8/16(日) 昨日、三嶋大社の夏祭りを観に三島を訪れた。
三島市は十代の終りに一年ほど暮らし、その後も何度となく訪れている街ではあるが、三嶋大社の祭り見物は初めてである。
そもそもが、祭りのような賑やかなものを好まない。皆が血を騒がす場から一歩離れている、そんな性癖である。とは云いながら、祭りが嫌いなわけではない。
大社は、源頼朝が挙兵の弊を立てた神社、伊豆の国の総社であり2000年の歴史が有るとやら。8月15日~17日の三日間が夏祭り。駅前から既に祭り一色の装い。
本殿はこの奥
16日は頼朝の武者行列、17日は流鏑馬も行われるそうだ。私が訪れた15日、少年剣士達の奉納試合が行われていた。
未だ町や村に人が暮らし、一族・家族、地縁・血縁が存在した時代、日本の至る所で祭りが行われ、五穀豊穣・平和と安寧を祈る歌舞・相撲が奉納されていた。酒が酌み交わされ、若い衆は酔って喧嘩し、山車と山車がぶつかり合い興奮し、一時マグマを発散させた。
時代とともに変わったか、そんなことを思いながら境内を歩く。境内から町に抜けようとしていると、石段の上に落ち葉がひとひら舞落ちた。落ち葉に油セミの抜け殻が捉まっている。人の足に踏み潰されるのが忍びなく、振り返り拾い上げた。
すっかり三島の名物となった「うな丼」を食し、ビールを飲む。
広小路から三嶋大社に続く通りは、各町内の山車が軒を競い、ピーヒャラ・テンチキと鳴り物も賑やか。
広小路駅前 提灯が綺麗だ 山車
折角、三島に行ったので昔暮らした下宿を訪ねてみた。代替わりがし、廻りもすっかり変わっている事は承知していた。十年も前か、一度訪ねたが分からなかった。
今回は、タクシーの運転手に凡その場所を伝えたところ承知していた。
私達16人が暮らした下宿「藤江荘」は、後ろに小山があり前は田圃、左横は柿の木畑。右横に門構えの本家があった。下宿は、隠居した爺・婆が運営し、賄い風呂付きであった。
小山も田圃も畑も全て住宅に様変わり、家々が立ち並んでいた。あの頃、小学生だった子供が家を継ぎ、仕事場を設けていたが不在であった。
下宿を離れてからも何十回と三島は訪れていたが、何故か藤江さんを訪ねることはなかった。
本家には爺婆の長男が地鳶といわれる土建業を営み、オジサン達と私達と同じか、少し年下ぐらいの若い衆が何人かいた。
仕事が忙しい時、下宿人にアルバイトの声が掛かった。このバイトに行く奥さんが洗濯をしてくれたが、労働のきつさに皆一度で懲りたようだ。何故だか、私だけは何度か付き合った。
仕事が終り、戻ると夕食と酒が本家で賄われた。中学を出て3~4年の若い衆と一緒にオヤジさんの話を聞きながら酒を飲み飯を喰った。そろそろ下宿を巣立つ頃、その酒の席で若い衆を指して、何度か言われたのが「お前が一人前になったら、この連中の面倒みてくれよ」だった。何故だか「分かりました」と応えていた。
そんな約束を果たす事が出来ないのを気にしたか、或は、奥さんがその後、家を出たという話を耳にしたからか、立ち寄る事はなかった。オヤジさんも大分前に亡くなったと風の便りに聞いた。
すっかり様変わりをした辺りを見回しながら、改めて墓参に訪れようと思った。