徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

粗製乱造内閣から在庫一掃内閣へ―いよいよ民主政権末期の予兆が?!―

2012-10-05 17:00:00 | 雑感

天高く馬肥ゆる秋、いよいよ秋本番だ。
世の中、何があろうと、ただ時だけは慌ただしく過ぎてゆく。

野田政権発足1年、また目まぐるしく閣僚が変わった。
これまでも、粗製乱造、たとえば少子高齢化対策担当大臣は、民主政権となってから3年半で10人(!)も交代している。
こんなことが、何故、平然とまるで慣例のように行われてきたのか。
このことが、即政権の弱体化(もともと弱体なのだが)でないと、誰が言えるか。

野田第三次改造内閣は、在庫一掃内閣(通称破れかぶれ内閣)だ。
え~っ、「論功行賞内閣」なんていうものではない。そんな言い方はやめてもらいたい。
人気凋落、明日をも知れぬ内閣にあって、議員たる者は、たとえ一日でも大臣の椅子に座って箔をつけたいのだ。
何しろ大臣ともなれば、美味しい特権がぞろぞろあるのだからこたえられない。
そこをねらって、誰もがあの手この手でしのぎを削るのだ。
何とあさましい世界か。

しかも、何ですって・・・?
新閣僚の法の番人たる田中法相に、発足早々政治資金規正法に抵触する疑惑が発覚し、法相に続き樽床総務相にも怪しい献金疑惑が発覚した。
出るわ、出るわ、どんな事情であれ、お粗末きわまりない。
居直りなどせずに、さっさと辞任し、ぼろぼろ内閣は総辞職か、解散すべきだ。
この政党も、一体何をやっているのだ。
誰でもはたけばほこりぐらい出ると、たかをくくっていれば済むという問題ではない。
ゆるみきって、腐りきった体質の政治屋もどきの言い訳など、聞きたくもない。
「論功行賞」が聞いて呆れる!とんだ「論功行賞」だ。

いつも言うように、政治家とは名ばかりで、ほとんどの国会議員が政治家ならぬ、八百屋さんや魚屋さんと同じ政治屋さんなのだ。
とてもとても、天下国家のために、自分の身を賭してまでという、手合いではない。
今や、そんな律儀で清廉潔白な政治家は、どこを見ても見当たらない。
どうしようもない、嘆かわしい世の中だ。
選ばれた国会議員のひとりひとりが、一体何をしたいのか。
今まで何をしてきたか。
振り返れば、一国の総理からして、大言壮語、言うだけは立派だが実行力に全く乏しい。

国民の意見に、謙虚に耳を傾ける議員も少ない。
要職につけばつくほど、その傾向は強いように思える。
何のため、誰のための国会議員かということになる。
虚言妄言が多く、いつも人をだまし、それだけでも悪辣この上ない。
調子のいいことばかり言っている。
弁舌がどんなに爽やかであろうと、上手であろうと、そういう人ほど信用できないものだ。
口先では、何とでも言える。
危うい表現はすべてごまかし、後からどうとでも取り繕えるようにようにしている。

衆議院の解散も、「そのうち近いうちに・・・」だ。
言っている本人は、任期満了までと思っているらしい(?!)から、驚きだ。
日本人なのに、日本語をまともに使える議員が少ない。
詭弁を弄する人間の、何と多いことか。
誰も信用できないし、政治も信用できない。
哀れなのは、国民である。

福島は、復旧、復興の目途もたたない。
原発は、再稼働、再建設へと進み始める。
止める気などさらさらない。
政府の国民無視の方針に、怒り心頭だ。
何を訴えても馬耳東風、泣こうが叫ぼうが一切お構いなしである。

沖縄のオスプレイ配備にしても、あれほど地元が反対している中で強行した。
安全確認も十分でないのに、安全は確認できたといって・・・。
ふざけるなと言いたい。
担当大臣も政府の犬みたいだし、結局はアメリカの言いなりだ。
沖縄の人たちが、本土を恨むのももっともだ。
独立国家なのに、アメリカの属国みたいに日本中に米軍基地があるなんて・・・。

いつでもどこでも、民意は二の次である。
誰のための政治か。いや、政治が機能していないということだ。
政府の強引すぎる政治手法が、目に余る。
これで、日本は民主国家といえるのだろうか。
民主党は、まるで第二自民党ではないか。

衆議院を近いうちに解散すると言っておいて、野田首相にはそんなそぶりも見えない。
みんなペテン師の一族か。
国民は騙されてはいけない。
偉そうな顔をした、口先ばかりの嘘つきたちが、永田町の赤絨毯の上を、我が物顔で跋扈している。
与党も野党も、みんな同じだ。
昔も今も・・・。
何にも変わっちゃいない!
何にも!

