オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

隅に移動・・・・

2018-08-03 | Weblog

8/3(金) 7月31日に席を移動した。広いデスクから隅に置いた小さな机が暫しの居場所となる。明けた8月1日から席はあれども籍はなしの状況となった。一応「顧問」などと云う名刺を頂いたが校門若しくは肛門程度であろう。どうせなら黄門様と呼ばれるぐらいがいいのだが、それは高望みと云うものだ。

7月末に、年賀状をお出ししている皆様に『暑中お見舞い』の葉書にそえて、会社退任のご挨拶を書き添えた。思いがけずに若かりし頃の上司や、先輩・友人・知人から電話やメール、お便りを頂いている。こんなバカヤローの罰当たり野郎に親切な言葉を下さる。感謝に堪えない。

何れ忘れ去られる身ながら、今一度お世話になった皆様にご挨拶が叶えば嬉しい。その最初の旅は、金沢になりそうだ。昨夜のメールの中に、長い付き合いのIMAI氏からのものがあった。それを読み、故大澤重樹さんの墓参が浮かんだ。昭和59年5月、金沢電話局長に赴任されて間もなかったが亡くなられた。膵臓癌だったように記憶する。

IMAI氏の仲人が大澤さんだった。本社資材局用品課に在職した当時、課長として大澤さんの下で二年間仕えた。その後、大澤さんは業務管理局管理課長を経て、59年1月の半ばであったろうか、金沢電話局長として錦を飾られた。早朝の羽田空港に、IMAI氏と一緒に見送りに行った時のことうを鮮明に覚えている。

その3月下旬、義妹の結婚式で金沢に行った。金大病院に入院されていた大澤さんを見舞いに訪れたが、外泊で自宅に戻られていた。その晩に電話で「アリサン、スマンナ」の声を聞いたのが最後となった。大澤さんが発たれる時に『三月に義妹の結婚式があるので、お伺いします』と伝えてあった。

亡くなれた後の数年、IMAI氏と金沢に墓参した。車を出してくれるの北陸通信局で係長、課長を務めた仲間のMURAI氏だった。そのMURAI氏は、胃癌で手術をしたとのことだが、予後はよさそうだ。

また三人で墓参しよう、奥様も随分御歳を召された。これが最後になるかもしれないから。退職祝いに一杯やろうの誘いから、そんなメールのやり取りになっていた。

用品課に赴任した最初の課長はNAGAOさんだった。もうすぐ93歳になられると、昨日届いた毛筆の便りにあった。丁重にも、私の挨拶状に労いの返事を下さった。立派な上司と先輩達がいた時代のことである。

不思議でならないのは・・・、こんな立派な上司や先輩に恵まれながら、なんでオイラは駄目野郎かと云うことだ。世の中、上手くいかんもんだ

ついつい昨夜のメールなどからこんな話になったが、記しておきたいことは未だまだある。後日、わが反省の半生にも触れてみたい。

 

弁当が三日分も溜まったが、昨日や一昨日のことなど忘れてしまった・・・・。写真だけは撮ってあるので紹介する。

8月1日、「豚肉と野菜の炒め物」「竹輪胡瓜にオクラ」「蕪&胡瓜の塩麹和え」「鮭焼き」「卵焼きと糠漬け」であった。

                    

8月2日、残りご飯があったので「海老炒飯」となった。菜は「小松菜&オクラに薄揚げの煮浸し」「塩鯖焼き」「蒲鉾&炒り卵」、以上である。

                 

 

そして今日、8月3日(金)であるが「五目炊き込みご飯」に「豚バラと野菜の炒め物」「胡瓜&茗荷の塩麹揉み」「鮭焼き」「竹輪胡瓜」「小松菜の卵炒め」「卵焼き」、以上である。義母は、炊き込みご飯や炒飯などの加工したご飯が好みのようである。家人は違うが・・・・。

        

 

 

 

 

コメント
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