった頃のことだが、そこにお爺さんが居り何時も晩酌をしていた。未だ、2~3歳だったろうがそのお爺さんの膝の中で、晩酌の酒を舐めてフラフラしながら帰ってきたそうだ。微かにその記憶がある。

そんな子供時代を過ごした所為か。或いは何もない時代のこと、お客さんがあれば一杯振る舞うのが当たり前の時代に育ったからか。酒は常に身辺にあった。そういえば、七回忌が済んだが、親父は飲んでも顔色が変わらない酒飲みだった。

そんな育ちをした所為か、初めて自分で酒場に入ったのは19歳になる前のことで、静岡・三島市に下宿をした初夏の頃でなかろうか。三島・広小路にその店はあった。「BAR リラ」である。学生になって間もない頃のことである。

親元を離れ、ちょっと大人の気分を味わいたくて。その当時のリラは女性を何人かおり接待をする店であった。マスターは三十歳前後で、店を開いて何年も経っていなかったようだ。

田舎での若者を「学生さんかね!」と安いお金で飲ませてくれた。一番安い酒がトリスのショットグラスで100円だった。流石に百円だけ持って行くことは私にはできなかったが・・・。それができたのは、同じ下宿で長い付き合いとなるHOSOKAWAだった。

台風で大雨の降るある夜、やつは百円玉一枚を持ってリラに行った。ママの顔を見たい一心である。マスターは、いいよと飲ませてくれたそうだ。『馬鹿だねぇ~お前は。ママはマスターの奥さんに決まってるだろう!』と、百円一枚のことと合わせて奴を叱った。富山の出身と土佐出身の方が少しは世間が分っていたようだ。

それ以来僕らは、リラへは客(ともいえぬが)として毎月のように顔を出して遊んでもらった。マスターは兄貴のようで、ママさんは優しかった。世間知らずでお金のない学生に、お姐さんたちや他のお客からも親切にしてもらった。

三月に三島から東京の本校に移る。その時期が近づく年が明けてから、何かのきっかけでリラでバイトを始めた。カウンターの中に入ると、見える景色が変わる。変わるけれど、マスターもママさんも、お姐さんやお客さんも変わらず優しかった。短い間であったが、その中で様々な人間模様を知る。言ってはいけないこと、見ても見えないことを自然と知る。

東京に移っても年に何度か三島のリラに通った。何か居心地のいい空間と人々であった。それは、社会人になっても続いた。仕事が面白くないとき、東海道線に乗り向かう。リラで一杯やり、新幹線の最終で東京に戻ることも何どかした。

或る夏の休日前の一晩、遅くまで飲み、マスターの家に泊めて貰い、翌日海水浴に行くマスターの一家と牛臥の海辺で一日を過ごしたこともあった。子供たち二人は、小学の低学年であった時代のことだ。

その後、マスターは三島市の飲食業組合の理事長になった。組合創立25周年だったと思うが、記念祝賀会で歌手を呼びたいが、ギャラがと相談を受けた。うまい具合に、あのHOSOKAWAがTV業界に入っていた。その手蔓で、ちょっと売れた歌手を事務所抜きで呼ぶことができた。二人してその祝賀会に行くことになった。少しは役立ことが出来たか。

私の結婚披露の時には三島から来てくれた。その時の司会は、かの世間知らずだったHOSOKAWAだったが、奴もすっかり世慣れしていた。

          

上の軟式ボールのサインは、1976年1月に未だBAR だったリラを訪れて結婚する旨を報告した折に、マスターと当時バーテンだった裕二さんが記念に書いてくれたものだ。裕二さんも早くに亡くなった。この記念ボールは大事にしており、今も書籍棚に鎮座している。

「熱海の夜」という演歌がヒットしたときに、マスターから 聞かされたのは「歌ってる歌手、覚えてるだろう。よく流しにきてたけど」だったが、当時は歌に興味がなかったのか覚えていなかった。                        

そうして何年か経ち、BARリラはスナックに衣替えした。沼津から高速を下りた国道沿いに出来たショッピングセンターにカフェを開き、ママが切り盛りをするようになった。伊豆に遊びに行く途中、一度だけ立寄りママと話ができた。暫く振りであった。

そして何年かが経ったある日、ママさんからの便りが届いた。それには「癌で声を無くして亡くなりました」と書かれていた。ご無沙汰をしているうちに、闘病生活をされた末に逝去されたのであった。

伊豆急修善寺線の沿線にあると聞いていたが、そのお寺(竹林寺であっ経ってか)に墓参できたのはそれから数年が経っていた。沿線を通るたびにお墓の形が浮かぶ・・・。

マスターの名は、田村勝利さんと云う。三島田町駅前に喫茶「赤城」を、広小路に「BARリラ」を、そしてショッピイングセンターにカフェを開いた。喫茶店の名を赤城といったが、群馬県の出身との故である。

我が十八歳から十九歳、今はすっかり変わった三島・広小路にあったBARリラから、我が酒場巡りと世間を知る旅がスタートしたと云えるのだ。いい人に巡り合いスタートした我が酒場旅ながら、紆余曲折の待つスタートでもあったか?



 

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