いずれは総選挙が行われ、どの党も過半数を獲得できないといった状況は、十分考えられる。
また自民政権に逆戻りするなんていうことを予想して、国会は何やらがさごそと慌ただしい。
新内閣の顔ぶれといい、自民総裁選の顔ぶれといい、新味も覇気も感じられない。
毎度繰り返される、茶番劇である。
苦労知らずの二世三世や、理屈ばかりこねている松下政経塾出身者らの、散々見飽きた顔の政治屋たちだ。
彼らは、いつも独自の(?)主義主張をお題目のように、機械的に唱え続けてている。
いかなる事情であれ、自ら退場した舞台へ再登壇した元首相の良識も疑う。
あれやこれや、あいも変わらず、それをマスコミがちやほや煽り立てている。
この国は、どこかおかしい。
どこか狂っている。

そもそも、「国民の生活が第一」を掲げて登場した民主政権は、一体何をやったのか。
やろうとして出来なかったのは、やらなかったことと同じだ。
国民の期待を見事に裏切った、民主党の変節、変質、無能に、国民は怒っている。
確かに、長い自民政権の負の遺産をいやがうえにも引き継がされ、与党経験のない民主党政権にはこの荷はいかにも重過ぎた。
一国の政権を完全に担うには、それなり時間も必要だが、時計の針はまた逆戻りするのか。
これからも、まだ当分(?)は何もできない無能政権が続いて、来たるべき総選挙後の政界は、大混乱となるだろう。
そして、国民の生活にも、間違いなく、先行きの見えない未曾有の混乱が始まることを、いまから覚悟しなくてはならない。
この国の政治には、ほとほと愛想が尽きるが、選挙で誰を国会へ送るかは、有権者の一人一人がよくよく考えないと・・・。
いよいよ、民主野田政権末期の予兆か。


映画「さあ帰ろう、ペダルをこいで」―故郷に帰る旅、そして自分を取りもどす旅―

2012-10-03 10:15:00 | 映画


 国家の歴史に翻弄され、離ればなれになった祖父と孫・・・。
 ドイツから故郷のブルガリアへ、その二人が家族の歴史をたどる旅である。
 そして、失われた時間と二人の絆を取りもどす、心温まるロード・ムービーだ。

 確かに、人生はサイコロと同じ、どんな目が出るか、それは、時と運と自分の才覚次第だとは、ドラマの中での祖父の言葉である。
 ステファン・コマンダレフ監督の、ブルガリア・ドイツ・ハンガリー・スロベニア合作映画だ。
 こちらの国の映画と聞いただけでも、大変珍しい作品ではないだろうか。









     
1983年、アレックス(カルロ・リューベック)一家は、共産党政権下のブルガリアからドイツへ移住した。
それから25年後、ブルガリアへと里帰りの途中で、一家は交通事故に遭い、両親は死亡した。
そして、アレックスは記憶喪失になってしまった。
孫を心配して、祖父のバイ・ダン(ミキ・マノイロヴィッチ)が、ブルガリアからやって来た。
アレックスは、自分の名前すら覚えていなかったし、もちろんバイ・ダンのことも知らない。

祖父バイ・ダンの提案で、アレックスは二人乗り自転車で、二人はヨーロッパ横断の旅に出る。
目ざすのは、祖国ブルガリアだ。
アレックスは、幼いころ手ほどきを受けたバックギャンを、再び祖父から教えてもらいながら、故郷を目指した。
バックギャンというのは、世界最古のボードゲームのひとつで、2つのサイコロと15のコマ(チェッカー)を使って進めるゲームで、ルールは難しくないが奥が深く、遊戯としても世界各地でトーナメントが開催されているそうだ。

故郷へ向かう途中でそんなことをしながら、アレックスは自分自身の人生をもう一度たどり始める。
そうして、家族の歴史をたどることで、失われた時間を取りもどそうとする。
・・・やがて、すべての記憶を取りもどすことになるのだが、ある日アレックスが目覚めると、バイ・ダンはバックギャモンのゲーム盤と二人乗りの自転車を残して、ひとり列車でブルガリアへと帰っていた。
祖父を追いかけるように、ブルガリアへようやくたどり着いたアレックスは、昔バイ・ダンと通ったカフェへ出向き、バックギャモンの勝負を挑むのだった・・・。

旅の途中、バイ・ダンとアレックスは、祭りで賑わうキャンプ場に一泊するが、そこで出会った美しい女性ダンサー・マリア(ドルカ・グリルシュ)恋したアレックスは、彼女と一夜を共にし、自分の身の上を語るシーンがある。
一夜明けると、アレックスはマリアと別れ、最終場面で彼女との再会の時を迎える。
このシーンもいいようなく微笑ましいし、バイ・ダンとアレックスの祖父と孫が、父子のように心を通わせていく過程が、爽快感があってとても温かく感じられてよい。

ヨーロッパとアジアの入り混じった、小さな田舎町で始まるこの物語「さあ帰ろう、ペダルをこいで」では、この旅の案内人バイ・ダンを演じるミキ・マノイロヴィッチが郷愁を誘う演技を披露し、実にいい味を出している。
円熟の味である。
1971年に両親に連れられ、ユーゴスラビア、イタリア、ドイツへ逃げ、ミュンヘンで政治亡命者として保護を受けたといわれるブルガリアの作家、イリヤ・トロヤノフ(原作)が、ほんわかとしたユーモアに満ちた、ちょっと不思議なストーリーを生み出した。
本作の原題は「世界は広く、救いの手はすぐそこにある」で、劇中で幾重にも語られる祖父バイ・ダンの人生哲学にも納得だ。
年間製作本数7、8本という、ブルガリア映画界の新鋭ステファン・コマンダレフ監督は、この作品が長編2作目だそうで、ソフィア映画祭で上映された会場では涙と笑いが溢れるほどの、珠玉の作品として歓迎された。
ささやかな感動を呼ぶ、優しさに満ちたいい作品である。
    [JULIENの評価・・・★★★☆☆](★五つが最高点