オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

徒然に・・・

2018-11-20 | Weblog

11/20(火) 先ずは、今日の弁当から紹介します。今日は「肉じゃが」をメインにして「小松菜&茄子の煮浸し」「焼き鮭」と、出汁巻風の卵焼きにした。相も変わらずのメニューだが、勘弁願うしかない。

         

 

さて、今日のテーマは徒然なるままにだが、帰郷などで暫くブログを記さずにfbの方に偏っていた。そんなこともあり、ここ数日の出来事など踏まえながら感じたことなど記したい。先ずは、金曜日のことから・・・・。

 ― 占い ―

金曜の夜、親しい友人との歓談を終えて気持ち良く帰路についた。日比谷線の車中のこと、携帯にメールが届いた。それが「あなたの運勢占います」であった。普段ならそんなものは無視、直ぐさま削除ゴミ箱行なのだが、この時は気分が良かったせいか示されたアドレスを押した。すると、必要項目の投入と、30分後ほどに占い結果が配信されるとでた。

そろそろ恵比寿に着くかと思う頃に、占いの結果が配信された。

それには「なたの来年の運勢は最高です」とあり、占いの向こうに見えるのは「あなたが雰囲気のいい店で妙齢の女性と愉しげに会話をされているシーンです。次に見えるのは、とある銀行のロビーにいるあなた。明細書を目にして満足気に頷いている姿です」とある。

そうか、来年もいい年になるんだ。と、ほろ酔いの頭で満足げに頷いたのであった。これまで悪い年はなかったし、来年はさらに良いとは・・・・。気分が良かった。ここまでは。

然し、メールはつづいており、更に詳しく知るために次のメルアドへと促される。されど、これ以上のことを聞いて、どうすんのよ!。無視した。これからがテーヘンとなった。メールはしつこくつづく・・・・。サービスで映像を添付したので見てくださいとか、昨日辺りから届くのは、格安、大サービスですのでとか。一時間に一本ぐらいにメールが送られてくるのだ。全て無視、ごみ箱行だが、そのうち「不幸のメール」なんてのが送られてくるんじゃねぇかな

占いの内容も、同じようなものを何万人、何十万人に送っているだろう。その中から気を良くしたり、しつこさに負けたのが、会員になったりお金を払うのであろう。こう云う商売が成り立つのもネット社会ならではのことか・・・・。気分のいい占いだったとのに、お後がよろしくないことになった次第。

占いは、これまでの人生で記憶する限り4~5回見て貰ったはずだ。一番最初は二十代のころに三島市の路傍にテーブルを出していた高嶋易占いだっか。そして、新橋の烏森通りの女占い師、横浜は中華街にある易者が大勢いるところで、ビルの前に張りだしていた占い師から「いい相をしてますね」と呼び掛けられたとき。最後は、数年前に函館にてHASHIMOTO君と歩いている時のことだった。

何れもお酒を飲んだ夜のことで、見料は千円しかはらっていない。千円分の見料ながら、良いことしか聴かなかった・・・。

占いのついでの余談を・・・・。以前にも書いたことで恐縮だが。我が父は八十九歳の歳に亡くなった。その父が若き日の占いに関する話である。

終戦の年の五月も下旬のことであろう。岩国航空隊で飛行教官をしていたそうだが、愈々敗戦も色濃くなり教えるにも飛ぶ飛行機もなくなった。自分たちも特攻に行こうと教官仲間で志願した後の休日。広島市内に教官仲間で外出した。路上に易者を見て、初めて易をたててもらったとのこと。

「あなたはいい手相をしている、九十まで生きる」と、言われたそうだ。それを聞き、仲間と大笑いをしたそうだ。これからと特攻に出ようと云う中で、九十歳まで生きると占われても・・・・。と云う次第であろう。

あに計らん、岩国から特攻基地の串良航空隊に転属。戦況はますます悪化の一途をたどり、昼間の出撃はできず専ら月の出ない夜間の出撃で沖縄方面に向かったそうだ。

そして、串良で終戦を迎えて九死に一生を得た。その日のうちに岩国の本隊に帰隊して解散。自分が使っていた飛行機で高知空港まで帰ったと云う。中学時代から下宿していた安芸市内の姉の家に帰ると「おまん、足があるかよ?」と、姉に言われたそうだ。

年老いてからの親父は、死ぬはずだった戦地から戻ったことで「九十まで生きる」と、易者から言われたことが自慢で、酔うとそのことを話した。それがあったので、葬儀の折以来、あと一年だったのにちょっと早かったと思いつづけていた。然し、親父が生きた時代は、数え歳での年齢だったと、先般の法事の折に墓誌を見ながら思い至った。さすれば、易者の言ったとおりの年齢である。『易者の云ったとおりの年齢じゃないか』と、安らいだ気分になった。

  ― 命日 -

先日の日曜日、11月18日が亡父の命日であった。法事を前週の日曜日に済ませたのだで、今年の命日は初めて東京の自宅に居た。線香をたてて、親父を偲んだ。

若くして片田舎の郵便局長となり、その生涯であった。田舎なれど、優秀な業績をつづけたようで大臣表彰の表彰状が沢山残っている。郵務の傍ら(?)、幼少より習った剣道を生涯の友とした。わが母校でも師範として教えたが、地元の安田町で剣道教室を開き、大勢の子供たちを育てた。自身も、国体や都道府県大会の大将や監督として出場した。

