花ぐもりというのだろう。薄い雲の上にぼんやりと日が透けて見えながら、空は一面にくもっていた。ただ空気はあたたかい。もうこの間のように、つめたい北風が吹くことはないだろう、と野江は思った。 ( 藤沢周平 「山桜」冒頭 )
藤沢周平の文芸作品が、新たにまた映画化された。
失意の日々を毅然と過ごす人々を描いて、人気を集める時代小説だ。
短編集「時雨みち」の中におさめられた、一編である。
・・・手元にあった新潮文庫を、もう一度読み直してみた。
藤沢作品というと、これまでも「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」「蝉しぐれ」「武士の一分」が映画化され、今回の作品で5作目となる。
篠原哲雄監督のこの作品「山桜」は、驚くほど原作に忠実かつ丁寧に仕上げられた映画となった。
「山桜」は、藤沢作品の中でも、わずか20頁の短編ながら、よくまとまっていて、異才を放つ作品だ。
初の時代劇出演になる田中麗奈と、三年ぶりにスクリーンに登場する東山紀之の主演で、感覚もみずみずしく、原作どおりたおやかに映画化された。
「はつ恋」で田中麗奈の魅力を引き出した篠原監督は、本作で時代劇初挑戦だ。
庄内の美しい四季と澄んだ空気の中で、主人公磯村野江(田中麗奈)は、運命に立ち向かっていく。
とりかえしのつかない道を選んでしまった絶望を越えて、野江は自ら光明を求めつづける・・・。
江戸末期、北の国、海坂の地・・・。
うららかな春の花曇りのもと、ひとり野辺を歩く女野江がいた。
野江は、最初の夫に先立たれ、勧められるままに磯村家に嫁いだ。
しかし、家風になじめず、辛い日々を送っていた。
叔母の墓参の帰り道、薄紅色の花が一面に頭上を覆う山桜の下で、一人の武士(東山紀之)に出逢った。
このくだりを、藤沢周平の原作から引用させていただく。
・・・指先にふれた枝があった。だがわずかにつかめない。野江はよろめいて、もう少しで下駄の緒を切りそうになった。そのとき、不意に男の声がした。
「手折って進ぜよう」
その声があまり突然だったので、野江は思わず軽い恐怖の声を立てた。
男はそんな野江の様子にはかまわずに、無造作に頭上の枝をつかんだ。二十七、八の長身の武士である。いつの間にか、丘の陰から出て来たらしかった。
「このあたりで、よろしいか」
武士は振りむいてそう言い、野江がうなずくのを見てからぴしりと枝を折った。
渡された花を胸に抱いたとき、野江はようやく驚きからさめて礼を言った。そしてかわりに顔に血がのぼるのを感じた。あられもない恰好で、枝に手をのばしたところを見られた、と思ったのである。
赤くなった野江の顔を、男は微笑をふくんだ眼でじっと見た。
「浦井の野江どのですな。いや、失礼。いまは磯村の家のひとであった」
「・・・・」
「多分お忘れだろうが、手塚でござる。手塚弥一郎」
あっと野江は、眼をみはった。・・・
映画の中での映像も台詞も、原作にぴったりである。
原作を知らなかったら、そちらを思わず読みたくなるだろう。
弥一郎の名を聞いて、野江は驚く。
彼は、彼女が磯村家に嫁ぐ前に、縁談を申し込まれた相手だった。
秘かに見初めてくれていたとの話だったが、母一人子一人の家と聞いて、会うこともなく断ってしまったのだった。
野江をじっと見つめ、弥一郎が静かに口を開く。
「今は、お幸せでござろうな」
思いがけない言葉に、戸惑う野江・・・。
今の境遇を押し隠し、ただ 「・・・はい」 とだけ答える。
「さようか。案じておったが、それは何より」 と微笑み、弥一郎は去っていった。
山桜に引き寄せられたかのような、ただ一度きりの偶然の出逢い・・・。
自分のことを、どこかでずっと気遣ってくれている人がいる。
そう思うだけで、野江の胸の中にぬくもりが広がった。
この年も、海坂藩は飢饉がつづき、重い年貢で、農民たちの生活は困窮していた。
その窮状を目の当たりにした弥一郎は、ある決断をする・・・。
しかし、それは野江の運命まで変えるものだった。
・・・物語の終章で、野江は一年ぶりに、あの山桜の下に立つ。
花をいっぱいにつけた枝を手に訪れた先は、手塚弥一郎の家だった。
出迎えたのは、ただ一人、今でも息子弥一郎の帰りを待ち続ける、母志津(富司純子)であった。
志津からの、予想もしなかった言葉が、野江の心を溶かすように、優しくつつみこむ・・・。
「おや、きれいな桜ですこと・・・」
そして、ややあってから、志津はこう言った。
「いつかあなたが、こうしてこの家を訪ねて見えるのではないかと、心待ちにしておりました。さあ、どうぞお上がりください」
田中麗奈も、好演している。
二人を取り巻く人々にも、実力派俳優陣が一堂に会する。
心優しい父親を重厚に演じる篠田三郎、母親の深い愛情を表現する檀ふみ、悪役になりきった村井国夫らだ。
この作品は、原作そのものに、端正な香気のようなものが漂っている。
行間ににじむ心理描写を、台詞の少ないスクリーンで、“映像”と“間”で奥行きをもたせて表現している。
野辺の描写で示される、野江の過去は、その心象を風景に託している。
きめ細かい造形描写だ。
作家田辺聖子は、藤沢周平の小説をこんな風に評している。
「声高な主張ではなく、あくまでも清音で低い。水のように素直、端正な文章だが、品(しな)が高い」
小説 「山桜」 は、まさにそのことを実感させる作品だ。
野江に、弥一郎が山桜の一枝を手折って渡す微妙な心境は、日本映画でなければ描き得ないようなシーンだし、このあたり、藤沢文学の真髄といったものまで感じとれる。
庄内の冬景色も、、日本の原風景にふれて、絵画的な美しさだ。
優れた小説が、必ずしも優れた映画作品となるとは限らない。
小説は小説だし、映画は映画だ。
純粋で、品位の高い資質の作品ほど、映像化は難しいかも知れない。
「山桜」は、物語そのものに強いインパクトらしきものはない。
それを、物足りないと見るか、これはこういうものだと納得できるかは観客次第だ。
ドラマチックとは言えないし、どちらかというと、静謐な余韻をにじませた物語だ。
原作と出演者の顔ぶれもあって、やや映画人気が先行しているきらいはある。
良質の作品であることは認めるが、日本映画 「 山桜 」(←公式サイト)は、あまり期待すると、落胆するかも知れない。