オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

雪・ゆき・ユキ

2014-02-09 | Weblog

2/9(日) 昨日の未明から降り始めた雪は、夜までつづいた。雪に弱い東京のこと、某TV局などは一日中雪のニュースを流していた・・・「他に放映するものがあるだろう、バカやろう~」と云うう感じだが、それを見ていた私は、輪に掛けたアホと云うことか。

TVと云えば、最近は地上波が面白くないのでBS放送が専ら。番組制作会社の友人Hが、自ら認めるように碌な番組がない。そんな訳で、雪に振り込められた昨日は、金曜日の酒の余韻を引きづりながら本を持って一日部屋に垂れ込めていた。

金曜日、人形町からほどちかの秋葉原に勤めている末娘と一杯やることにした。娘も同じ日比谷線で通勤なので、人形町の行き付けの酒場で飲むことにする。折角の機会なので、長男小僧も呼び小言を垂れながらの家族酒である。

先ずはショットBARの雰囲気の「ローカーボ」で末娘とワインとハイボールを始めた。入り口のL字カウンターの端が指定席なので、先ずは此処に陣取り赤ワインを、マスターのホットにしますか?の声に釣られて、それも飲んだが、美味くはなかった。普段、摘みを取ることはないが、娘は腹減ったとちょこちょことオーダする。カウンターに置いた私の札が、みるみる少なくなって行く。が、そこはぐっと堪えるしかないオヤジの辛さ・・・。

                       

我が家の呑み助は、長女と末娘だけ。家人や次女・長男はからっきしダメなのだ。私の親父も家人の父も大酒飲みだったが・・・遺伝子が違ったようだ。遅れて小僧も加わり、一卓だけある奥のテーブルに移りオヤジの小言付きの盛り上がらぬ酒となった。

                       

                    「おめ~よ、そんなことでどうするんだ」と、云うようなシーンか?

長男は先に帰り、娘と二人で「ちょっぷく」に移動する。と、ここに常連で飲み仲間のH氏が居た。娘と一緒と分かると、土産にとスタバのパンケーキを買ってきた。以前、私の誕生日の折にもそのようなことがあった。妙に気遣いをする人なのだ。私のスタバ嫌いを知らないようなので、今度、キッチリ伝えよう・・・。

娘が帰った後、H氏の言に従って「Seiju」に流れてカラオケとなった。そんなことで、金曜日の帰宅は24時であった。この時点では未だ雪は舞っていなかった。

明けて土曜日は、雪が舞って雪国のような様であった。これ幸いと、朝飯を喰いながらビールを飲む。後は本を読みながらのうたた寝がつづいた。極楽トンボの一日を過ごした次第さ。

そして今日の日曜日は雪掻きだ!と思っていたが・・・。なんと、我が家の左右100mに渡って道路の雪が綺麗になっていた。朝から外でガリガリ、コリコリと音が響いていたが、我が家の真ん前に拠点を置いた線路工事会社のメンバーが雪掻きをしたようだ。深夜明け方を問わず車の出入りがあるので、住民サービスと云うことだろう。大助かりだが、私の仕事が無くなった・・・。

              

10時を過ぎると梢に積もった雪が解けた、河津桜の蕾が二三輪咲きはじめていた。昨夜の雪と風に凍えていた姿とうって変わった春の装いである。

ぬかるんだ雪道を行くと、通りの軒先に綺麗な雪ダルマが設えられていたが、一時間後には溶けはじめて頭をうな垂れ、お辞儀姿となっていた。

                          

都心では二十年ぶりの大雪とか。昭和59年の二月、辞令を貰って着任早々の大雪が当時の部長の引っ越しと重なり、雪掻きをしながら引っ越し手伝いをしたこと思い出す。近所の運送屋さんでスコップ借りて雪掻きをしたが、そのスコップの柄が折れてしまい新品を買いに行く羽目になった。笑い話である。

或る冬の雪では、当時住んでいた社宅から都立大学の駅に向かう下り坂が滑るのでゴルフシューズを履いて駅まで行ったこともある。また、若かりし時に降った春の大雪は、ソメイヨシノは既に終わり牡丹桜が咲いていた。それを雪がすっぽりと覆った。この時、ラジオの深夜番組で『旭川は未だ、雪に埋もれているよ。東京はそれぐらいの雪で大騒ぎして・・・』と、投稿が読まれた・・・。

南の国で育った私には、雪国のこと暮らしは分からない。それでも雪掻きの、雪下ろしの大変さは想像はできる。雪国の友人たちよ、屋根から落ちるなよ、腰痛めるなヨ・・・。

 

 

 

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