郵便局を退職した後は、書道を本格的に始めた。一日に五時間も六時間も筆を手にしていたようだ。その成果か、各地の書道展で賞を貰っている。剣道と、老いてからは書道が加わり、その二つを生涯の友とした。剣道の防具類はすべて弟子たちに形見分けしたが、書道の教本や筆類は未だ残っている。

親父は権威主義的な処があり、そこは嫌いだった。ただ、一途に道を進む熱心と、田舎人ながらも気位をもった人生は、認めなくてはならいと思っている。酒は、私の十倍は飲んでいるので、これも認めなくてはならない

私は、残った書道の道具を使う気に未だならない。早晩同行の志に譲った方がよさそうだが・・・・。

父が亡くなったのは同じ日曜日、前日の土曜日の午後、「退院の日には戻るから」と見舞ってから帰京。日曜日の昼過ぎ、独り会社に居たら妹から電話が。急変したので、これから病院に行くとの連絡であった。夕刻の羽田空港に着いた時には既に亡くなっていた。後に、心臓外科手術の名医にその話をすると「手術の失敗ですね」だった。

そんなことを思いながら、99%の成功率と言われた、弁膜症の術後二日で急死した父を偲んだ日曜日であった。親父はおやじらしく、立派に生きた。今だから思える、云えることである。

 ― 京都からの・・・ -

昨日の夕、京都・宇治市に転居した友人?知人?知り合いというか、そんな女性が人形町に来た。娘と生まれて間もない孫と、七年前の福島原発事故を契機に東京を脱出して縁のない地に転居したのだ。

魚がいいと云うので「うまし」に案内し、カウンターで近況を聞きながらの一杯。「還暦になりましたよ」と云うが、『東京に居た頃と全く変わってないねェ』というぐらいに、変わってない。相変わらずコロコロとした体型にまん丸の顔をしていた。

母の見舞いと、孫娘をディズニーランドに連れていくとのことだ。宇治の暮らしを訊くと、「食べ物がおいしくない。焼き鳥屋もなの」と云う。仕事はと訊くと、共済の営業をパートで始めたと言う。で、賃金は?「安いのよ、千円ぐらい」と云う。一日、四時間のパートタイム営業で、一年生になった孫の相手で楽しいそうだ。

宇治では仕事も少なく、賃金もメチャ安いとのこと。それにスーパーに行っても魚もなにもかも良いものがないと嘆く。『それやぁ君が貧乏で、安いとこしか行かないせいじゃない?』まぜっかえしたが、本当らしい。精々沢山食べくれよと、串焼きや刺身、一番先に食べたいと言った「ブリ大根」を美味しそうに食べた。

彼女はOKAYASUさんといい、知り合ったのは十六年前になる。サラリーマンを辞めてから、気分転換を兼ねて雇用保険事業の再就職者のための学校に三月近く通った。その時に、PC授業で座った席の隣にいた、オバサン二人組の一人であった。

一年ほど経ってから、その当時のメンバー、十数人で懇親会があった。その時に、「何か、仕事ないの?」と聞かれ、『掃除ならあるよ』応えた。と、掃除なら出来るよと云うので、休日に掃除に来て貰うようになった。5~6年、掃除に来てくれた。TUGAWAさんは、社長の席よりも、従業員の処を綺麗にしなさいと言ったそうだ。が、僕の処が一番きれいになったようだ。それは、デスクが片付いているので掃除がしやすかったことにあるそうだが。

そんなご縁で、彼女が京都に移り住んだ後も、年賀状のやり取りだけはつづいた。『東京に来る時は連絡頂戴、飯ぐらいご馳走するから』と、書き添えて。

学校に通っていた当時のこと、私が隣の席に着いた時、オバサン二人組は「怖そうな人が来たね」と言いあったそうだ。バカだねぇ~、俺は仏のARIさんで通っているのに・・・。お酒がすすむうちに、「谷村しんじみたいになったわね、昔は渡瀬恒彦みたいだったのに」なんて言いやがる。そばにいた女将と大笑いになった。

何時の間にかカウンター席に、ローカーボの飲み仲間NUMATAちゃんが来ていた。一緒に飲もうとなり、NUMATA節が炸裂。OKAYASUと別れ、NUMAちゃんと「ローカーボ」へと流れた。暫くすると、マッチャンとHOYA兄いが加わる。流れと云うか「セイジュ」へとなり、四人はパトロール隊からカラオケ合唱隊に変身していた。

                      

              豪華メンバー、黄金トリオ?    マッチャン    ヌマちゃん    HOYA兄い

 

この前、、友人から好きな曲を聴かれたが応えられなかった。昨夜や、その前に唄った曲を思い返すと「吾亦紅」「風の盆恋歌」これがべストか、最近では誰も知らない「酒場」っていう冠二郎の歌を唄うようになっている。どれを唄っても下手の極みだが・・・・。

今宵は、品川駅そばの安酒場にて、後輩のTAKAHASHIと某社の監査役で飲むことになった、依然は時折ご一緒したが、誘いを受けながら暫く同席してなかった。昨日、連絡を貰い、顔を出すことにした。今夜は、早く帰れるかな?。

 

 

 

 

 

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